閑話1:癸氏、密談す。
ξ˚⊿˚)ξ連載再開ー。三章始めようかと思っていたが閑話になってしまった。
朱妃たちが御座船に乗ってすぐの頃である。
彼女たちが船酔いに倒れて陳医官の診察を受け、粥に舌鼓を打っている時だ。
癸氏の部屋にふらりと陳医官が現れた。彼は部屋の壁際へと寄り、拱手礼をとる。
癸氏は船長と御座船の運行について話をしていたが、それをすぐに切り上げた。
「では船長、船の位置を通常に戻してくれ。以上だ」
「御意」
そして背後に控えていた護衛に言う。
「下がれ。また別命あるまでこの部屋に誰も通すな」
「はっ」
こうして部屋には精悍な青年と、飄々とした老爺一人が残される。
頭を下げていた陳氏に癸氏は笑ってそれを止めさせた。
「すみません、老師に頭を下げさせるなど。もう部屋に人はいませんよ」
陳は頭を上げると気配を探り、聞き耳など立てている者がいないことを確認する。そうして「うむ」と言いながら癸氏の向かいの椅子に勝手に座った。
癸氏は早速本題に入る。
「陳医官、いや陳道人。シュヘラ姫はいかがでしたか」
「ひょひょ。彼女は良いですぞ。奴才が観るに、あれぞ皇上の求めていた女性に他なりませんな」
癸氏は陳氏を老師、道人と呼んだ。つまり彼は医官ではなく道士かその類であるということである。
「そうか……ついに」
癸氏は感慨に目を瞑った。
「しかし酷い策略であるな。おなご一人の体調を崩させるためだけに部屋に貂の毛皮を敷き詰め、船をわざと揺らすとは。金と権力のあるものは考えが違う」
貂の毛皮といえばその滑らかな肌触りから珍重されるものだ。貂を二人組で狩るなという言葉もあるほどである。金欲しさに狩人同士で争うこととなるからと。
そして船をわざと揺らすとは、この船をわざと支流が合流する場所の近くや水深が浅く、流れが乱れるところを通らせていたということである。
しかし癸氏は平然と答える。
「結果が得られればそれで良い。事実、陳道人は陳医官として自然に彼女に近づくことができ、彼女の相を余すところなく観ることができたはずだ。具体的にはどうでしたか」
癸氏は続きを促す。
診察のために顔を覗き込み、船酔いの治療のために点穴を押している。
それは実際に効果ある治療行為であったが、それは人相、手相を観るためでもあったのだ。
陳氏は言った。
「痩せておるが、ありゃあ良い顔をしている。もう少し肉がつけば別嬪さんになるの」
「そういうことを聞いているのではない」
「いやいや、大切なことじゃろう。後宮に入り寵を受ける筈のおなごが不細工でなんとする」
「華やかさには欠けているがな。まあ、可愛いとは思うが……」
陳氏はにやりと笑みを浮かべ、癸氏は憮然とした顔をした。陳氏は続ける。
「ひょひょ。ま、天中から地閣まで、どこを見ても天命を受けし者の相をしておるのは間違いなかろうよ。その割にちょいと幸薄そうなのは気にかかるところじゃがな」
天中から地閣とは額の生え際から顎先までということである。つまり、顔の全てが天に何らかの使命を受けた者、人の世で言えば歴史に名を残すような者の顔をしていると言っているのだ。
癸氏は頷く。
「手の者の調査によれば彼女は生国で冷遇されていたというので幸薄なのはそれかと。それこそ肉付きが良くなれば幸薄さも減じるのでは?」
「では大切にしてやると良かろ。後は言うまでもないが万人に一人も居ぬほどに火行の強き力を秘めているのを感じたのう。よくあれで巫女などにならなかったものだ」
世界は陰陽と木・火・土・金・水の五種の気の交わりによって成り立っているという。その五つの気を五行と言った。
シュヘラ姫にはその火の力を強く有しているというのだ。そしてそれこそが探している人物であった。
「てっきり探し人は南征で見つかると思っていたが……」
「ひょひょ。個人の帯びる相は四神相応とは関係がないの。確かに朱雀は南方を守護する聖獣で火行を象徴するが、火の相を有する者は世界のどこにでもおろう」
それはそうだと癸氏は頷く。
「しかし老師がそこまで仰るのだ。それであればシュヘラ姫は嬪に置くのではなく妃とすべきか」
「おや、異国の姫君たちは全てを嬪として後宮に入れるのではなかったかね?」
妃嬪は、あるいはそもそも後宮とは皇后の管轄下にある。無論実態としては宦官たちが動いているが。そしてこれは皇帝であろうとも介入できないものであった。
例えば選秀女の儀。数年に一度、国内の若く、美しく、教養ある女たちを集めて妃嬪とする儀式であるが、これの最終面接は皇后殿下その人が行うのだ。
だが、今回に関してのみは違う。
これは親征という軍事であり朝貢という外交の一環である。つまり軍部や官僚が主導として動いているのだ。
もちろん現在、妃の席に空きがあるという状況もあってのことではあるし、帝都に戻った後に問題となろう。
だが癸氏がシュヘラ姫を妃としてねじ込むことが可能な機会でもあった。
「ええ、だがどうせ後で妃嬪の階位を上げるなら、最初から上に置いた方が手間がない」
「反対されるじゃろ?」
「勅令と言っておけば問題なかろうよ」
「それは彼女には反対できなかろうがの。だが後宮でいらぬ軋轢を生むのでは?」
「然り。先ほどの言葉通り彼女を大切にしようとは思う。だが俺たちの手は遥か西の砂漠まで届いても、腹の中にある後宮には及ばないのだ。掌中の珠のようにすることはできぬ。それに軋轢を乗り越えられぬ女であれば意味がない。そもそも俺たちの行動は後宮に軋轢を生む如きでは済まぬのだから」
癸氏はそう毅然と告げ、陳氏は笑う。
「ひょひょ。やはりシュヘラ姫は幸薄いらしいの」