第15話 王都崩壊の序曲―――愚か者たちの狼狽
ガルディニア帝国を襲った巨大な雨雲は、山脈を越えて隣国シルヴェニア王国にも深刻な被害をもたらすことになった。
叩きつけるような猛烈な豪雨が、シルヴェニア王国の王都を濡らす。 だが、この雨を「ただの嵐」と高を括っていた者たちの楽園は、突如として地獄へと姿を変えた。
「おい! どうなっているんだ、この数字は! 宮廷魔導処の技師どもは何をしている!」
豪華絢爛な宮殿の執務室で、アレクシス王子がテーブルを激しく叩いた。 彼の眼前には、かつてエレノアが整然と管理していた魔導水路の全域モニターが鎮座している―――その巨大な表示盤には、真っ赤な大水晶が、狂ったように暴走警告の光を点滅させている。
「わ、わかりません、アレクシス様! 上流からの水量が想定の三倍を超えていて……水路内の流速制御が完全に機能していません!」
蒼白な顔で叫んだのは、エレノアの追放後に「第一級宮廷魔導技師」の座に納まった男だ。男の隣では、エレノアの異母妹であり、彼女の手柄を横取りして着飾っていたクロエが、豪華なドレスの裾を震わせながら泣き叫んでいた。
「ああっ! アレクシス様、どうして水が止まりませんの? わたくし、ただボタンを押せば自動で調整されるって聞いていたのに……!」
「クロエ、お前も魔導処の副長だろう! なんとかしろ!」
「そんなの無理ですわ! こんな難しい数式、わたくしに読めるわけないじゃありませんか!」
逆ギレするクロエに、アレクシスは絶句した。
そう―――彼女たちが、
「ボタンを押すだけ
「誰でもできる地味な作業」
と蔑んでいたものの正体は、エレノアが地下室で不眠不休で並列計算を行い、ミリ秒単位で魔力出力を微調整し続けていたからこそ成り立っていた『奇跡の均衡』だったのだ。
流速補正もなければ、負荷分散の仕組みすら理解していない愚か者たちが管理を引き継いだ結果、水路網は数日間の放置で完全に詰まり、暴走状態に陥っていた。
ドゴォォォォォォン――!
次の瞬間、腹に響くような凄まじい爆発音が王宮を揺らした。
「な、なんだ! 何が起きた?」
「た、大変ですアレクシス様! 王宮の中庭にある大噴水が……魔導水路の水圧に耐え切れず、爆発いたしました!」
駆け込んできた騎士が悲鳴を上げる。窓の外を見下ろしたアレクシスは、目を疑った。
かつて王国の繁栄の象徴であった大噴水が粉々に打ち砕かれ、そこから黒く濁った泥水とヘドロが、噴火のような勢いで吹き出していたのだ。
泥流は美しい王宮の庭園を瞬く間に呑み込み、色とりどりの花壇を泥の海へと変えていく。それだけではない。王宮の高級な蛇口やトイレからも濁水が逆流し、豪奢な絨毯や壁を汚泥で染め上げていた。
「ひぃぃっ! 臭い! 泥水が私のドレスに……っ! アレクシス様、助けて!」
「黙れ、引っ込んでいろ!」
アレクシスはクロエを突き飛ばすと、胸元を力任せに掴んで技師を怒鳴りつけた。
「おい! 今すぐ水路の非常弁を閉めろ! 王都へ流れる水を遮断するんだ!」
「む、無茶です! 非常弁の制御術式には高度な暗号がかけられていて、解除鍵がないと動かせません! それに、今無理に弁を閉じれば、行き場を失った水圧で王都地下の水路網が全滅……」
ドォォォォン! ドカンッ!
技師の言葉が終わるより早く、王都のあちこちから連続して重い破裂音が響き渡った。
王宮の外―――王都の市街地の方角から、地鳴りのような悲鳴と怒号が聞こえ始める。
水路の圧力が限界を迎えた箇所から次々と爆発を起こし、王都の至る所で道路が崩落。溢れ出た泥流が、市街地や貴族街の住宅へと流れ込んでいた。
「水が出ないどころか、泥水が家の中に飛び込んできたぞ!」
「王家は何をしているんだ! おい、行政を出せ!」
街から吹き荒れる激しい国民の怒り。水害を未然に防ぐどころか、維持管理すらできずに国都を自滅させていく惨状に、アレクシスはガタガタと膝を震わせた。
「な、なぜだ……! なぜこんなことになる? 今までこんな事故は一度も起きたことがなかったぞ! なぜ急に……!」
頭を抱えて叫ぶアレクシスに、古参の老文官が青ざめた顔で絞り出すように言った。
「アレクシス殿下……お気づきになりませぬか?……今まで一度も事故が起きなかったのは、あのお方……エレノア様が、たった一人でこの広大な水路の暴走を抑え込んでおられたからに他なりません……!」
「……なっ?」
「あのお方は無能などではなかった……! 王国の全インフラを一人で支えていた、真の天才だったのです! そのお方を、貴方たちは『地味で何もしていない』と蔑み、追い出されたのですよ……!」
落雷に打たれたように、アレクシスは絶句した。
回想されるのは、冷たい地下室で黙々と計算を続けていたエレノアの姿。
「私がいなくなれば、水路が……」
と訴えようとしていた彼女を、
「言い訳をするな」
「お前のような無能の代わりなどいくらでもいる」
と吐き捨て、身一つで追放したあの日。
あれは言い訳などではなかった。ただの「事実の警告」だったのだ。
「そんな……バカな……。あの女一人がいなくなっただけで、我がシルヴェニア王国が崩壊するというのか……?」
アレクシスの顔から血の気が完全に引き、死人のような白さへと変わっていく。
「エレノアだ……! エレノアを連れ戻せ!」
アレクシスは血走った目で叫んだ。
「あの女を今すぐ引っ捕らえて来い! 土下座でも何でもさせて、この壊れた水路を元通りに直させればいい! おい、今すぐ捜索隊を出せ!」
「む、無理です殿下……!」
大臣が絶望に満ちた声で首を振った。
「先日、帝国からの極秘情報が届きました……。エレノア様はすでにガルディニア帝国にて、皇帝陛下直々の温かい歓迎を受け……『国家最高顧問』に着任されたと……!」
「て……帝国……? あのガルディニア帝国の、最高顧問だと……!」
アレクシスはその場にドスンと膝をついた。
世界最強の軍事と魔導を誇るガルディニア帝国。その頂点に立つ冷血皇帝ヴァルハイトが、自分たちが投げ捨てた「無能」を至宝として迎え入れたのだ。
取り戻せるはずがない。 自分たちが踏みにじり、捨て去った天才は、もう二度と届かない高みへと去ってしまったのだ。
「そんな……そんなはずが……っ!」
濁流の臭いが充満する崩壊した宮殿で、アレクシス王子は己の犯した致命的な愚かさに、ただ、ガタガタと震え続けることしかできなかった。




