序章(追憶の雫)
眼下に広がるのは春の薄い水色の空。
地上には青々とした山が連なり、山際は段々と白くなり、太陽がひょっこり顔を出す。山の麓には、赤い屋根が所狭しと建っており、家と家の間を不格好な路が通っている。ルイネサス大陸のルビーと称えられる、赤い屋根に真っ白な壁が春の陽気な雰囲気で活き活きとしている。家のベランダ、玄関前、大通りに色とりどりの花が咲き乱れている。
―――とうとう、着いたんだ。
山が、まるで自分が帰ったことを喜んでくれているようだ。
さわさわと揺れる木々の間をすり抜けて、私は口の端を持ち上げた。
春の女神、フェラーチェに愛されている、金の髪に春空の瞳を持つ愛らしい少女は、見晴らしの良い道に出ると立ち止まり、背中に担いでいたリュックを地面に置いた。そして両手を一杯に広げて深く息を吸い込み、吐き出した。
山が笑ってる。
私も、嬉しさが身体中から湧いてきてとうとうこらえきれなくなって、声を上げて笑った。
『ちょっとアイリーン、不気味よ。笑うのをやめなさい』
すると、少女の影がにょきっと動き、狼より一回り小さい、でも犬よりは少し大きめの獣が出てきた。少し低めだが、紛れもない女性の声で獣は言った。
『一人で笑ったりして。変な人みたいだわ』
獣は優美な仕草で影から出ると、少女の前にちょこんと座った。
「フィーラ、だって私帰ってきたのよ? 帰ってこれたの!!」
少女は体全部を使って喜びを表すとフィーラとよんだ獣に抱きついた。ふわふわの短い髪が、フィーラの体をくすぐる。
「今から家に帰ってーお風呂に入るの! でね、ふかふかの布団にくるまって、眠たくなくなるまで寝るのー・・・」
幸せいっぱい。
考えただけでアイリーンの目には涙が溜まってきた。
自宅へ帰ってからのことを、あれこれと想像するアイリーンに、冷たい声が抱きついた獣から発せられた。
『リーン、まず始めにしなくちゃいけないことがあるでしょう』
「・・・なんのことかさっぱりわからない」
『協会に着いたのなら、まず、ライオネルに報告に行かなくちゃ。そうでしょう?』
「ううー・・・」
まるで子どもに言い聞かせるようにフィーラは懇々とアイリーンを諭す。
『旅塵を直ぐに落としたいのはわかるわ。散々だったものね。でも、まずは帰還の報告、そして任務の報告をしなくちゃね』
アイリーンは渋々肯くと、地面に置いたままだったリュックを再び背負った。
まずは魔術協会に戻り、帰還の報告を。
報告をしに行かなければならない人物を思い浮かべてアイリーンは引っ込んだ涙が再び顔を出すのを自覚した。
今回の任務は散々だった。
キヌ山に出没する魔獣を退治してほしい、という依頼だったのだが、初めは眉唾物だと思ったのだ。依頼内容には”確認出来ているだけで、三十匹は生息している。とても手に負えない“と描かれていたのだ。
少し誇張してあるだけだろう。そう高をくくって、自分と契約している聖獣を喚んだはいいものの、倒しても倒しても、わんさかと魔獣が出てくる。キヌ山には合計五十二匹の魔獣がいたのだ。
ありえない。
そう、ありえないことなのだ。
普通は多くいても二十匹前後しかいない。魔獣は徒党を組むこと自体が少ないのだ。大抵徒党を組んでいるのは血縁関係のあるもの同士だということが、最近の研究結果で判明しているが、なし崩しに一緒になったというのがほとんどだ。
だが、キヌ山の魔獣達は、一匹の大きな魔獣に従って攻撃をしてきた。
これは今までにないことだ。
全滅するのに三日かかった。
そして、協会に帰るまでに盛大に迷いに迷って、普通は四日の道程を十日かけてやっと戻ってきたのだ。
だからこそ、家に戻って、お風呂に入って、ほかほかになって、美味しい【ナディールの料理店】でお腹いっぱい御飯食べて、ふかふかの布団にくるまって寝たかったのに!
アイリーンは横で悠然と歩くフィーラをちらと盗み見た。
フィーラが見張っているから協会に行かなければならない。
「くそう・・・報告書は絶対休んでから書くことにしてやる」
『そんなことしたら、あなたのことだから忘れるでしょう。何事も明日に回さず今日中にやってしまいなさいって言ってるでしょう? ほら、早く歩きなさい!』
檄を飛ばすフィーラに押されながらアイリーンはやっとで協会本部の門へとたどり着いた。
門の前では門番が腰に得物を下げて直立している。
アイリーンはぺこりと頭を下げて門番に胸元に仕舞っていたペンダントを見せた。ペンダントには親指ほどの大きさの楕円形の銀プレートがあり、オレンジ色の結晶がはめ込まれている。
「アイリーン・ラナ・ローンデージー、魔獣術士です。任務より只今戻りました!」
「任務ご苦労様です。おかえりなさい」
「ただいまー!」
門番はペンダントを確認すると、にっこり笑ってアイリーンとフィーラを通してくれた。
アイリーンは疲れ果てた足を引きずって門をくぐり抜けた。
「はあ・・・」
疲れた体に鞭打ってまで行くのが協会・・・そう思うと憂鬱で、思わず溜息をつくアイリーンの足を、フィーラが自身のふさふさな尻尾でびしっと叩く。
「もう! しゃきっとしなさい、しゃきっと!」
「はぁい」
門をくぐって出迎えるのは厳かな白亜の城、そう、城と形容するにふさわし厳格で広大な建物が視界一杯に広がっていた。白亜、といっても協会の周りにある家々と同じように壁が白くて、屋根が赤い煉瓦で統一されている。玄関は開け放たれていて、少し中に入ればすぐに受付のカウンターがある。
受付のお姉さんに、アイリーンはもう一度門番の人にしたのと同じようにペンダントを見せると、お姉さんはにっこり笑って「おかえりなさい」と言ってくれた。
アイリーンは任務に行く前と帰った来たときのこのやりとりが、少し照れくさい。けれど、やっぱり、こうやって面と向かっておかえりなさい、といわれるのは嬉しいから、大きな声で「ただいま!」と言うことにしている。横でフィーラが「良くできました」というのは無視しておく。誰かに挨拶するたびに感極まったように言うフィーラに、最近は辟易している。一体私のことを何歳だと思ってるんだ。
ぶつぶつと心の中で文句を連ねていると、フィーラがぴたりと立ち止まった。
「どうしたの、フィーラ」
フィーラが答える前に、柔らかな声が辺りに響いた。
「あれ、アイリーンとフィーラじゃないか。久しぶりだね」
声のした方をみると、柔らかく微笑んだ友人、インヴェルノと使い魔のアラノがいた。玄関の先にある広場に立っていた二人は、アイリーンと同じで任務から帰ってきたばかりなのだろう。旅装のままだ。アイリーンは二人へ駆け寄ると、交互に見上げた。
「久しぶりね、インヴェルノ、アラノ! 帰ったばかりなの?」
「そうだよ、アイリーンたちも?」
『私達も帰ったばかりよ。お帰りなさい、インヴェルノ、アラノ』
優しい、まさに母親のような声でフィーラが応じる。さっきまで口うるさい小姑のようにアイリーンの言うこと成すことに文句を言っていたとは思えない。それほどにフィーラはアイリーンにばかり厳しい。
「ただいま、フィーラ」
フィーラの前に膝をついてインヴェルノが挨拶すると、ふさふさの白い尻尾を二回降った。嬉しいときのフィーラの癖だ。
「二人とも今から、あれ、書くの?」
あれ、というのは勿論、任務に行ったときに必ず書かなければいけない報告書のことだ。
「ああ、報告書のことか。それなら全部街で書いたよな?」
アラノがすぐに気づくと、脇で何のことか判らず考えているインヴェルノに聞いた。
「うん。書いた。もしかしてアイリーンまだなのか」
『ええ。そうよ。どれだけ現地で書いておいたほうがいいと言っても、後でするって・・・結局書かないまま帰ってきたのよ』
「別にこっちに帰ってきてから書いちゃ駄目なわけじゃないでしょ」
『そうやって大事な事を後回しにして泣くのは何処の誰かしら』
「・・・」
ぐっと詰まったアイリーンを見てフィーラはふうと溜息を吐くと、ぴしりと尻尾を地面に打った。
『早く済ませてしまったほうが、心おきなくゆっくり体を休めることが出来るでしょう』
フィーラの言うことは正しい。何も言い返せないのが悔しい。
「アイリーンの負けだね。早く書いておいでよ。じゃあ、俺たちは提出しに行くね。早く行かないとロイが煩いからさ」
ひらりと手をふると、インヴェルノとアラノは人混みへ消えていった。
『さあ、アイリーンも部屋に戻って、報告書を書きましょ』
「絶対さっさと終わらす! で、休む!」
アイリーンは拳を突き上げると、高らかに宣言した。
「よし、と」
最後の一文字を書き終えてアイリーンはペンを机の上においた。大雑把に隅にやられた荷物が散乱する中、中央に置かれた敷物の上に寝そべっていたフィーラが身を起こす。
『完成した?』
ふわふわの尻尾を振りながらフィーラが机の近くまで寄ってくる。
「うん。完成したわ。私にしては上出来よ、きっと」
頷きながらアイリーンはもう一度書面を確かめる。誤字もないか確かめたし、とりあえず、修正すべき所は修正した。後はライオネルに提出するだけである。
『まあ、とりあえず書けて良かったわね。一発で通るといいんだけど』
「あー! そこが一番の問題じゃない!」
わしゃわしゃと頭をかきむしり机に突っ伏すと、アイリーンは滔々と文句を垂れた。
「大体、何で文章にしなきゃ行けないのよ。口頭でも言うんだから、わざわざ書く必要なんてないじゃない。これっぽっちも必要性を感じないわよ。世の中にはねえ、本を、というか字を読む事が嫌いな人だっているのよ。そういう人たちに申し訳ないとは思わないわけ?」
『はいはい』
「フィーラもそう思うでしょう? それに、文章を考えることが苦手な人に、書けっていうほうが可笑しいのよ。書けるわけないじゃない」
『文章、というより文字から怪しいでしょ』
「そうそう。・・・ってちがーう!」
『要は書きたくないだけでしょ。文章なんて練習よ、練習』
アイリーンは文章を書くのが苦手である。いや、苦手というレベルではない。しかも文字が汚く、ミミズがのたくったような字を書面に連ねる。文字を判別することすら難しい時がある。それ故に、このような書類を書かなければならないときは、常に苦心している。一生懸命書いてることは判るのだが、如何せん、文字が読めないほど汚いのでは、提出しても受理されることがない。ライオネルは、アイリーンが所属する班のリーダー、つまり直属の上司である。ライオネルもアイリーンの悪筆は、わざとではないことは判っているのだが、読めないのだから仕方ない。
「練習はしてるんだけどなあ・・・」
『たまにでしょ』
ぴしっと尻尾で地面を叩くと、フィーラは部屋の入り口まで歩いていった。
『さあ、さっさと提出しちゃいましょ』
「やっぱ明日じゃ駄目? 今日はゆっくり休んで・・・」
『駄目って言ったでしょ!』
「はぁい」
渋々肯くと、アイリーンは重い腰を持ち上げた。
「何だこれは」
目の前の焦げ茶色の頭が俯き、アイリーンの書いた報告書をじっとみている。室内に重々しく響いた声に、アイリーンは黙って肩をすくめる。これから来る反応はわかってる。
「くっくくくっくく・・・あーはっっはははっはは!」
盛大に腹を押さえ笑う目の前の男にアイリーンは殺意と同時に、泣きたくなった。お腹に響く笑い声は大きく、きっと廊下まで響き渡っているだろう。どうか、両隣の部屋に誰もいませんように、とアイリーンは祈った。この男が笑う度、この声を聞きつけて、わざわざアイリーンの字を見に来る馬鹿がいるからだ。
「くくく・・・何だこの字! ほんっとお前天才だよ! これ何語だよ? どこの言葉? 俺に教えてくれ、もう本当にすげえ、何この字! お前右利きだよな。左で書いたの? 」
涙を拭いながら、アイリーンに聞いてくるのは、アイリーンの所属する班の直属の上司、ライオネル・チョーサーである。焦げ茶色の髪と目と、これといって目を惹く容姿ではないが、背がとにかく高い。アイリーンの頭二つ分は高いのではないだろうか。初めてアイリーンがこの男と出会った時は、あまりの背の高さと、太い眉毛に意思の強そうな目に射抜かれて、蛇にあった蛙みたいに動けなくなった。
「わざとじゃないですよ」
報告書を出す度に、笑われるのは気分が悪い。わざとじゃなく、丁寧にを心がけて頑張った結果がこれなのだから余計に腹が立つ。
「わかってるんだけどよ。だって、これ、ここ・・・」
また笑いながら、文を指して笑うとライオネルは目尻の涙を拭った。
「あー。笑った、笑った。お前本当字下手くそだよなあ。まあ、今回は一応読めるし、これでよしとするか」
「え? いいの?」
「あ? これわざと書いたのか?」
「ち、がう、違う違います!」
「ならこれでいーだろ」
いつになくライオネルが優しい。いつもならば、あと二回は書き直しを言い渡されるのに今回は再提出は無しだ。いつもと違ってすんなり終わったことに若干薄気味悪さを感じながら、アイリーンは家へ帰った。
翌日正午。【ナディールの料理店】に常連客が久しぶりに訪れた。ふわふわの金髪に、春空の目の可愛らしい少女、アイリーン・ラナ・ローンデイジーだ。
どっかり着席すると、お品書きも見ずに注文する。出てきたお冷やを一気飲みして、思いっきり溜息をつくと、アイリーンは昨晩のことを思いだした。
ライオネルに報告書を提出し、直ぐに家へ帰り、お風呂に入って一眠りする。いつもは夜まで起きないのだが、この日は夕方に、無遠慮な訪問者がやってきたのだ。
「おう。邪魔するぞ」
「お邪魔します」
突然の訪問者は、今日、任務から帰還したということを知ってるはずのライオネルと、もうひとり、班のサブリーダーであるアドリアナ・ベックが来たのだ。
「アイリーン、ごめんなさいね? 任務から帰ってきてヘトヘトでしょうけど、大事な話があるの」
申し訳なさそうに謝っているのに、有無も言わせず、玄関から居間へ上がり込む二人に何も言えずに見ていると、ライオネルが勝手に居間の椅子に座り、アドリアナも勝手に湯をわかして、勝手に持ってきたお茶を淹れ出す始末。
「あの、ちょ、ちょっとまって」
「おう。まあ、落ち付けや、アイリーン」
にかっと笑うとライオネルはご丁寧に自分の隣の椅子をひいてくれる。
「あ、ご丁寧にどうも・・・じゃなくて! ここ、私の家なんですけど!」
「あ? 知ってるって。ここ俺の家じゃねーし」
「私の家でもないわねえ」
「そーですよねえ! おかしいなあ! 私、まだいらっしゃいとも、そこに座ってくださいとも言ってないのになあ!」
お茶を飲みながら暢気に返す二人に、アイリーンは頭を抱えた。
「落ち着いたかー?」
我が物顔で、家に居座る二人にアイリーンは呆れてものも言えない。横で暢気にお茶をすするライオネルと、目の前でアイリーンのお茶まで用意し、なおかつ、アイリーンが隠し持っていたお菓子まで、お茶請けにと用意してくれているアドリアナを睨むと、アイリーンは溜息をついた。
「落ち着きました。で、用はなんですか?」
その言葉に、アドリアナは可憐な笑みをみせる。
「よかった。そのことなんだけどね・・・」
美しいその笑みに思わず釘付けになっていると、横にいるライオネルがとっても嬉しそうな笑顔で、アイリーンの肩を掴んだ。無理矢理視線を合わせられたその先には、邪悪な笑顔。
「アイリーン、喜べ!」
喜べない。こんな笑顔の時は、とんでもないことを言い出すんだ。
「また、出張が出来るぞ! しかも、初めての合同任務だ!」
もぐもぐと口を動かしてひたすら食べる。目の前に出された食事は、エビフライ定食。アイリーンが【ナディールの料理店】で一番好きな料理だ。さくさくの衣に、マビラの港で朝獲れたぷりっぷりのエビがとっても美味しい。 お皿に一緒に盛られているのはサラダ。しゃりっと歯ごたえのあるレタスときゅうりと甘いトマトに、この店でしか味わえない特性ゴマ味噌ソースが絶妙な辛さでアクセントをくれて飽きない。
ここの料理はとにかくどれも美味しい。 ずっと食べれなかった分を取り戻すためひたすら口に掻き込んでいると、チリンと店頭ある鈴が鳴った。店長のナディールがいらっしゃいませー!と言うのに柔らかい声が返事をする。 後ろを振り替えると、インヴェルノとアラノが入ってきたのが見えて、アイリーンは笑顔になった。
「インヴェルノ! アラノ! こっち、こっち!」
手招きすると、インヴェルノは嬉しそうに、アラノは面倒臭そうに顔をしかめる。
「アイリーン。今日は早かったね」
「インヴェルノ、そういうのを余計なお世話って言うのよ」
アイリーンは、ここに帰ってきたら、特に予定が無ければ、おやつ時まで死んだように眠る。疲れた体を癒すには沢山寝るのが良いのだ。インヴェルノとアラノは席に着き、にやっと笑った。
「いっつもこの時間寝てるじゃないか。そういえば、もう聞いた?」
「・・・任務のことでしょ」
「聞いたみたいだね。楽しみだ」
「そりゃ光栄だわ。インヴェルノとアラノも何か食べるでしょう?」
「うん。食べるよ」
うんざりした表情でアイリーンは脇に避けておいたお品書きを渡すと、まだ残っているエビフライを食べる。
「よし、決めた。アラノは?」
「いつものやつでいい」
丁度横を通りかかったウェイトレスに注文すると、三人は再び向き合った。
「アイリーンと仕事組むの、はじめてだな」
「そうね。それに初めての・・・」
「魔獣士が自分一人の任務?」
はあ、とアイリーンが溜息を吐くと、アラノが小馬鹿にして、鼻で笑った。
「インはいつも単独でこなしてる。お前もいつまでも、フィーラの後ろに隠れてないで仕事しろ」
「私が、いつどこで、フィーラに隠れて仕事したっていうの。こーみえても、やることちゃんとやってるわよ」
「まあまあ、二人とも喧嘩しない」
険悪な雰囲気の二人を取りなすと、インヴェルノは苦笑いをした。
「とりあえず、明日からパートナーだ。任務中、いろんなことがあるだろうけれど、よろしくね」
「・・・こちらこそ、よろしくね」
「俺にはよろしくしなくていいぞ」
「だれも、そんなことしないわよ」
再び喧嘩しそうな二人を、インヴェルノは強引に引き離すと、アイリーンに片手を差し出した。
「なに?」
「握手」
「ふふふ・・・そうね。仲間になるんだもの。よろしく!」
二人が握手しあうと、ウエイトレスが食事を運んできた。
インヴェルノは、ほかほかのバターパンと、コーンスープとサラダのハンバーグ定食。アラノはいつもの如く、フルーツパフェだ。季節によってフルーツが違って、ソフトクリームの味も変わるので、飽きないし、美味しい。
「いただきます。…そういえば、アイリーンの班も途中まで一緒なんだよね」
「うん。そうだよ」
「てことは、あのライオネルさんが一緒かあ。一緒に仕事出来るなんて嬉しいな」
にこにこ笑うインヴェルノにアイリーンは楽観的に笑うことは出来ず、溜め息をついた。ライオネルは、優秀だ。聖獣からの信頼も厚く、厳しいが彼の班に入り直接教えを乞いたいと願う者は多い。 アイリーンも初めは有名人の元で仕事を学べるのだとうれしかったが、現実はそう甘くなかった。
思いだしただけでも泣けてくる初出勤の日。
「アイリーン。どしたの?」
「うん? 何もないわ。なーんにも。」
「そ、そう?」
「御飯食べないの? 食べないのなら私がもらうけど」
「いやいや、ちゃんと食べるから!」
手を伸ばすアイリーンをさけて、インヴェルノは慌ててハンバーグを食べきる。二十分ほどかけて全部食べ終えると、三人は再び向き合った。
「ライオネルからの伝言、伝えとくわね」「うん」
「出発は、明後日の朝六時に、本部前に集合ですって」
「わかった」
翡翠色の目を細めてインヴェルノが肯くのを確認すると、アイリーンはにっこり笑った。
「じゃ、またね」
「うん、またね」
ひらりと手をふると、アイリーンは勘定をすませて、【ナディールの料理店】を後にした。