第2話 契約書の一行目から、夫婦は対等である
王都を出る馬車の中で、最初に静寂を破ったのは、紙をめくる音だった。
公爵家の紋章が押された仮契約書を膝に広げ、アリエルは目を細める。揺れる車内でも読みやすいよう、文字は大きめだ。つまり、急ぎで用意したわりに丁寧ではある。だが丁寧と対等は別だ。
「第四条」
アリエルは読み上げた。
「公爵夫人は公爵家の名誉を損なわぬよう、領内外において慎み深く振る舞うこと。ずいぶん便利な文言ですね」
向かいに座るアルヴァが答える。
「一般的な雛形だ」
「一般的な雛形は、よく女の口を塞ぐ道具にもなります」
「そのとおりだ」
認めるのが早い。
アリエルはペン先をインク壺につけた。さらり、と斜線を引く。
「削除します」
「異論はない」
隣に控えていたユーソフが、え、と小さく声を漏らした。
彼は若い側近で、馬車の揺れに合わせて書類箱を押さえている。落ち着かないらしく、さっきから膝の上の指が忙しい。王都の広間で見たときよりも、ずっと人間味がある。
「公爵閣下」
ユーソフが恐る恐る口をはさんだ。
「一般的な雛形を一般的でなくしてしまうと、法務局の確認が」
「法務局には新しい文面を出す」
「はい、ですが、ええと、こんなに赤字が増えると」
「増やします」
アリエルが言った。
「まだ三行目ですもの」
ユーソフはとうとう口を閉じ、窓の外を見た。逃げ道を探している顔だった。
王都の城壁が遠ざかっていく。早春の街道はぬかるんでいたが、空はもう明るい。雨のあとの野は黒く湿って、ところどころに若草の色が見えていた。
アリエルは視線を契約書へ戻す。
「第七条、公爵夫人は邸内の研究施設に立ち入る場合、公爵または指定管理者の許可を要する」
また線を引く。
「これは書き換えます。わたくしは許可制ではなく、常時出入り可能。必要に応じて標本、記録、栽培計画書を閲覧・複写できること」
「複写も認める」
アルヴァが即答する。
「原本の持ち出しは事前申告を」
「妥当です」
アリエルはさらさら書き足した。
「それから、わたくしが指名した補助者の立ち入り権も必要です」
「人数制限は」
「まず三名。のちに追加申請」
「いい」
ユーソフが小さく天を仰いだ。
アリエルはその反応を見て、少しだけ口元をゆるめた。緊張しすぎて肩が上がっている。主君が突然結婚したうえ、花嫁が契約書を解体しているのだ。そわそわもするだろう。
「次です」
アリエルは新しい紙を引き寄せた。
「独自予算。月ごとに定額枠をください。用途は、調査旅費、資料複写、試験栽培、人員雇用、相談室運営」
「相談室?」
アルヴァが初めて問い返した。
「働く女性や使用人が、雇い主や家族や婚姻のことで困ったときに、話せる場所です」
アリエルは自分でも驚くほど自然に言えた。
「帳簿や森の異変は、机の上だけでは見えません。暮らしている人の声が必要です。それに」
一瞬だけ、王都の広間が脳裏をかすめる。
「黙らされる場所ばかりの家で育つと、声を出すだけで体力を使うのです。話せる場所があれば、救われる人がいる」
車輪の音が、しばらくのあいだ続いた。
アルヴァは彼女を見ていたが、やがて短くうなずいた。
「予算項目に入れよう」
「ありがとうございます」
「礼はまだ早い。実際に動かしてからだ」
「そうですね。では、動かしやすい額をください」
「強気だな」
「条件交渉で遠慮をしたことがないので」
「見ればわかる」
その一言にからかいはなく、観察の結果だけがあった。アリエルは少しだけ眉を上げる。この人は、人を笑うより先に記録する。
嫌いではない。
「侍女の選定権も必要です」
「認める」
「離縁の自由」
「認める」
「契約期間中、わたくしの私物と研究成果は、離縁時にすべて持ち出し可能」
「機密に触れぬ範囲で認める」
「その“機密”の範囲を具体的に」
「北辺の軍事、徴税、領境警備。農法と薬草研究は、共同開発分だけ協議」
「共同開発の定義は」
「双方が記録に名を残したもの」
「よろしい」
ペン先が紙を走るたび、馬車の中の空気が変わっていく。拾われた娘ではない。名義を貸す男でもない。条件を積み上げ、互いの線を引く。奇妙なくらい、呼吸が楽だった。
しばらくしてユーソフが、ついに耐えきれなくなったように言った。
「あの、失礼を承知で申し上げますが」
「どうぞ」
アリエルが返すと、彼は背筋を伸ばした。
「公爵夫人になられる方が、ここまで具体的に予算配分や閲覧権を求めるとは、想定しておりませんでした」
「あなたは、公爵夫人は何を求めると想定していたのですか」
「その」
彼は耳まで赤くした。
「宝飾品とか、夜会の席次とか、応接間の壁紙とか」
「壁紙も大事ですが、今は後回しです」
「後回しなんですね」
「母の手記と、研究棟の資料と、森の異変のほうが先です」
アリエルは契約書の余白へ小さく印をつけた。
「それに、夜会の席次で人は助かりません」
「壁紙でもあまり助からないな」
アルヴァが低く言う。
ユーソフが一瞬きょとんとして、それから吹き出すのを必死にこらえた。アリエルも、唇の端がゆるむのを止められなかった。
笑ったあとで、ふと気づく。
王都を出てまだ半日も経っていないのに、さっきまで喉の奥にへばりついていた重苦しさが、少し薄れている。
「ひとつ、こちらからも条件がある」
アルヴァが言った。
「何でしょう」
「無茶は事前に申告してほしい」
「無茶の定義によります」
「ひとりで危険な場所へ行くこと」
「それは合理的な範囲で避けます」
「合理的な範囲、か」
「わたくしにも予定がありますので」
「その予定が面倒だという話をしている」
真顔で言うから、アリエルは思わずまばたいた。
面倒、と言われて腹が立つより先に、妙な納得がきた。たしかに自分は面倒だろう。黙って守られる気も、綺麗に飾られる気もない。調べるし、聞くし、口も出す。
「では、わたくしからも条件を追加します」
「聞こう」
「あなたも無茶をする前に申告してください」
「私が?」
「公爵閣下は、自分だけは例外だと思っていそうです」
アルヴァは一拍黙った。
「気をつける」
「気をつける、では契約条文になりません」
「……申告する」
「よろしい」
ユーソフが、今度は本当に天を仰いだ。
街道の向こうに、小さな雨雲がまだ流れている。だが雲の切れ間から射す光は、さっきより明るい。アリエルは契約書をめくりながら、自分の手元に新しくできた余白を見つめた。
実家にいたころ、紙の余白はいつも誰かに奪われた。そこに書くのは母であり、継母であり、家の都合だった。自分の一行は、いつもあとから消される。
でも今は違う。
赤字だらけの契約書は見苦しいかもしれない。けれど、そこに引いた線は全部、自分で選んだ線だ。
「これでひとまず形になります」
アリエルは最後の頁をそろえた。
「確認を」
アルヴァが受け取り、黙って読んでいく。その横顔に焦りはなかった。形ばかりの妻を置いておきたい男なら、もっと面倒そうにするはずだ。
やがて彼は紙を重ね、署名欄に自分の名を記した。
濃く、迷いのない筆跡だった。
アリエルも続けて署名する。アリエル・ハーグレイヴ。まだその姓のままで。
「正式登録までは伯爵家の姓でいい」
アルヴァが言った。
「急に変えろと言われても、記録の照合が面倒になる」
「助かります」
「実務の話だ」
「ええ。そういう話が一番助かります」
ユーソフが新しい封筒へ契約書をしまいながら、ぽつりとつぶやいた。
「……逃避じゃなくて、反撃の足場なんですね」
アリエルは視線を上げる。
「はい」
窓の外へ広がるぬかるんだ道を見た。
「わたくし、この結婚で隠れるつもりはありません」
封筒の角を指で整えながら、静かに続ける。
「北辺へ行って、母の資料を追います。森の異変も調べます。必要なら、王都にだって戻ってきます。今日、広間で奪われかけたものを、きちんと取り返すために」
ユーソフは目を丸くして、それから少しだけ姿勢を正した。
「承知しました」
「何を?」
「主君の新しい奥方が、たいへん面倒で、たいへん頼もしい方だということを」
「褒めていますか」
「半分は」
「残り半分は?」
「これから胃薬の在庫を確認しようかと」
真顔で言うので、アリエルはつい笑ってしまった。
馬車は北へ向かって進む。
王都で着せられた罪はまだ消えていない。継母も、ローデン侯子も、きっとこのままでは終わらせないだろう。けれど、それでも。
逃げるためではなく、取り返すために進む道なら、前を向ける。
アリエルは赤字だらけの契約書を見下ろし、そっと指先で自分の署名をなぞった。
夫婦は対等である。
一行目から、そう書き換えた。




