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白い結婚ですが、雨上がりの森と母の手記は取り戻します  作者: 乾為天女


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第3話 北辺公爵邸に、面倒な花嫁が来た

 北辺公爵邸が見えたのは、王都を出て三日目の夕方だった。


 雨を何度かくぐった街道の先に、灰青色の石で組まれた大きな屋敷が現れる。城というほど威圧的ではないが、屋根は深く、窓は広く、雪や風に耐えるための実用がそのまま美しさになっていた。背後にはなだらかな森が広がり、ところどころに温室のガラス屋根が光っている。


 あれが、北辺の暮らしを支える場所。


 アリエルが見ていると、馬車の向かいで書類を閉じたアルヴァが言った。

 「疲れているなら、到着後の挨拶は明日に回す」

 「回しません」

 「即答だな」

 「三日も座っていたので、むしろ歩きたいです」

 「それはわかる」

 ユーソフが小さくうなずいた。彼は揺れる馬車の中でも姿勢を崩さない努力をしていたが、さすがに背中がつらいらしい。


 屋敷前の車寄せには、使用人と護衛がきちんと並んでいた。馬車が止まると同時に扉が開き、冷たい風が入り込む。王都より空気が薄く澄んでいて、乾いた土と若い枝の匂いがした。


 先に降りたアルヴァが手を差し出す。アリエルは一瞬だけその手を見てから、素直に借りた。ぬかるみに裾を取られないためだ。使えるものは使う。白い結婚でも、その程度の実利はある。


 石段の上では、侍女頭らしい女性が深く礼をしていた。その隣に、白い前掛け姿の若い男が腕を組んでいる。厨房の人間がここにいるのは珍しい。


 「北辺公爵家へようこそお越しくださいました、公爵夫人さま」

 侍女頭が穏やかに言う。

 「侍女のポラでございます。身の回りのお世話を承ります」

 「ありがとうございます、ポラ。アリエルと呼んでください」

 ポラは一瞬だけ驚いたが、すぐに目をやわらげた。

 「かしこまりました、アリエルさま」


 腕組みの若い男は、礼をするより先にアリエルの旅装を上から下まで見た。靴の泥、外套のすそ、手袋の指先についたインク染みまで見ている。食材を見る目と似ていた。値踏みというより、鮮度確認に近い。


 「厨房長のケイリンです」

 彼はそう名乗った。

 「ひとつ確認なんですが、公爵夫人さまは甘い菓子は召し上がりますか」

 到着の第一声がそれなのかと、アリエルは少しだけ目を見開いた。

 「いただきます」

 「好き嫌いは」

 「薬草の苦みを隠すために砂糖を無駄に増やす菓子は、あまり」

 ケイリンの目が光った。

 「なるほど」

 「何がなるほどなんです?」

 「味を話せる人だと思いました」

 彼はようやく一礼した。

 「歓迎します、公爵夫人さま。とりあえず今夜は疲れているでしょうから、胃に負担の少ないものを出します」

 「ありがとう。でもその前に、台所を見せてください」

 「はい?」

 「あと食糧倉庫も」

 「はい?」

 同じ声が、今度は三方向から重なった。ケイリンとポラとユーソフである。


 石段の下で、馬を引いていた護衛までこちらを見た。


 アリエルは瞬きをした。

 「何かおかしなことを言いましたか」

 「部屋ではなく?」

 ポラが控えめにたずねる。

 「長旅のあとですし、お湯の支度も整えております」

 「ありがたいです。でも、まず屋敷の息の仕方を知りたいので」

 「屋敷の、息」

 ケイリンが変な顔をした。


 アリエルは少し考えてから言い換えた。

 「人が一番よく通る場所と、物が詰まる場所を見たいんです。台所と倉庫は、その家がどんなふうに回っているか、すぐわかりますから」

 ケイリンは腕を組み直した。

 「……お飾りの奥方じゃなさそうだ」

 「期待に添えずすみません」

 「まだ期待していたとは言っていません」

 「じゃあ今、少し期待しましたね」

 「しました」

 あっさり返されて、アリエルは思わず吹き出しそうになった。


 その横で、アルヴァの口元がほんの少しだけゆるんだ。ほんの少しだけだったが、確かに見えた。


 「案内を」

 彼が短く言う。

 「本人がそうしたいなら、その順で構わない」

 「承知しました、公爵閣下」

 ポラはすぐ姿勢を整えた。

 「では、先に厨房へ」


 屋敷の中は、王都の伯爵邸よりずっと歩く家だった。長い廊下のあちこちに作業用の扉があり、飾りより先に動線が考えられている。窓辺には乾燥中の香草束が吊るされ、床には水滴を持ち込んでも滑りにくい石材が使われていた。


 厨房へ入った瞬間、熱と香りが押し寄せた。


 焼き立ての黒麦パン。鶏と根菜の煮込み。干した柑橘の皮。奥では大鍋が二つ同時に火にかかり、粉をこねる音、包丁の音、誰かの笑い声が重なる。王都の貴族屋敷の厨房より、働く人の顔が近い。


 アリエルは思わず一歩、二歩と中へ進んだ。


 「そこで止まってください」

 ケイリンがすぐに言う。

 「床に濡れ布を広げています。すべると危ない」

 「わかりました」

 言われた位置できちんと止まると、ケイリンは少し意外そうに眉を動かした。

 「もっと勝手に入ってくるかと」

 「火と刃物のある場所で、知らない者が勝手をするほど愚かではありません」

 「その返しは好きです」

 ケイリンは作業台の端に置かれた小皿を差し出した。

 「旅の口直しに。りんごを蜜煮にして、森胡椒を少しだけ」

 アリエルは受け取り、一切れ口に入れる。


 甘さのあとから、喉の奥でほのかに温かい刺激が広がった。森胡椒の使い方が軽やかだ。旅の疲れた舌を起こすにはちょうどいい。

 「おいしい」

 正直に言うと、ケイリンがほんの少しだけ顎を上げた。

 「でしょう」

 「ただ、りんごの切り方をもう少し薄くしたら、森胡椒の香りが先に抜けて面白いかも」

 「……到着したばかりで改良案まで出すんです?」

 「感想を聞かれたので」

 「うわ、面倒」

 そう言いながらも、ケイリンは近くの紙切れに何かを書き留めていた。


 ポラがその様子を見て、口元を隠して笑う。屋敷の人間たちの空気が、少しずつほどけていくのがわかった。


 「倉庫も見たいのですが」

 アリエルが言うと、ケイリンは今度こそ呆れ顔になった。

 「普通は客間を見てからですよ」

 「わたくし、ここの“普通”をまだ知らないので」

 「それはそうか」

 彼は肩をすくめた。

 「じゃあ倉庫へ。湿気に弱い箱がどこへ積まれているか見れば、今後こちらが怒られる回数が減るかもしれない」

 「怒られる前提なんですね」

 「見当違いの保管をしていたら、料理人は誰にでも怒られます」

 「それなら利害が一致しました。わたくしも見当違いの保管には怒ります」

 「仲良くできそうで嫌ですね」

 「奇遇ですね。わたくしもです」


 倉庫では、乾燥棚の配置、麻袋の重ね方、温度の違う保管室の分け方を順に見て回った。アリエルは黙って見るだけではなく、袋の結び目の向きや札のつけ方まで確認した。どこを誰が毎日触るのか、少し見ればわかる。


 棚の一角で、彼女は立ち止まった。

 「この薬草束、北辺のものではありませんね」

 ケイリンが目を向ける。

 「王都経由の補填品です。昨冬から増えました」

 「乾燥のしかたが雑です。香りが飛びやすい」

 「やっぱりわかります?」

 「わかります。……あと、保管札の筆跡が二種類」

 アリエルは札を見比べた。

 「途中で担当が変わったか、外から混ざったか」

 アルヴァが背後から言う。

 「気づくか」

 「気づきます」

 「それで十分だ」


 十分。


 その言葉は短いのに、不思議と背中を押した。伯爵家では、気づいたことを言うたびに、出すぎた真似だとたしなめられた。ここでは今のところ、見たなら言え、言ったなら記録しろ、という空気がある。


 悪くない。


 ひと回りし終えたころには、もう外は暗くなり始めていた。北辺の夕暮れは来るのが早い。窓の外で風が木立を鳴らし、遠くの温室に灯りがひとつまたひとつと点る。


 「さすがに今度こそ部屋へ」

 ポラがやさしく促した。

 「お湯が冷めてしまいます」

 「そうですね。ありがとうございます」

 アリエルは素直にうなずいた。


 通された部屋は、思っていたより簡素で、思っていたより落ち着いた。薄青の織物がかかった長椅子、北辺の木で作られた机、余計な装飾のない本棚。暖炉にはもう火が入っている。窓辺に置かれた水差しの表面には、旅のあいだに降った雨の冷たさがまだ残っていた。


 「衣装箱はあとで運び込みます」

 ポラが手際よく説明していく。

 「寝具の硬さ、灯りの明るさ、湯の温度、何か合わない点があればすぐに」

 「ありがとう、ポラ」

 アリエルはふと彼女を見た。

 「ひとつお願いがあるのですが」

 「はい」

 「明日から、邸の使用人名簿を見せてもらえますか」

 ポラがまばたく。

 「名簿、ですか」

 「できれば出身地と担当持ち場つきで」

 「……承知しました。確認して用意いたします」

 困った顔ではなく、考える顔だった。


 ポラが下がったあと、アリエルはひとりで部屋を見回した。王都の自室より広い。けれど、不思議と持て余さない。机があるからだろうか。考えるための場所が最初から用意されている部屋は、それだけで少し救いになる。


 扉がノックされたのは、湯浴みを終えたころだった。


 「入っても?」

 アルヴァの声だった。

 「どうぞ」


 彼は部屋へ入ってきても中ほどで足を止めた。必要以上に近づかない距離を、最初から心得ているらしい。

 「確認に来た。何か不足は」

 「今のところは」

 アリエルは暖炉のそばに立ったまま答えた。

 「ただ」

 「ただ?」

 「明日の朝食は、契約どおり一緒なのですよね」

 「そのつもりだ」

 「では、その前に温室を見たいです」

 「朝食の前に?」

 「朝の光でわかることがあります」

 「早いな」

 「今日のうちに台所と倉庫を見たので、次は温室です」

 アルヴァは一瞬だけ黙ったあと、わずかに息を吐いた。笑ったのかもしれない。

 「わかった。案内をつける」

 「あなたは来ないのですか」

 「朝食の準備と書類がある」

 「公爵は忙しいですね」

 「花嫁のほうが忙しそうだが」

 その返しに、アリエルは少しだけ肩の力を抜いた。


 白い結婚。別々の寝室。互いの私生活には踏み込まない。


 条件は冷静で、必要な線引きだ。なのに、こうして短く言葉を交わしているだけで、屋敷の空気が少しずつ自分のものになっていく気がする。


 「それから」

 アルヴァが言った。

 「今夜はもう調べものをしないで休んでほしい」

 「どうしてです?」

 「到着初日に倒れられると困る」

 「契約上の都合ですか」

 「それもある」

 答えたあと、彼は少しだけ視線をそらした。

 「……明日の朝、きちんと歩ける顔で食卓に来てほしい」


 それは公爵としての体面か、それとも別の気づかいか。まだ判断はつかなかった。つかなくていい、とアリエルは思う。今はまだ、答えを急ぐ時期ではない。


 「善処します」

 「善処ではなく、休養を」

 「善処します」

 言い直しても同じ返事をすると、アルヴァは諦めたように小さくうなずいた。

 「面倒な花嫁だな」

 「今ごろ気づきましたか」

 「広間で気づいていた」

 「では遅くないですね」

 「そうだな」


 彼が去ったあと、部屋に静けさが戻る。


 アリエルは机に手を置いた。木の表面はひんやりしていて、乾いていた。ここから始まる。王都の広間で無理やり押しつけられた結末ではなく、自分で選んだ続きが。


 窓の外では、北辺の夜風が森を渡っていた。


 明日の朝は、温室へ行こう。その次は、森だ。母の手記も、研究棟の記録も、きっとどこかでつながる。着せられた罪をはがし、奪われたものを取り返し、この屋敷の人間たちが何を守っているのかも見ていく。


 まずは眠ること。


 そう決めて寝台に腰を下ろしたそのとき、廊下の向こうから、誰かの小さな声が聞こえた。


 「本当に来たね」

 「来たな」

 「台所から行く花嫁って何」

 「面倒そう」

 「でも、ちょっと好きかも」

 「わかる」


 使用人たちのひそひそ声に、アリエルはひとりで笑った。


 歓迎は、案外悪くない形で始まっているらしい。


 その夜、北辺公爵邸で、夫婦は別々の寝室に入った。


 けれど翌朝、同じ食卓につく約束だけは、もう静かに効き始めていた。



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