第01話 森田家の朝
第01話 森田家の朝
朝の台所には、いつもの音がしていた。
包丁がまな板を軽く叩く音。
トースターの中でパンが温まっていく音。
コーヒーメーカーが小さく湯を吸い上げる音。
遥は洗面所で髪をまとめながら、台所に立つ母の横顔を見た。
今日は機嫌が良さそうだ。
包丁の音で分かる。
「遥、コーヒー飲む?」
台所から香織の声がした。
「飲む。薄めで」
「薄めって、コーヒーの意味あるの?」
「朝は気分だけでいいの」
遥がそう返すと、リビングの方から俊昭の声がした。
「俺は濃いめで」
「あなたは自分で淹れて」
香織は即答した。
「扱いが違うな」
「お父さんは大人でしょ」
遥は鏡越しにそう言って、髪留めを留めた。
「そういえば、お父さん、会社で私を見かけても声かけないでよ」
「あの時の無視はひどいな」
俊昭は苦笑した。
「本部長と苗字が同じだけど親戚? って聞かれたんだから」
「そこはお父さんでいいだろ」
「コネで入ったみたいじゃない!」
遥は唇を尖らせた。
「実力で入ったんだから」
「分かってるよ」
俊昭は肩をすくめた。
「そもそも内定もらってから報告されたんだ。寝耳に水だった」
遥は少し笑った。
確かにそうだった。
父と同じ会社を受けることは言わなかった。
採用試験を受けて、面接を受けて、内定をもらってから報告した。
父の名前を使いたくなかった。
製薬部で働く以上、なおさらだった。
「まあ、今じゃ同じ会社だけどな」
「部署違うし」
「俺は研究開発本部」
「私は製薬部」
「だから顔合わせるんだろ」
「だから声かけないで」
「厳しいな」
俊昭は笑った。
大手製薬会社の研究開発本部長。
社内では執行役員。
家ではゴミ出し担当。
それが森田俊昭だった。
俊昭は苦笑いしながらノートパソコンを開き、メールを確認する。
香織は昔から朝の動きに無駄がない。
フライパンを温めながら、トースターを見て、コーヒーの量を確認し、ついでに冷蔵庫の中身まで把握している。
「牛乳、今日でなくなるわね」
「帰りに買ってこようか?」
遥が顔を出すと、香織は冷蔵庫を閉めながら言った。
「お願い。低脂肪じゃない方」
「はいはい」
「あと卵も少ない」
「それ、私の買い物増えてない?」
「ついでよ」
「ついでの範囲が広い」
遥がそう言うと、俊昭がリビングから顔だけ出した。
「俺が買って帰ってもいいぞ」
「あなた、絶対忘れるでしょ」
香織が言う。
「忘れない」
「前に頼んだ豆腐、ヨーグルトになって帰ってきたじゃない」
「あれは似てるだろ」
「似てない」
遥と香織の声が重なった。
俊昭は少し不満そうな顔をしたが、すぐに笑った。
牛乳がない。
卵が少ない。
父は買い物を忘れる。
ただ、それだけの朝だった。
遥は化粧を簡単に済ませてリビングへ向かった。
食卓にはトーストとサラダ、スクランブルエッグが並んでいる。
味噌汁もある。
和洋折衷。
森田家では普通だった。
「味噌汁、昨日の残り?」
「残りじゃなくて作り置き」
「言い方の問題じゃない?」
「大事よ」
香織は真顔だった。
俊昭は食卓の横に置いたノートパソコンを見ていた。
仕事のメールかと思ったが違う。
青と白を基調にした見慣れない管理画面。
「またそれ?」
「またって言うな」
俊昭は画面から目を離さずに言った。
「サイトセン?」
「SITE1000」
「名前がちょっと怪しい」
「そうか? かっこいいだろ」
「お父さんのセンスだと、だいたい怪しい」
俊昭は少し傷ついた顔をした。
「ひどいな」
「事実」
遥は椅子に座った。
SITE1000。
俊昭が最近使い始めた投資AIだった。
資産運用を自動化し、リスク管理まで行うらしい。
説明は聞いた。
半分くらいしか覚えていない。
遥にとっては、新しい家電と同じだった。
最初だけ妙に詳しく説明したがる。
そして家族に面倒がられる。
それだけだ。
「朝ごはん冷めるわよ」
香織が言った。
「分かってる」
俊昭はそう言いながらも、まだ画面を見ている。
「お父さん、会社でもパソコン見て、家でもパソコン見て、目悪くなるよ」
「もう悪い」
「じゃあそれ以上悪くなる」
「それは困るな」
俊昭はようやく顔を上げ、眼鏡を少し直した。
その仕草が、遥には妙に父らしく見えた。
仕事では執行役員。
家では少し抜けた普通の父。
その落差が嫌いではなかった。
「いただきます」
香織が先に手を合わせた。
遥も続く。
「いただきます」
俊昭は少し遅れて手を合わせた。
「いただきます」
トーストをかじる。
スクランブルエッグは少し甘い。
味噌汁には豆腐とわかめ。
いつも通りの味。
いつも通りの朝。
遥はコーヒーを一口飲んだ。
ちゃんと薄めだった。
「今日、遅くなるの?」
香織が聞く。
「たぶん普通。会議次第かな」
「夕飯いる?」
「いると思う」
「思う、じゃ困るのよ」
「じゃあ、いる」
「はい」
香織はそれだけで予定を組み直したようだった。
俊昭はトーストを食べながら、まだ少しだけノートパソコンを気にしている。
遥はそれを見て少し笑った。
「お父さん」
「ん?」
「AIばっか見てないで仕事してね」
「してるしてる」
「怪しい」
「役員はな、考えるのも仕事なんだ」
「便利な言葉だね」
香織がすかさず言う。
「じゃあゴミ出しも考えておいて」
「それは実行が必要だな」
「分かってるならお願い」
俊昭は少し肩を落とした。
「はい」
遥は笑った。
食卓の横で、ノートパソコンの画面だけが静かに光っていた。




