表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
白い結婚ですが、雨上がりの森と母の手記は取り戻します  作者: 乾為天女


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

2/9

第2話 契約書の一行目から、夫婦は対等である

 王都を出る馬車の中で、最初に静寂を破ったのは、紙をめくる音だった。


 公爵家の紋章が押された仮契約書を膝に広げ、アリエルは目を細める。揺れる車内でも読みやすいよう、文字は大きめだ。つまり、急ぎで用意したわりに丁寧ではある。だが丁寧と対等は別だ。


 「第四条」

 アリエルは読み上げた。

 「公爵夫人は公爵家の名誉を損なわぬよう、領内外において慎み深く振る舞うこと。ずいぶん便利な文言ですね」

 向かいに座るアルヴァが答える。

 「一般的な雛形だ」

 「一般的な雛形は、よく女の口を塞ぐ道具にもなります」

 「そのとおりだ」


 認めるのが早い。


 アリエルはペン先をインク壺につけた。さらり、と斜線を引く。

 「削除します」

 「異論はない」

 隣に控えていたユーソフが、え、と小さく声を漏らした。


 彼は若い側近で、馬車の揺れに合わせて書類箱を押さえている。落ち着かないらしく、さっきから膝の上の指が忙しい。王都の広間で見たときよりも、ずっと人間味がある。


 「公爵閣下」

 ユーソフが恐る恐る口をはさんだ。

 「一般的な雛形を一般的でなくしてしまうと、法務局の確認が」

 「法務局には新しい文面を出す」

 「はい、ですが、ええと、こんなに赤字が増えると」

 「増やします」

 アリエルが言った。

 「まだ三行目ですもの」

 ユーソフはとうとう口を閉じ、窓の外を見た。逃げ道を探している顔だった。


 王都の城壁が遠ざかっていく。早春の街道はぬかるんでいたが、空はもう明るい。雨のあとの野は黒く湿って、ところどころに若草の色が見えていた。


 アリエルは視線を契約書へ戻す。


 「第七条、公爵夫人は邸内の研究施設に立ち入る場合、公爵または指定管理者の許可を要する」

 また線を引く。

 「これは書き換えます。わたくしは許可制ではなく、常時出入り可能。必要に応じて標本、記録、栽培計画書を閲覧・複写できること」

 「複写も認める」

 アルヴァが即答する。

 「原本の持ち出しは事前申告を」

 「妥当です」

 アリエルはさらさら書き足した。

 「それから、わたくしが指名した補助者の立ち入り権も必要です」

 「人数制限は」

 「まず三名。のちに追加申請」

 「いい」


 ユーソフが小さく天を仰いだ。


 アリエルはその反応を見て、少しだけ口元をゆるめた。緊張しすぎて肩が上がっている。主君が突然結婚したうえ、花嫁が契約書を解体しているのだ。そわそわもするだろう。


 「次です」

 アリエルは新しい紙を引き寄せた。

 「独自予算。月ごとに定額枠をください。用途は、調査旅費、資料複写、試験栽培、人員雇用、相談室運営」

 「相談室?」

 アルヴァが初めて問い返した。

 「働く女性や使用人が、雇い主や家族や婚姻のことで困ったときに、話せる場所です」

 アリエルは自分でも驚くほど自然に言えた。

 「帳簿や森の異変は、机の上だけでは見えません。暮らしている人の声が必要です。それに」

 一瞬だけ、王都の広間が脳裏をかすめる。

 「黙らされる場所ばかりの家で育つと、声を出すだけで体力を使うのです。話せる場所があれば、救われる人がいる」


 車輪の音が、しばらくのあいだ続いた。


 アルヴァは彼女を見ていたが、やがて短くうなずいた。

 「予算項目に入れよう」

 「ありがとうございます」

 「礼はまだ早い。実際に動かしてからだ」

 「そうですね。では、動かしやすい額をください」

 「強気だな」

 「条件交渉で遠慮をしたことがないので」

 「見ればわかる」


 その一言にからかいはなく、観察の結果だけがあった。アリエルは少しだけ眉を上げる。この人は、人を笑うより先に記録する。


 嫌いではない。


 「侍女の選定権も必要です」

 「認める」

 「離縁の自由」

 「認める」

 「契約期間中、わたくしの私物と研究成果は、離縁時にすべて持ち出し可能」

 「機密に触れぬ範囲で認める」

 「その“機密”の範囲を具体的に」

 「北辺の軍事、徴税、領境警備。農法と薬草研究は、共同開発分だけ協議」

 「共同開発の定義は」

 「双方が記録に名を残したもの」

 「よろしい」


 ペン先が紙を走るたび、馬車の中の空気が変わっていく。拾われた娘ではない。名義を貸す男でもない。条件を積み上げ、互いの線を引く。奇妙なくらい、呼吸が楽だった。


 しばらくしてユーソフが、ついに耐えきれなくなったように言った。

 「あの、失礼を承知で申し上げますが」

 「どうぞ」

 アリエルが返すと、彼は背筋を伸ばした。

 「公爵夫人になられる方が、ここまで具体的に予算配分や閲覧権を求めるとは、想定しておりませんでした」

 「あなたは、公爵夫人は何を求めると想定していたのですか」

 「その」

 彼は耳まで赤くした。

 「宝飾品とか、夜会の席次とか、応接間の壁紙とか」

 「壁紙も大事ですが、今は後回しです」

 「後回しなんですね」

 「母の手記と、研究棟の資料と、森の異変のほうが先です」

 アリエルは契約書の余白へ小さく印をつけた。

 「それに、夜会の席次で人は助かりません」

 「壁紙でもあまり助からないな」

 アルヴァが低く言う。


 ユーソフが一瞬きょとんとして、それから吹き出すのを必死にこらえた。アリエルも、唇の端がゆるむのを止められなかった。


 笑ったあとで、ふと気づく。


 王都を出てまだ半日も経っていないのに、さっきまで喉の奥にへばりついていた重苦しさが、少し薄れている。


 「ひとつ、こちらからも条件がある」

 アルヴァが言った。

 「何でしょう」

 「無茶は事前に申告してほしい」

 「無茶の定義によります」

 「ひとりで危険な場所へ行くこと」

 「それは合理的な範囲で避けます」

 「合理的な範囲、か」

 「わたくしにも予定がありますので」

 「その予定が面倒だという話をしている」

 真顔で言うから、アリエルは思わずまばたいた。


 面倒、と言われて腹が立つより先に、妙な納得がきた。たしかに自分は面倒だろう。黙って守られる気も、綺麗に飾られる気もない。調べるし、聞くし、口も出す。


 「では、わたくしからも条件を追加します」

 「聞こう」

 「あなたも無茶をする前に申告してください」

 「私が?」

 「公爵閣下は、自分だけは例外だと思っていそうです」

 アルヴァは一拍黙った。

 「気をつける」

 「気をつける、では契約条文になりません」

 「……申告する」

 「よろしい」


 ユーソフが、今度は本当に天を仰いだ。


 街道の向こうに、小さな雨雲がまだ流れている。だが雲の切れ間から射す光は、さっきより明るい。アリエルは契約書をめくりながら、自分の手元に新しくできた余白を見つめた。


 実家にいたころ、紙の余白はいつも誰かに奪われた。そこに書くのは母であり、継母であり、家の都合だった。自分の一行は、いつもあとから消される。


 でも今は違う。


 赤字だらけの契約書は見苦しいかもしれない。けれど、そこに引いた線は全部、自分で選んだ線だ。


 「これでひとまず形になります」

 アリエルは最後の頁をそろえた。

 「確認を」

 アルヴァが受け取り、黙って読んでいく。その横顔に焦りはなかった。形ばかりの妻を置いておきたい男なら、もっと面倒そうにするはずだ。


 やがて彼は紙を重ね、署名欄に自分の名を記した。


 濃く、迷いのない筆跡だった。


 アリエルも続けて署名する。アリエル・ハーグレイヴ。まだその姓のままで。


 「正式登録までは伯爵家の姓でいい」

 アルヴァが言った。

 「急に変えろと言われても、記録の照合が面倒になる」

 「助かります」

 「実務の話だ」

 「ええ。そういう話が一番助かります」


 ユーソフが新しい封筒へ契約書をしまいながら、ぽつりとつぶやいた。

 「……逃避じゃなくて、反撃の足場なんですね」

 アリエルは視線を上げる。

 「はい」

 窓の外へ広がるぬかるんだ道を見た。

 「わたくし、この結婚で隠れるつもりはありません」

 封筒の角を指で整えながら、静かに続ける。

 「北辺へ行って、母の資料を追います。森の異変も調べます。必要なら、王都にだって戻ってきます。今日、広間で奪われかけたものを、きちんと取り返すために」

 ユーソフは目を丸くして、それから少しだけ姿勢を正した。

 「承知しました」

 「何を?」

 「主君の新しい奥方が、たいへん面倒で、たいへん頼もしい方だということを」

 「褒めていますか」

 「半分は」

 「残り半分は?」

 「これから胃薬の在庫を確認しようかと」

 真顔で言うので、アリエルはつい笑ってしまった。


 馬車は北へ向かって進む。


 王都で着せられた罪はまだ消えていない。継母も、ローデン侯子も、きっとこのままでは終わらせないだろう。けれど、それでも。


 逃げるためではなく、取り返すために進む道なら、前を向ける。


 アリエルは赤字だらけの契約書を見下ろし、そっと指先で自分の署名をなぞった。


 夫婦は対等である。


 一行目から、そう書き換えた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ