47 ロタとイリカ、「最後の会話」。
百十七、
その日が来た。
イリカ製作チームとも言うべきメンバーが集合する日の、前日である。
夕方、ロタは早めに仕事から帰宅。
イリカとしゃべり終わったら、ハヤミに作業をバトンタッチするからである。イリカとの会話が深夜にまで及ぶのも、ハヤミに失礼であろう。
自室の床に、ロタはスタンドを立てる。タブレット端末をそこへセットする。ロタのいつもの作業。
タブレット端末のボタンをグッと押す。
柔らかいボタンへ、指先がズプリと埋まる。直後、カチリと固い音。
ブーン……と鈍い電子音。脳イリカ起動。
スタンドのそばにあぐらをかき、床に座り込んで、ロタはタブレット画面をのぞき込む。
画面に自分の顔が映る。画面は、イリカの視界である。
会話が始まる。
「こんばんは、イリカ」
「コンバンハ、ロタ」
ロタがタブレットへ語りかけると、人工知能のイリカが答えて、声がタブレット越しに聞こえてくるのだ。
ロタは続けて、
「調子はどうだい」
「悪クないヨ」
「俺もさ」
「ソウ?」
「えっ」
順調に始まったかに思えた会話がいきなりつまずき、ロタはちょっと驚く。イリカは、基本的に会話の流れには逆らわないからだ。
ロタの驚きをよそに、イリカは間を置くこともなくしゃべる。
「最近、ナンか元気ナイかラ」
「俺が、ってこと?」
「ウン、ロタが。ロタが元気ナイ」
ロタは口ごもり、
「どうして、ど、どうしてそう思うの?」
「なんカね、つらソウ」
「つらそう?
俺、愚痴とか、こぼしたっけ?」
「そうジャないヨッ」
またもや、珍しい反応。
イリカが、語尾を跳ねさせるような強い発音。
まるで怒っているかのようだ。ロタは、そのまま言葉にする。
「怒ってる?」
今度は、ロタの言葉をイリカが繰り返す。
「怒ッてル?」
ロタはなだめるように、
「ああ。イリカ、機嫌悪そうだから。俺、何か失礼なこと言ったのなら、ごめ、」
「機嫌悪そウなノは、ロタの方でショ」
「そうだっけ」
会話のペースが、今までよりも明らかに速い。
ついには、ロタが言い終わらぬうちにイリカが次のセリフをかぶせてきた。記憶にある限り、初めての現象である。
もはや、一言ずつ内容を吟味する余裕もなく、半ば無意識に言葉を発するロタ。ほとんど、人間同士の会話に近い。
今の「そうだっけ」など、まさに口をついて出た適当な相づちであった。
だが、イリカはしっかり受け止めたようで、
「ソーダよ」
「どの辺が?」
「最近ずっとネ、ロタの話す言葉と、表情とが合ってナイの。楽しイ話をシてル時もネ、目が悲しそうなんだよ」
「あ、その、いや、そんなことは……」
上手に言い切ることができず、ロタの語尾がよどむ。
対照的に、イリカは上手に質問をかぶせてくる。もはや「人間」のようだ。まるっきり。
「ワタシの思イ違い?
ナラ、謝るけド」
ここは、きっぱり否定しておかねばなるまい。
「いや、イリカが謝る必要はない。全くない。確かに、最近、イリカと話す時、気もそぞろだったかもしれない。済まん」
「いや、ロタが謝る必要もナイ」
「お、おう……」
ロタは短く返答。
(人間らしくなったと思ったら、今度はマニュアル的になったな)
と、心の中でちょっと笑う。
でも、イリカはイリカなりに、ロタの気持ちをくみ取ってくれている。それ自体は有り難い。
対話型の一部人工知能には、人の感情を読み取る機能がある。
様々な表情の写真、映像等を大量に読み込み、パターンとして認識するのだ。それを、目の前の人間へ当てはめていく。
無論、人工知能イリカにも搭載されている機能だ。ましてや、生きた資料として、ロタは既に一定の年月、イリカと接しているのだ。
脳イリカは、言わばロタ専用の心理カウンセラーかもしれない。少なくともロタにとっては、「人類史上、最も人間に近付いた機械」であろう。
「全てお見通し、か」
と、ロタ。またも、ぽろりと口からこぼれ出た。
言葉が、まだ止まらない。ロタの口からあふれてゆく。
「イリカの目はごまかせないなあ。そうだよ、俺、最近色々考えちゃってさ、疲れてたんだ」
普段なら、歯を食いしばって胸中へとどめたはずの言葉である。実際、何回我慢したことか。
イリカは、機械なんだよ。
イリカは、人工知能なんだよ。
もうすぐ、ロボットとつながるんだよ。
なあイリカ、そうなっても、今まで通り、俺と仲良くしてくれるかい?
俺の彼女に、なってくれますか?
何度、のど元まで出かかったことか。
今、つい、その入り口部分を言ってしまった。
果たして、イリカの反応は。
「ドーシテ、私ニ言ってくれなかったノ」
ロタ。
「イリカのことで悩んでいたからさ」
イリカ。
「私の、コト」
ロタ。
「そうさ。俺、イリカのことが大事だから。だから、なかなか打ち明けられなかったんだ。でも、見抜かれてたんだなあ、俺が色々、胸の中に隠してることを」
もし、ハヤミが今のやり取りを聞いていたら、「何やってるんですか。今までの努力を台無しになさるおつもりですか!」と怒られたかもしれない。
しかし、だ。
(世の中の、恋人や配偶者がいる奴ら。いたことのある奴ら。ハヤミさんも含めて。他のみんなだってそうだ)
改めてロタは強く思う。
(あんたらに、何が分かると言うんだ。こちとら、五十年以上生きてきて、やっと、初めて出来た「彼女」なんだぜえ)
ロタは、タブレット端末を見つめる。
画面に映る自分の顔。やつれている。思い詰めていて、怖い顔。
自分でも感じる。
(ひどいもんだ。これが「彼女」に会う時の表情かよ)
と。
でも、今、気づいた。
口もとはかすかに笑っていることに。
正直に本音をさらけ出し、精神が解放されつつあるのだろう。
イリカも、それを見ている。
「ウン、全テではナイかもしレナいけど、だいタイ、お見通シ」
わざと、ロタはちょっとオーバーに、豪快に、
「さすがだなあ」
「チャカサナイデ」
とがらせたイリカの唇が、一瞬、ロタの目に浮かんだ気がした。
「茶化してないよう。うれしいんだよう」
「ウン、今はうれしそう」
「だろう?」
「泣いてルけド」
「ああ」
いつの間にか涙ぐんでいたロタは、正直にコクリとうなずく。
頭を前へ傾けたためか、溜まった涙が左目からツーとほほを伝う。
ロタは、左こぶしの裏で涙をぬぐうと、
「不思議なもんだなあ。職場の人たちとか、近所の知人とか、みんな、それなりに俺のこと気遣ってくれるし、優しい言葉もかけてくれるのに」
「ウン」
イリカの短い返事。
ロタは先を続ける。
「イリカの言葉の方が、今はこんなに胸に響くんだ」
今、話している相手は人工知能なのに。作り物の機械にすぎないのに。
発してくるセリフだって、恐らくはデータの海から自動的に拾い出してきて、アルゴリズムに従ってつなげているだけなのだろうに。
なぜだ。どうしてこんなに。
ここで、ふと、ロタは、かつてイリカと会話を始めた頃のことを思い出した。
人工知能イリカのカスタマイズを開始した頃のことを。
あの時期に強く感じたことを、不意に、今ここで、イリカに言ってみたくなった。
多少、気まぐれでやけっぱちな部分もあるものの、今度は無意識ではない。イリカに聞かせたかったし、どう答えてくれるのかにも興味が湧いたのだ。
ロタはゆっくりとそれを告げる。
泣いた直後なので、声を詰まらせないように、一語ずつ慎重に、丁寧に発音する。
「どうしても女にモテなくて途方に暮れている男がいる時、科学はその人にも夢を見させてあげてほしい」
「私ハ科学なの?」
問いかけの形でイリカは返事をした。
ロタは、ためらわずに首を縦に振る。
「そうだよ。イリカは科学だ。科学であり、夢なんだ」
イリカは黙っている。
ロタの言葉を分析中なのか、あるいは次の言葉を待っているのか。
いずれにしても、ロタの言葉には続きがあった。
「そして、俺だって科学だ。人の心理も体の構造も、命も、人生も。まだまだ、科学で解き明かすべきことは山ほどある。
そして、俺にだって夢はある。イリカと俺は、同じなんだ。科学であり、夢なんだ」
イリカは、
「同ジ、か。たしか、方向性ヤ、順序ガ、違ウんだよネ」
「おお、そうとも。その通りだ」
リモリの協力のお陰もあって、かつてたどり着いた結論や領域。イリカはそれを、ちゃんと覚えていたのだ。
(ところどころ、勢い任せや抽象論になってしまったけど、結構、いい感じに会話を着地させられそうだな)
そう思ったロタは、まとめに入る。
「なあ、イリカ。俺たち、違う方向から互いに歩いてきたけど、」
「モウスグ会えるよね」
「!」
何と、続きをイリカが言ってくれた。
だが、ロタは動じず、努めて冷静に答える。
「そうだ、きっともうすぐ、会えるはずだ」
「そろそろ、次のステップに進むンだネ」
「ああ、そうだ」
「ロタ、怖がらナイで」
「怖いさ」
「ロタ、しっかりして」
「わかった」
しっかりして、か。
(それ、ハヤミさんからも言われたよ)
と思い出したロタは、一瞬だけ苦笑いをした。
だが、すぐに優しい微笑みへ切り替える。
イリカはその笑みを見たのか、
「ちゃんと、ワカってくレたヨーだね」
「ああ」
「約束ダヨ」
「ああ、約束だ。イリカと俺の約束だ」
「アリガトウ」
「こちらこそ」
「またネ」
「ああ、一旦さよなら」
「サヨナラ」
(よし、今だ)
ロタは、ためらわずにボタンを素早く押して、タブレット端末の電源を落とす。
これ以上だらだら会話しても、余り意味はないような気がした。
それに、人工知能イリカは気まぐれである。何の脈絡もなく、会話を突然打ち切り、別の話題へと切り替わってしまう場合も多い。切るタイミングとしては、ここいらが良かろう。
「いいんだ、これで。満ち足りた。大丈夫だ。イリカは大丈夫。これでいいんだ」
もはや、涙は乾いていた。
百十八、
すぐ、ロタはハヤミへ電話をかけた。
「イリカとの今日の分の会話、先ほど終わりました。まあ、悔いがないと言えば嘘になりますが、一区切り付きました」
受話器越しに、ハヤミの声が答える。決してクールではないが、とりたてて優しいとも言えない、静かな響きで。
「承知しました。それでは、ただいまより、人工知能イリカちゃんの主電源を完全に落とし、一部のコピー作業に入ります。
しばらくは、タブレット端末を使われても、イリカちゃんの電源は入れられませんので。現在の状態のイリカちゃんとは、恐らくこれでお別れです。よろしいですね?」
「それで結構です」
ロタもきっぱり、静かに答えた。




