第14話 恵みの雨が牙をむく―――自動負荷分散の驚異
大平原に水が行き渡り、南部地域が歓喜に包まれてから一週間ほどが経った頃―――。
それまで、干ばつをもたらすほどの日照り続きだった天候が急変した。
上空を覆い尽くした黒雲から、叩きつけるような猛烈な豪雨が降り注ぎ始めたのだ。 南部の山脈に降り注いだ雨水は濁流となり、怒涛の勢いで『南部基幹魔導水路』へと流れ込んでいく。
「最高顧問! た、大変です! 上流の観測地点で急速な増水を確認! 流量は平時の300%を超えています!」
統轄塔の管制室に、技師長バルトロの悲鳴が響き渡った。 モニター代わりの巨大な魔導表示盤が、赤く点滅し始めている。文官たちは青ざめ、慌ただしく書類を抱えて走り回っていた。
パニックに陥った現場では、怒号が飛び交う。
「300%だと! 全水門を開放しろ!さもなければ水路の壁面が水圧に耐え切れず爆砕し、平原の農地ごと村々が呑み込まれるぞ!」
「ですが技師長、下流の第十八〜二十四区画はすでに満水です! いま、これ以上の水量を流せば、今度は下流で氾濫が起きます!」
過去の帝国であれば、どれほど悲惨な被害が出ようとも、上流か下流のどちらかを「切り捨てる」苦渋の決断を迫られていたはずだった。
「あぁ……崩壊する! せっかくエレノア様が直してくださった水路が壊れてしまう!」
文官たちが頭を抱えて絶叫する中―――。
「落ち着いてください、皆様」
透き通るような、しかし一切のブレもない声が管制室を静まり返らせる。
いまや彼女のトレードマークとなった深青色の作業用ドレスを身にまとったエレノアは、乱れた前髪をサッと耳にかけ、白磁の手をメイン制御盤へと置いた。その落ち着き払った佇まいに、パニックを起こしていた男たちの呼吸が思わず止まる。
「エレノア様……! しかし、この水量は人知を超えています! いかに多重魔導並列術式と言えど、この物理的な水圧の暴力までは相殺しきれません!」
「ええ、真っ向から受け止めればそうなりますね」
エレノアは小さく頷き、静かに微笑んだ。その瞳の奥で、青銀色の幾何学模様が爆発的な速度で演算を開始する。
「ですが、受け止める必要はありません。―――これくらいの水量は、最初から、折り込み済みですから」
「え……? 折り込み……済み……?」
バルトロは、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をする。
「巨大なインフラを構築する以上、数十年、数百年単位で発生しうる『最大級の異常数値』を想定するのは当然の仕様です。……ご覧ください」
エレノアの指先が制御盤を軽やかにタップした。
「自動負荷分散―――発動!」
キィィィン……!
統轄塔の外で、可視化された濃紺の魔力波が円環状に広がった。 エレノアが事前に水路全域へ組み込んでいた隠しプログラム―――水量の急激な増加を感知し、リアルタイムで水流の負荷を自動計算・分散する『自律型バイパス制御』が起動したのだ。
「見ろ! 第一水門のバイパス弁が、自動で開き始めたぞ!」
「第十五区画の地下遊水池へのゲートが開放……水圧が分散されていく……!」
管制室の窓の外、怒涛の濁流となって押し寄せていた水塊が、まるで意思を持った生き物のように三つの異なるルートへとしなやかに分岐していった。
過剰な水圧は、エレノアが事前に「予備の貯水池」として設計・修復させていた地下の巨大空洞へと滑らかに誘導されていく。さらに、余剰となった水は勢いを削がれ、隣接する無人の乾いた砂漠地帯の地下水脈へと完璧な計算のもと流し込まれていった。
「圧力数値を自動感知し、ミリ秒単位でバルブの開度を調整している……! リアルタイムで指示を出さずとも、術式自体が『思考』して最適解を選んでいるというのか?」
文官が表示盤にへばりつき、叫んだ。
表示盤の警告赤ランプが、端から順に清々しい緑色へと書き換わっていく。 平原の村々に水害を与えることなく、かといって水路を破壊することもなく、300%という途方もない暴風雨の水量は、完全にエレノアの「掌の上」でコントロールされていた。
「これなら……洪水も起きない! 水路も壊れない! それどころか、貯めた水で数ヶ月分の予備用水まで確保できてしまう……!」
バルトロは言葉を失い、あまりの完璧さに全身の毛穴が泡立つような鳥肌を立てていた。
(「ただ動かす」だけじゃない……! このお方は最初から、数十年先の天災まで見据えてこの水路を設計していたというのか……?)
旧王国の愚か者たちは、この神のごとき頭脳を持つ女性を「無能」と呼んで追い出したのだ。 バルトロは恐ろしさすら覚えた。もしこの目の前のか弱そうな相手が敵国に回り、その頭脳を戦術に向けたなら、一国など一瞬で計算し尽くされて滅びるだろう、と。
「……ふう。これで一安心ですね」
エレノアはほっと胸を撫で下ろし、汗を拭った。
「す、素晴らしい……我らが最高顧問、万歳っ!」
管制室が割れんばかりの歓声と拍手に包まれた。文官も技師も、涙を流しながらお互いの肩を抱き合い、エレノアに向かって惜しみない賛辞を叫び続ける。
その熱狂の中、管制室のドアが重々しく開いた。
「―――静粛に」
従者の一声で、一瞬で場の空気を氷点下まで凍りつかせたのは、皇帝ヴァルハイトであった。 背後にジルヴェスターを従え、ヴァルハイトは不機嫌そのものの表情で大股で歩み寄ってくる。
「へ、陛下……! ご覧ください、エレノア様が凄まじい大雨を未然に防ぎ……」
「私は現場の報告を聞きに来たのではない」
バルトロを一瞥で黙らせると、ヴァルハイトは真っ直ぐエレノアの元へ歩み寄り、彼女の顔を両手で挟み込んだ。
「ヴァ、ヴァルハイト様……? あの、無事に水害は防げましたが……」
「顔色が悪い。汗もかいている。……どれだけの時間、演算を続けていた?」
アイスブルーの瞳に宿っているのは、威圧感ではなく、押し潰されそうなほどの心配と、過剰なまでの愛着であった。
「そ、それは……かれこれ三時間ほどですが……」
「長すぎる。私の許可なく術式を使って、これほど消耗するなど、言語道断だ」
ヴァルハイトはエレノアの返事を待たず、軽々とその華奢な体を抱き上げた。お姫様抱っこの体制に、エレノアは顔を赤くしてバタついた。
「わっ、ヴァルハイト様! まだデータの最終確認が……!」
「そんなものはあの男たちにやらせておけばいい。……技師長バルトロ!」
ヴァルハイトが鋭い視線をバルトロに向ける。
「は、ははっ!」
「エレノアの作った術式が完璧である以上、ここから先は貴様らの仕事だ。少しでもエレノアの手を煩わせるようなヘマをしてみろ。どうなるか、わかっているな」
「はは! 技師一同、全身全霊を賭けて、対処いたします!」
おののく技師たちを置き去りにし、ヴァルハイトは大歩角で管制室を後にした。
「ヴァルハイト様ったら、みんなの前でそんな乱暴な言い方はダメです……っ」
「いや。君が自分を大切にしないのが悪い。……これより全公務を一時停止する。君は自室で私が手ずから休ませる」
腕の中で頬を染めて抗議するエレノアを、ヴァルハイトは誰にも渡さぬと言わんばかりに強く抱きしめ、甘く独占的な足取りで歩みを進めるのだった。




