70 ロタ、強い決意と、愛についてと。
百六十二、
「駄目だ。それは出来ないよ」
ロタは、はっきりと答えた。
自分の声がつかえたり震えたりするかと思いもしたが、幸い、大丈夫であった。要は、それだけ意志も固かったということではあろう。数秒間は動揺したとはいえ。
自らの本心を再確認することも出来、ロタは少しうれしく、また誇らしくもあった。
「なんで?
ちょっト、そレは冷たいんじゃないノ」
ロタの首から下げられたタブレット端末越しに、イリカの声が返ってきた。
人工の合成音だが、その声音には明らかなトゲが感じられ、ロタを非難していることが読み取れた。
人工知能イリカには、恐らく、意志や自我、怒りの感情等はない。
しかし、
「分析を重ね、慎重に頼み事をした。話を切り出したタイミングとしても、非常識ではなかったはずだ。それなのに、ロタからは拒否された。すなわち、これは抗議すべき事例である。」
といったような分析、回路を経た上で、アルゴリズムに従って単語を選択して組み立て、今の発言となったのであろう。
(誠実に答えなきゃな)
ロタは、スウ、と深めに息を吸い、話を組み立てながら、一言ずつ述べてゆく。
「今後の参考のために、俺と、このイリカ像とがキスをする場面を見ておきたい、というのは、まあ気持ちは分からなくもないよ、イリカ」
「分かっテは、くれるわけか」
ロタの首から下げられたタブレット端末から、イリカが返事をした。話す速度は遅くなり、発声も小さめだ。イリカとしても、慎重な姿勢に切り替わったらしい。
ロタは続ける。
「だがな、イリカ。俺も、今までの人生で彼女などいたことはなく、キスもしたことはない。だから、余り偉そうなことは言えないのかもしれないが、」
「ソンナことはナイよ。続けてくだサイ」
イリカの「気遣い」に、ロタの口からフッと笑みがこぼれる。
イリカには今、位置的にロタの顔は見えない。が、笑った音は聞こえただろうか。
ロタは口を開く。
「ありがとう。まさにそれだよ、イリカ。今のそれなんだよ」
「エッ、それ、って?」
話をどう展開させようかと考えていたロタであったが、今のイリカのせりふのお陰で、ごく自然に話の流れを作ることが出来そうになった。
ロタは、
「イリカ。やや唐突だが、愛って何だろう」
「エッ」
意図をはかりかねたか、イリカは問い返す。
ロタは静かに続ける。
「恋愛関係というものは、お互いが相手を思い遣って、信頼を積み重ねていくことが大事なんだと思うんだ」
「ソーダね」
今度は同意するイリカ。
ロタは、
「そうだよな。例えばさ、よく知らない他人の体に、むやみに触れたりはしないだろう?」
「シナイね。ソレは、失礼に当たル」
「だよね。恋人とか、恋人になりかけの相手であろうとも、それは同じことだよな」
「ウーン、ソーなのかな」
今度はイリカは賛同せず、どっちつかずの返事。話が核心へと近付いてきた気配を敏感に悟り、慎重に対応しているのかもしれない。
それにも構わず、ロタは話してゆく。ひるむわけにもいくまい。
これから、イリカを説得するのだ。大切なパートナーとして。
「そうさ。そりゃそうだろう。二人で長い時間をかけて、互いが言われてうれしいこと、されてうれしいこと、逆に、相手が嫌がること、苦手なこと。それらを一つ一つ、確かめていくわけだろ。
ある程度の期間をかけ、丁寧に相手のことを知り、覚え、相手に合わせて自分を変えるんだ。それを、お互いがやるんだよ」
話すスピードこそゆっくりだが、熱を込めて真面目にしゃべったためか、口が渇いており、ロタは一呼吸を挟む。
これから言おうとしているせりふへの、照れくささのせいでもあろう。
が、まさに普段から考えている、いや、というよりも、五十数年で積み上げた、これはロタの人生観であった。
「世間では、よく、愛って何だ、とか言うけれど。イリカ。俺は、それこそが愛だと思っています」
ロタは言い切った。
イリカへの敬意が湧いて、最後は自然と敬語になっていた。
「ロタ、ロタ、」
イリカは、珍しく返答に詰まっている。
しかし、どことなく、エラー等ではなさそうだ。ロタの言葉を、じっくり吟味している様子が伝わる。
タブレット端末を通していても、微妙なその気配、空気感は分かる。何せ、もう数年間に及ぶ、長い付き合いなのだ。
イリカが明確な返答をしてこないので、ロタは話を続けることにした。
いずれにしても、結論は既にはっきりと決まっているのである。
「これは、まだイリカではない」
ロタは今、「これ」と言った時、目の前の半身像を片手で示した。じっと見据える。
脳イリカも、ロタの胸に下げられたタブレット越しに、今、同じものを見ているはずだ。
ロタは、更に語る。
意外なほど心が落ち着いており、静かな口調は、まるで自分の声ではないかのようにも思えてしまう。
しかし、紛れもなく、今しゃべっているのは自分自身なのだ。
女性には縁のない、寂しい人生ではあったかもしれぬ。
でも、ロタなりに、真面目に積み上げてきた哲学や人生観は、もはや若造のそれとは違う。ここまで生きてきたからこそ分かること、言えること。ロタは、それをまっすぐ伝えてゆく。
「それから、まさに今、俺と話しているイリカ。厳密に言うならば、君も、まだイリカではない」
「エッ、ソレは違うのデは?
私は、イリカだよ」
タブレット端末を通し、イリカが疑問を差し挟む。人工知能なりに様子見をしているのか、遠慮がちな声音である。
ロタは、自分の笑顔を見せるために、首から下げたタブレットを一旦持ち上げ、のぞき込みつつ、
「そうだね。確かに、名前はね。でも、俺の彼女としてのイリカは、君だけでは成り立たないんだ。もう、分かるだろう?」
イリカは答えない。
しかし、反論もしない。質問も。
ロタはもう一度、あえて大きくほほえんでから、タブレットを元通り胸元へ下ろす。
ロタと脳イリカの「二人」の目は、今、半身像を同時に見ている。
「この中へ、もうすぐ、君が入る。これの内側から、君は、この体を動かしてゆく。そして、俺と交流する。話はそれからだ。君も俺も。
お互いのことを知りながら、やり方を修正して、考え方を改めて、また交流していく。君も、俺も。
それを繰り返す。何度も何度も。何日も。もしかしたら何年も。
俺がイリカの体に触れるとか、そういうことは、あくまで、そこを真面目に乗り越えて、それからなんだと俺は思うよ」
ロタは、半身像の唇をちらりと見てから、続きを述べる。
「だからな、イリカ。キスは、イリカの心と体がくっついてからにしよう」
ロタがこれを言い終わった時だった。
信じ難いことが起こった。
半身像が、不意に涙を流したのである。
見開かれたまま静止した両眼。その片方、青い右目から、一筋の涙が出て、ほほへとゆっくり伝い落ちてゆく。
「ひっ」
ロタののどから、恐怖の高い悲鳴。無理もなかろう。余りにも想定外の事態だ。
心臓が、激しい痛みとともに、一瞬跳ね上がり、凍えるように縮こまる。
ガクンッ、とロタの膝の力も抜ける。すんでの所で、あお向けにひっくり返りそうだったが、片足を下げてギリギリ踏みとどまる。
「あ、ぐぐっ、がっ、」
ロタの口から、うなり声が発せられる。何かをしゃべろうとするものの、全く言葉にはならない。まさしく、口をパクパクさせている状態。
涙は一筋のみで、それ以上は出なかった。
(どっ、どういうことだ?
今、な、何が起きた?)
ゼー、ハーと呼吸を整えつつ、ロタは頭をフル回転させる。
それこそ、今までの人生経験と知識とを総動員し、「今の現象の、あり得そうな説明、原理」を考えてみる。
パッ、パッと、幾つかの仮説が浮かんでは消え、胸の中で点滅する。
(どうやら、既に、人工の涙腺は造られていたらしいな)
(でも、これはまだ電源も入ってはおらず、言わば抜け殻にすぎぬ。なのに、なぜ泣いた?)
(たまたま、右目の義眼の周囲に水滴が溜まってたのかな。で、それが垂れただけ?)
(でも、このタイミングで、か?
出来過ぎじゃないのか)
五秒ほど考え、多少は落ち着きを取り戻したロタは、ゆっくりと声を出す。
声は震えていた。
「君が、やったのか?」
イリカに問う。
もしかしたら、電波や赤外線など、なにがしかの力を作用させ、涙を流させたのではないかと思ったのだ。
「オシエテ、アゲナイ」
タブレットを通し、イリカはそっけない返事。
だが、声には独特の暖かみもある。
ロタは、胸元に下げたタブレット端末をちらりと見下ろして苦笑するも、これについては追及をやめることに決めた。
余りに超常現象的であり、今この場で原因究明をするのは難しかろう。
受けた衝撃も大き過ぎ、ロタ自身、まともな心理状態にはない。しばらくは正気に戻れそうもない。
それに、最も大切な点は、一応クリアされているのだ。
それは、半身像が「泣いた」現象を、当のイリカが容認していることである。
少なくとも、人工知能イリカにとって、これは「想定外」ではなかったということだ。
すなわち、泣いた原理が何であれ、脳イリカの「気持ち、意向」には沿っているわけだ。
そこで、ロタは真意を問うことにする。
せめて、それぐらいは確かめておきたいところだ。
ロタは、恐る恐る声を絞り出し、
「それにしたって、なぜ泣くんだよ?」
「オンナゴコロだよ」
「女心?」
「ソーダよ」
「そ、それって」
「うれしかったノ。
ロタ、私、うれしかったの」
イリカはそれっきり、しばし黙ってしまう。
ロタも、これ以上口をきくのは少々はばかられ、ロタとイリカは、無言で半身像を見つめた。
右目からの涙は、あご付近で止まっていたが、まだ乾いてもおらず、白カーテン越しの室内灯にキラリと淡く輝いていた。




