プロローグ〜地下室の灯火と小さな手の温もり〜
湿気と冷気が肌を刺す地下回廊に、かすかな魔導光の明かりがぽつんと灯っていた。
冷たい石壁に囲まれた広大な地下洞。ここは、シルヴェニア王国の国都全体に水を巡らせる『大魔導水路』の中枢部。その巨大な水路を流れる水の音に混じり、カリカリと羊皮紙に羽ペンを走らせる音が規則的に響いていた。
「これで……よし。第三水区の流速補正と、魔導核の波動干渉を相殺……」
細く華奢な肩をすぼめ、エレノアは疲れ切った眼差しで膨大な計算式を見つめていた。 まぶたの裏は焼き付くように熱く、不眠不休の作業で指先は冷え切り、羽ペンを握る人差し指の側面には硬いタコが刻まれている。
地上では、アレクシス王子や異母妹のクロエ、そして宮廷魔法技師たちが
「今日も王都の治安と繁栄は我らの手によって保たれている」
と誇らしげに宴を催していることだろう。
だが、彼らが何一つ不自由なく澄んだ水を使えるのは、すべてこの暗く湿った地下室で、エレノアが一人、不眠不休とも言える献身ぶりで複雑極まる魔導術式を構築し、過酷な調律を続けているからに他ならなかった。
「まだ終わらないんですか? 宮廷では『噴水の水圧が足りん』とご立腹ですよ」
表面上の言葉遣いこそ丁寧さを装ってはいるが、通りかかった宮廷技師は、まるで無能な部下を見るような目を向けながら声をかける。
「申し訳ありません……すぐに水圧の数値を調整すると伝えてください。ですが、これ以上の無理な加圧は魔導回路を痛めますので、明日の朝には一度休止させて……」
「余計なことは言わないほうが良いんじゃないですか? 王都魔導基盤の監視官は、宮廷から言われた通りに計算だけしていればいいんじゃないですか?」
宮廷内の階級としては、本来なら口答えさえ許されない相手に、軽蔑すら含んだ様子で返答した技師は、
「ロクに手柄も立てられないくせに、いつも言い訳ばかりだな……」
と吐き捨てるように去っていく。
その技師の背中に、エレノアは静かに深々と頭を下げることしかできなかった。
(いいの……。私がどれほど蔑まれようと、これで街の人たちが困らずに暮らせるのなら……)
自分を言い聞かせるように呟き、彼女は再び、冷え切った手に息を吹きかけて羽ペンを握り直した。
◆ ◆ ◆
数日後。王都の大聖堂では、年に一度の『洗手と聖油の儀』が執り行われていた。
これは、王族や貴族など身分の高い者が、たらいと手ぬぐいを自ら持ち、泥や作業で汚れた職人・農民など庶民の子供たちの手を洗い、祝福の聖油を塗り込む儀式だ。
そこには、「民の働く手が王国を支えている」ということへの感謝と謙遜を示す意義が込められているのだが―――。
しかし、豪華な衣装を纏った王族や高位貴族たちにとって、それはただの「退屈なパフォーマンス」に過ぎなかった。
「ふん、なぜ私たちがこんな汚らしい下民の足など洗わねばならんのだ」
「早く終わらせて洗顔水を用意させなさい。匂いが移ってしまうわ」
貴族たちは嫌悪感を隠そうともせず、子どもたちの指先に形式だけのお湯をかけると、そくささとタオルで拭いて不快そうに立ち去っていく。
そんな中、もっとも身分の低い下層庶民たちの手洗い場に回されたのが、エレノアだった。
目の前に座らされているのは、身なりの貧しい人々や、身寄りのない子供たち。
エレノアは自ら、たらいの前に膝をつくと、冷たさに震える子供たちの両手に優しく自らの手を添えた。
「寒かったでしょう? いま、温かくしますね」
エレノアがそっと指先で水面に触れると、小さな魔導陣がふわりと浮かび上がり、冷たかった水があっという間に心地よいぬるま湯へと変わった。
「わあ……! 温かい……!」
声を上げたのは、ボロ布のような服を着た幼い双子だった。
二人の名前は、テッサとテオ。
幼い姉弟は親を亡くし、下町の小さな鍛冶屋で拾われて身を寄せていた。泥と埃に塗れた小さな手。爪の間にまで油や土など汚れが詰まった指を、エレノアは衣服が汚れるのも気にせず、自らの素手で丁寧に、優しく洗っていく。
「痛いところはありませんか? あ……霜やけができていますね」
エレノアは胸元から自家製の薬草軟膏を取り出すと、幼い双子の足の甲にやさしく塗り込んであげた。貴族の令嬢とは思えないほど滑らかで温かな手のひらに包まれ、テッサとテオはポカンと目を見張った。
「ねえ、テッサ……このお姉ちゃん、他のお金持ちと違う……」
弟のテオが小さく囁くと、姉のテッサもこっくりと頷いた。他の貴族たちは自分たちをゴミを見るような目で見つめていたのに、この美しい髪をした女性だけは、まるで宝物でも扱うかのように優しく自分たちに触れてくれている。
その時、テオのポケットから『コロ……』と小さな鉄くずが転がり落ちた。
それは、壊れて灯らなくなった小さな魔導ランプのジャンク品だった。テオが下町で拾い、自分で直そうとして失敗した宝物だ。
「あ……ごめんなさい! 汚しちゃった……!」
慌てて拾おうとするテオを制し、エレノアが先にそれを拾い上げた。
「これは……魔導回路が中で途切れてしまっているのね。あなたが直そうとしたの?」
「う、うん……。僕、大きくなったら技師になりたくて。でも、僕じゃ直せなくて……」
下を向くテオに、エレノアは花がほころぶような優しい微笑みを向けた。
「とっても筋がいいわ。回路の繋ぎ方は、あと少しで正解だったもの。……少し、見せてね」
エレノアがランプの底面にそっと指先を触れる。
すると、小さな金属パーツがまるで生き物のようにカチリと音を立てて組み替わり、ランプの中にぽっと、あたたかな太陽のようなオレンジ色の光が灯った。
「「わあああっ……!!」」
双子の瞳が、奇跡を見るかのように輝いた。
「魔法はね、威張ったり、誰かを傷つけたりするためのものじゃないの。こうして誰かの手を、心を温めるためにあるのよ」
エレノアは直ったランプをテオの手の上にそっと載せると、テッサの頭も優しく撫でた。
「二人とも、風邪をひかないようにね」
そう言って微笑むエレノアの姿は、冷たく薄暗い大聖堂の中で、まるで、むかし話に出てくる女神様のように神々しく、あたたかかった。
貴族たちからは「地味で無能」と蔑まれ、地下室で働き続ける影の天才。
だが、この日、彼女が示した本物の知性と優しさは、幼い双子の胸の奥深くに、決して消えない「絶対の希望」として強く、強く刻み込まれたのだった。
序章をお読みいただき、ありがとうございます。
物語全体の展開を踏まえ、このエピソードをプロローグに配置させてもらいました。
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