第18話、朱妃、耳打ちされる。
朱妃は騾車に揺られながら簾を上げて、外の景色を眺めている。
湊から帝都へと至る広い道。荷揚げ場から始まり、その両脇には寺や道観といった宗教施設、商館やその倉庫、船乗りたちを相手にするのであろう宿や酒舗、食事処が並んでいる。
「ふぇー……」
「朱妃様。お口をお閉じください」
思わず感嘆の声が漏れていたか。朱妃は口元をきりっと閉じる。
道沿いには男たちが並んで、行列を興味深げに眺めていた。
––確かに帝国の民の前で阿呆面を晒すわけにはいきませんね。
道を進んでいくと少し婀娜っぽい女たちが固まってこちらを眺めている一角があった。
おそらくはこのあたりに娼館や、女たちが接客する類の店があるのだろう。
「きゃーっ!」
彼女たちが嬌声を上げて、こちらに向けて手を振る。
なにかしら? 朱妃がそう思っていると、蹄の音が近づいてきた。
「馬上より失礼します」
そう言って騾車に身を寄せてきたのは癸氏であった。
なるほど、顔が良い。女たちの嬌声は彼を見ての反応かと思う。
「いえ、構いません。癸昭大人は本宮に何か御用でもおありですか?」
朱妃は癸氏に大人と敬称をつけ、自分のことを私ではなく本宮と呼称した。
本宮とは字義通り、城内に自身の宮を持つ者という意味である。皇帝の一人称はまた別格で朕であるが、皇后や妃嬪、時には王や公主も使用する一人称であった。
ちなみにここでいう王と公主とは皇帝の息子と娘のことである。武甲帝は若くして皇帝に登極し、まだ子をなしてはいない。
さて、朱妃はまだ後宮に入っているわけではない。だからまだ一人称は私で構わない。しかし本宮という言葉からは教育係件侍女としてつけた、雨雨から宮中の言葉や所作を自発的に学ぼうという意志が感じ取れた。
癸氏はこれを好ましく感じたようだ。優しげな笑みを浮かべて見せる。
––宦官であったとしてもこれから後宮入りする女に、商売女たちが声を上げるような美貌で笑みを向けるのはいかがなものかしら?
朱妃はそう思ったが、それを口には出さない。
「在下に大人は不要ですよ。癸とお呼びください。外を眺めていらっしゃいますが、何か面白いものでもありましたか?」
癸氏はすぐに用件には入らなかった。忙しい方のはずなのに、なぜ会話を引き伸ばそうとするのかしら? 朱妃はそう考える。そういえば甲板での会話の時も自分の用件は後回しにしていた。
「いえ、瓏はやはり豊かであると感心していましたの」
「ふむ、何を見てそう感じられました?」
朱妃は説明する。
砂漠や荒野にある集落や町とはその大小に関わらず、常に点と点の関係である。それはオアシスや井戸などの水場の周囲にのみ人が生きることができるためである。
こうして点と点を結ぶ線上、つまり道沿いに町ができているのは水や民の豊かさを示す象徴であると。
「なるほど。瓏で、それもこの地で生まれ育ったものには持ち得ぬ視座です」
「癸氏は玉京のお生まれでいらっしゃる?」
「ええ」
なるほど、人は住んでいたところを基準に考えるものである。大都市に住むものは小都市を寂れていると思うし、田舎に住むものは小都市を栄えていると思うものだ。
––それならば私など田舎娘もいいとこでしょうね。
なぜか胸がちくりと痛んだ。
「さて、申し訳ありませんが、在下に連絡があり、ここを離れねばなりません」
朱妃は頷きを返す。
責任者が隊列を離れるのはどうかと思う向きもあるが、そもそも遥か遠き地へと旅をして朱妃や光輝嬪を迎えていたのだ。
瓏帝国は巨大である。そして遠隔地との間での連絡は極めて困難だ。武甲皇帝や中央官僚からの連絡を、この湊でやっと受け取ることができたのかもしれない。
「今一度お伝えすると、朱妃たちは帝都に入ったところで輿に乗り換え、紫微城の後宮へと向かっていただきます。城に着いたらまずは商皇后と謁見してから宮へと案内される流れとなるでしょう」
「はい」
武甲帝の皇后殿下の名は辛商、商皇后殿下である。そして皇后とは後宮の女たちの長である。
先立っての武甲帝の親征において服従した瓏帝国四方の国々から送り出された姫。それらが妃嬪となるにあたり、つまり西の朱妃と北の光輝嬪、それとまだ会っていない南方と東方の姫は商皇后と顔合わせをして、認められてから後宮に入るということだ。
ただ、それは御座船での旅中に聞いていたことだった。
なぜここで改めて? と思っていたところ、癸氏が騾車に馬を寄せてきた。
「危のうございますよ」
服の裾が騾車の車輪に巻き込まれそうなほどだ。
「耳を」
癸氏はそれに構わずそう告げる。朱妃は簾から身を乗り出すようにし、羅羅は主人が落ちぬよう、朱妃の身体に手を回した。
癸氏も身体を傾け、朱妃の耳元に唇を寄せる。
吐息が耳にかかり、熱を持つようだ。
「商皇后には気をつけよ」
「えっ……」
癸氏はそれだけ告げて、身体を引いた。そして騾車から離れると、馬の腹に一蹴り入れて前方へと走り去っていった。