第160話 紅い痕 下
アルヴァルディの皆との楽しかった夕食を終えて戻り、いつの間にか着替えてベッドに身を投げていた鳴鳥。
彼女は真夜中に目が覚めてしまい、ゆっくりとした動作で上半身を起こして辺りを見回して首を傾げた。
自分がいつこの部屋に戻ってきたのか全く憶えていない彼女は昨晩の事を思い起こそうとするが、アルコールの残った状態ではまともに頭が回らない。
取り敢えず水を飲んだが気分は晴れずにいた所、ふとラウンジに二日酔いに効くドリンクがあって、マリアンとコンラードが飲んでいたのを思い出した。
そうと決まれば即行動と言った風に寝間着姿に上着を羽織り、鳴鳥はラウンジに向かう。
「あれ……?」
消灯時間を過ぎたラウンジには常夜灯のみが点いている筈で、誰か人が居ると照明が点くようになっている。
こんな時間に誰が居るのだろうかと首を傾げつつ室内に入ると、そこには会いたくてたまらない者が一人ポツンと座っていた。
「……ナトリか」
「ジルベルトさん……」
ぼんやりとした意識は彼の顔を見た途端に吹き飛んでしまい、目もパッチリと冴えてしまう。
思わぬところで逢えて、嬉しさにはにかむところだが、ジルベルトの表情が浮かない事に気が付いて駆け寄る足が止まってしまう。
疲れなど感じない体の筈だが、ジルベルトの表情には疲労の色が見えて。
それでも鳴鳥の前ではそのような顔を見せたくは無いのだろう。
彼は直ぐに口端を上げ、何でもないといった風を装う。
「……あの、ジルベルトさん。何かあったのですか?」
「それはこっちの台詞だ。こんな夜中にどうした」
「わ、私はその……、えっと……」
何か悩んでいるような素振りのジルベルトを前にして、お酒に酔っぱらっていましたとは言えずに口ごもる鳴鳥。
言い難そうにしている彼女へと椅子から立ち上がり近づいたジルベルトは、微かに香る匂いで大体を察したようで、肩を竦めさせながらも冷蔵庫からドリンクの瓶を取り出して持ってきた。
それは鳴鳥がこのラウンジを訪れた理由の物で、恥じらいつつも礼を言い、有難く受け取った。
「……あまり飲み過ぎるなと前から言っているだろう」
「……すみません」
「いや、まぁお前だけが悪いのではない。付き合わせているアイツらの方を締めないと」
「み、皆さんは悪くありませんよ……! 私が自分の限界を考えてないだけであって、皆さんは私の事を気遣ってくれての事ですし……」
「……そうか。それならば、回りまわって俺のせいという事になるか」
「……え? そ、そんな事はないですよ。ジルベルトさんも悪くは――――」
「いや、ここの所空けてばかりで済まなかったな」
「それは……。お忙しいのは仕方がない事ですから。だから私は大丈夫です」
寂しくない訳ではなかった。
けれども彼は軍人であるからして、色々と忙しくもあるのだろう。
詳しい説明が無いのは何時もの事であって、中には説明もしにくいことがあるのだからと鳴鳥は自分を納得させようとした。
それでも気にはなり、大丈夫だと気丈に振る舞うが、こうして目の前にすると段々とボロが出てくる。
鳴鳥としては笑っているつもりであったが、その瞳に不安の色が滲んでいるのをジルベルトは見逃さなかった。
鳴鳥を不安にさせていることは分かってはいた。
けれども今のジルベルトには言葉で謝る事か、心配は要らないと頭を撫でる事くらいしかできなくて、全ての不安を取り除くことが出来ない。
そしてそれは今だけでなく、この先も続くのだと思い知らされた。
大丈夫であると言い張る鳴鳥の頭を撫でていたジルベルト。
飲み過ぎた気持ち悪さはドリンクのお蔭でスッキリとしたのか、具合は悪そうになく、今では撫でられることで心地よさそうに目を細めている。
「……眠くは無いか?」
「はい……。なんだか目が冴えちゃって」
「そうか。こんな時間になんだが、これから少し時間を良いか」
「は、はい……! 喜んで……!」
久しぶりに感じる二人きりの時間。
思わず喜びを抑えきれずに食いつき気味になってしまった鳴鳥。
そこまで喜ぶ程なのかとジルベルトには驚かれたが、だとしたら彼は嬉しくないのかと不安になる。
そんな事は無い、自分も嬉しいのだと言うが、どうしても気持ちの差がある様な気がしてならない。
けれどもそれはジルベルトの自室を訪れるまでの事で。
扉が閉まった途端、彼は後ろから覆いかぶさるように鳴鳥の身体を抱き締めた。
「ジ、ジルベルトさん……?」
「…………ナトリ」
どこかいつもとは違うジルベルト。
突然の抱擁に戸惑っていた鳴鳥だが、彼女は更に驚く事となる。
どうしたのかと身を捩らせて振り向いた彼女に対し、ジルベルトは一旦回された腕を緩めて、そしてまた背に手を回し引き寄せ、少し身を屈めさせる。
超えてはならない一線。
互いを想い合うが故に耐えていた筈だが、それをあっさりと、最初から無かったかのようにジルベルトは鳴鳥に触れる。
これまでの軽い触れ合い、手を繋いだり、抱きしめたりするものではなく、もっと親密な行為……唇と唇が重なった。
「ジル……、ベルトさん……」
「ナトリ……」
軽く触れただけの口付けの後、再び唇と唇が重なる。
今度は長く、激しく、貪るような形でジルベルトは鳴鳥の唇を味わう。
突然のことで気が動転した鳴鳥は咄嗟にジルベルトの胸板を押しやり逃れようとした。
けれども腰と頭に回された手に込められた力に抗う事は出来なくなっていく。
ひとしきり、周りが見えなくなるくらいにその唇の感触に没頭していたジルベルトだが、鳴鳥が抵抗してみせたのに対して申し訳なさそうな、悲しそうな表情でゆっくりと顔を離す。
そして手の力を緩めて拘束を解放した。
今なら容易く逃げられるのだが、鳴鳥はジルベルトの切なげな瞳から目が離せなくなっていた。
「ど、どうして……? 身体は大丈夫なんですか?」
互いに想い合っていても深く愛し合うことができなかった理由。
それはジルベルトがARKHEDと契約を交わした際に架せられた枷、だったのだが、彼は今その事が無かったかのように振る舞う。
拒まれたことに動揺を隠せないでいたジルベルトであったが、それは鳴鳥が自分の身を案じてくれての事だと分かり、困ったように眉をハの字にして口端を上げる。
「情けないが、我慢の限界だ。俺はお前が欲しい……。……嫌だったか?」
「な、情けなくなんかないです……! その……、突然でびっくりしましたけど、……嬉しいですし」
「そうか…」
伸ばされた手は鳴鳥の腰に回り、優しく引き寄せられて抱きしめられる。
このままずっと、こうしていられたらどれだけ幸せなのだろうかとも思うが、枷に対する不安から安心はできない。
枷によって身体的に傷つくのは鳴鳥だが、何より彼女が怖れるのはジルベルトの心を傷つけてしまうことである。
大切に想う者を自らの意思に反して傷つける。
そうなってしまえばどんなに鳴鳥が許そうとも、彼は自分を許せないだろう。
彼の身を案じて身を引こうとする鳴鳥であるが、心配はいらないとジルベルトは微笑み、軽く触れるだけのキスを額に落とした。
「今のところ、何も起きてはいない」
「そう……、ですけど……。でも……!」
「俺の事は大丈夫だ、心配などいらない。お前の事も絶対に傷つけない。奴ら……、クランドやフラヴィオにも乗り越えられたんだ、俺ができない筈がない」
ジルベルトは鳴鳥を抱え上げると寝台へ壊れ物を扱うように優しく下す。
そして自らも寝台に上がって鳴鳥を見下ろすが、その表情はいつになく真剣なものであり、大人しくされるがまま、言葉を待つ。
腰のホルスターから銃を取り出したジルベルトは寝台のすぐ傍にあるサイドテーブルにそれを置いた。
「ここに置いておく。いざとなれば容赦なく撃ってくれ」
「そんな事……、私には……」
「制圧用の電撃銃だ。それに俺はどんな攻撃でも死に至ることはない」
「けど……」
「頼む」
耳元に顔を埋めたジルベルトは何時もより低い声で乞い願う。
「どうしても……今、お前が欲しい」
最初から答えは決まっていた。何度もこうなる事を夜ごと夢に見てもいた。
鳴鳥は不安な気持ちを拭いきれないが、自分の気持ちに素直になる。
と、言っても恥ずかしさからか、上手く言葉は紡げず、ただ小さく頷くことで返事をした。
「嫌だったら無理をせずに言ってくれ」
「はい……。……あ、あのっ」
「ん……? 何だ?」
「その……、ここまで来て言うのも何なのですが……。私……どうすれば良いのかが……」
これまででも赤く染まっていた鳴鳥の頬がより一層赤くなり、両手で顔を隠した。
彼女の言わんとしたことを理解したジルベルトはクツクツと笑う。
膝立ちになり覆い被さった彼は優しく手を取り払い不安そうな鳴鳥に微笑む。
「知っていた」
「えぇ!?」
目を丸くして何故気づかれていたのだろうかと考えを巡らせる鳴鳥に対し、ジルベルトは肩を震わせて笑う。
そこまで笑われてしまうと気恥ずかしさより不満が募るらしく、ムッとした顔で恨めしそうにねめつける。
ひとしきり笑って落ち着いたのか、ジルベルトは再びナトリと視線を合わせると、眉間に寄った皺を消すようにキスを落とした。
不意打ちとも言えるその仕草に怒りは誤魔化されてしまった。
「すまない」
「ううん……、いいです、別に」
「嫌になったか?」
「……ジルベルトさんが意地悪なのは前から知っていますので」
「嫌いになったか?」
「なるわけないです……。私はずっと……、どんな事があっても……、貴方が好きです」
「……俺もだ」
瞳を閉じるとそれが合図であるかのようにジルベルトは唇を重ねる。
何度かついばむようなキスを交わしたのち、口内に舌が入り、閉じた歯をなぞる。
初めて感じるくすぐったいような心地よさに呆けてゆっくりと閉ざされていた歯と歯を開くと、舌と舌が絡み合う。
激しく深いキスに体が強張っていたのが緩まるが、鳴鳥は慣れない行為に息が続かなくなる。
苦しがっていたことに気が付いたのか、ジルベルトは名残惜しそうに鳴鳥の唇を解放した。荒く息を上げる二人の間には先程まで繋がっていた証拠である糸が繋がり落ちる。
「すまない、加減ができなくて……。いい歳なのに本当に情けない」
「そ、そんな事ないです。えっと……それだけ求めてくれているって事ですよね? そうだとしたら私、嬉しいです……」
「ナトリ……。お前は……」
ジルベルトの顔が耳元に近づく。
小さな声で「可愛いな」と褒められてこれ以上ない程に頬に熱が集まるのが分かる。
耳をペロリと舐められ、耳たぶを甘噛みされると思わず吐息が漏れてしまい、自分から反射的に出た恥ずかしい声に対して咄嗟に手で口を覆うが、ジルベルトはそれを許さない。
手を掴んで除けると、軽く唇を重ねた後に呟く。
「もっと聞かせてくれ……、お前の声」
唇は首筋に、ざらつきぬらぬらとした舌が這い、リップ音を立てて吸い付いた跡には紅い痕が残る。
キスを交わし、痕を残しつつ、ジルベルトは鳴鳥の衣服に手をかけた。
痛みもあったが、それ以上に心地よく、痺れるような快感も味わった夜。
まだ下半身に残る痛みが昨夜の出来事を思い起こさせて、身体全体に感じる気怠さはどれほど愛されたかを物語っていて。
しんどくもあるが満たされた想いで鳴鳥は目覚めた。
枷を恐れることは無かったのだと、きっと奇跡が起きて二人で乗り越えられたのだと思っていたが、彼女が目覚めた時、隣には愛しい者が居なかった。
先に起きているのかと思い慌てて部屋を見渡すが、彼の姿は無い。
また今日も朝から任務でもあるのかと思い至るが、何も言わずに置いて行かれて少し寂しくも感じる。
それでも結局は心配など要らないと楽観的に考え、床に落ちていた衣服を纏おうとする。
「……? ……これ、……何だろう?」
衣服を拾い上げた時に床に落ちたのは青色のカプセル剤で、それは見た事のない薬であった。
何故だかそれを捨てられずにいた所、来客を告げる音が鳴り、鳴鳥はビクッと身体を震わせる。
今現在この部屋にはこの部屋を私室としている人物、ジルベルトが居ない。
朝方に、自分一人だけという状態でどうしてよいか戸惑う鳴鳥だが、呼び鈴は治まることは無い。
冷やかされるのを覚悟して急いで身支度を整えた後に応答すると、そこには焦りを見せるマリアンの姿が在った。
「ああ、ナトリ、やっぱりここに居たのね」
「マリアンさん。その、えっと、これは――――」
「ナトリ、落ち着いて聞いて欲しいことがあるの」
「え……?」
想いを確かめあった夜が明けて、そして訪れたのは辛い現実であった。




