第4話 雨上がりの森で、母の文字がよみがえる
翌朝、北辺の空はよく晴れていた。
夜のあいだに浅く雨が通ったらしく、温室のガラス屋根は朝日を受けて細かな金色を散らしている。アリエルは約束どおり朝食の席についたが、椅子に腰を下ろした瞬間から、心の半分はもう屋敷の外へ出ていた。
長い卓の上には黒麦パン、白い豆の煮込み、香草入りの卵料理、薄く切った燻製肉が並んでいる。見た目に華美さはないが、働く人の身体をきちんと支える朝食だとわかる献立だった。
「眠れましたか」
向かいの席でアルヴァがたずねた。
「眠ると決めたので眠れました」
「決意の強い返事だな」
「昨日、善処すると答えたら不満そうでしたので」
「不満というより警戒だ」
「倒れそうに見えましたか」
「調べたいことを前にすると、食事を後回しにしそうには見える」
見抜かれている。
アリエルは少しだけ目を細め、スープ皿へ匙を入れた。白い豆がほろりと崩れ、根菜の甘みがやさしく広がる。湯気の向こうで、アルヴァは昨日と同じように余計な顔をしなかった。ただ、食べろと言いたいのがわかる視線だけがある。
「きちんといただきます」
先にそう言うと、アルヴァはうなずいた。
「助かる」
「契約上の都合で?」
「それもある」
「では、残りは?」
問い返したとたん、アルヴァは手元のパンをちぎる動きを一拍だけ止めた。
「……現場で空腹だと判断を誤る」
「実務の話ですね」
「私はだいたいそうだ」
その返事が可笑しくて、アリエルは口元をゆるめた。言葉を飾らない人だ。だからこそ、嘘まで混ぜていないことが伝わる。
朝食を終えるころ、ポラが若い女性を案内してきた。短く結った髪の先まで露で濡れたような艶があり、仕事着の袖口には土の色がしみこんでいる。
「森の外れの栽培場を任されているカラニです」
ポラが紹介すると、彼女はきびきびと礼をした。
「ご案内を仰せつかりました、アリエルさま。温室の外まで歩くことになりますが、よろしいですか」
「そのために起きました」
アリエルが答えると、カラニの口元がほんの少し持ち上がった。
「それは助かります。今日はしずくがよく残っていますから」
その一言で、アリエルの胸がすうっと澄んだ。
屋敷の裏手へ回ると、朝の冷気の中に、土の匂いと若い葉の青さが混ざっていた。温室群は思っていたより大きい。だが近づけば、使われている棟と使われていない棟の差がはっきり見える。磨かれたガラスの横に、曇ったままの窓。手入れされた水路の脇に、途中で途切れた細い流れ。誰かが何を残し、何を諦めたかが、そのまま形になっていた。
「こちらは北辺で今も主力の薬草を育てている棟です」
カラニが歩きながら説明する。
「でも、奥へ行くほど放棄された区画が増えます。二年ほど前から収量が落ちて、去年は香りまで弱くなりました。土の病だと言う人もいましたが、どうも変で」
「変、というのは」
「悪くなり方が揃いすぎています」
アリエルは足を止め、花壇の縁へしゃがみこんだ。
土を少しだけ指でつまむ。粒は細かいのに、必要以上に乾いている。その下に、別の土が層になっていた。上から混ぜ物をされた土の感触だ。
「香草を育てるには、ここまで水はけを急がせないはず」
「はい。だから何度も配合を見直しました。でも、撒いていないはずの灰が混ざっている日があるんです」
「記録はありますか」
「あります。失敗した日ほど、意地で残しました」
意地で残しました、と言ったときの声がよかった。泣き言ではなく、悔しさを仕事に変えてきた人の声だった。
「見せてください」
「もちろんです」
カラニはすぐに答え、それから少しためらうようにアリエルを見た。
「公爵夫人さまは……本当に、森の中までご覧になるんですか」
「台所と倉庫だけで満足する花嫁に見えました?」
「見えませんでした」
「では、そのとおりです」
カラニが今度ははっきり笑った。
温室を抜けて森へ入ると、光は急にやわらかくなる。背の高い木々の枝先から、昨夜の雨がまだ時折落ちてきた。道は細いが、踏みしめられた跡がある。昔は人の行き来がもっとあったのだろう。
「ここから先が、昔の薬草園でした」
カラニが朽ちた木札を起こした。文字はほとんど消えている。
「今は立ち入りを嫌がる者も多いです。収穫が落ちたうえに、何度植えても駄目になる区画があるので」
アリエルは木札の表面を見つめた。昨夜のしずくがまだ縁に残っている。指先をかざし、静かに呼吸を整える。雨紋読解は、見ようとする心が騒いでいると、かえって何も見えなくなる。
ひとつ、ふたつ、みっつ。
しずくの中で、薄い光が糸のようにほどけた。
誰かの指がここを撫で、札を立て直そうとして諦めた痕跡。もっと古い層には、別の手があった。細く、爪先まで迷いなく動く手。木札の端を支え、位置を直し、最後に小さく二度叩く癖。
母だ。
アリエルの喉が熱くなる。
「読めましたか」
カラニがそっとたずねる。
「ええ。……この札、昔はここに立っていなかった」
アリエルは周囲を見渡した。
「少し右です。水路に近い位置。誰かが後から移しました」
さらに進むと、半ば崩れた温室跡が現れた。鉄の骨組みは赤錆び、割れたガラスが下草に埋もれている。けれど基礎石だけは丈夫で、ひとつだけ不自然に苔の薄い場所があった。
アリエルはそこへ近づき、しゃがんだ。石の縁に残るしずくへ意識を合わせる。今度はもっとはっきり見えた。誰かが手袋を外し、素手でこの石を押した痕跡。爪が少し欠けている。呼吸がせわしい。それでも最後まで手順を省かない気配。
「ここです」
アリエルは言った。
「手伝ってください」
カラニとふたりで石を押すと、下に浅い空洞があった。中には油布に包まれた薄い箱が収まっている。雨と土の匂いの中に、微かに古いインクの匂いが混じった。
アリエルの指が震える。
箱を開けると、上に一枚の紙が置かれていた。見慣れた筆跡。やさしいのに、肝心な線だけは絶対にぶれない字。
――アリエルへ。あなたがこれを見つけたなら、森はまだ助けを待っています。
その一行だけで、世界が揺れた。
アリエルは思わず息を止めた。母の文字だ。偽物ではない。紙を綴じる癖も、句点の置き方も、インクがやや左へ流れる書き癖も、全部が母だった。
「……ありました」
声がかすれる。
箱の中には、革紐で綴じられた手記が一冊入っていた。表紙には、整った字でこうある。
『雨上がりの森 上』
アリエルはその場で最初の数頁だけを開いた。
土壌の配合表。水路の流量記録。温室ごとの栽培変化。そこまでは研究者の記録だ。だが途中から、筆圧がわずかに変わる。
――病ではない。混ぜられている。灰ではなく、香りを鈍らせる細粉。北の森だけでは説明がつかない。商会の男が二度目に来た日から、土の層が変わった。
その次の頁には、人名まではないものの、王都の薬材商会を示す印が記されていた。母は気づいていたのだ。森を壊しているのは天候でも病でもなく、人の手だと。
アリエルは唇を引き結んだ。
悔しさより先に、冷たい確信が立ち上がる。継母が研究棟を閉ざし、記録を遠ざけた理由。王都から雑な乾燥薬草が流れこんできた理由。全部が一本の線でつながり始めていた。
「大丈夫ですか」
カラニが低い声で言った。
アリエルは頁から目を離し、しっかりとうなずいた。
「大丈夫です。泣くのはあとにします」
「あとにする予定はあるんですね」
「今は読みたいので」
カラニはそれ以上何も言わず、ただ周囲へ気を配るように立ってくれていた。その沈黙がありがたかった。
手記を抱えて屋敷へ戻るころ、空はすっかり明るくなっていた。森の出口で待っていたアルヴァが、アリエルの腕の中の本を見て目を細める。
「見つかったか」
「はい」
アリエルは短く答えた。
「母の手記です。しかも、病ではなく、人の手で森が壊されていると書いてある」
アルヴァの表情は大きくは動かなかった。だが一歩だけ距離を詰めると、彼は手記ではなくアリエルの顔を見た。
「読める状態か」
「ええ。完全ではないですが、十分に」
「なら守る価値がある」
その言い方がよかった。慰めではなく、仕事としても、記録としても、失わせないと言っている。
アリエルは手記を抱きしめる腕に少しだけ力を込めた。
北辺に来て四日目の朝、母の文字は確かによみがえった。
そしてその文字は、森を壊した犯人が自然ではないことを、静かに告げていた。




