第85基音:深海への降下
水上都市ポリフォニアに到着したアルトとカノンは、まずは港湾区の一角にあるギルド支部へと足を運んでいた。
支部内の受付カウンターは、深海ダンジョンの異変を受けて慌ただしい空気に包まれていた。受付の職員にバトンからの紹介状とギルド証を提示すると、職員は安堵したような、しかしどこか引き締まった表情を浮かべる。
「あなたがバトン様から聞いていた『調律師』のアルト様ですね。……噂通り、ダンジョンの中層から魔物たちが日増しに狂暴化しており、都市の防壁まで振動が伝わってきています。どうかお気ををつけて」
「あ、はじめまして。アルト様の妻のカノンです」
「――って、おい」
カウンターの職員が目を点にして固まる横で、アルトはわずかに顔を引きつらせ、いつもの冷静さをかなぐり捨ててカノンの脇腹を軽くチョップした。
「初対面の人にそんな冗談を言うなよ。勝手に夫婦の既成事実を作らないでくれるかい」
「ふふっ、いつかは本当になることですから予行練習です」
カノンが涼しい顔でふわりと微笑み返すものだから、アルトは頭を押さえてやれやれと小さく息を吐く。そんな二人のお馴染みのやり取りを見て、受付の職員は冷や汗を拭いながら引きつった笑みを浮かべるしかなかった。
「は、はあ……とにかく、その、お二人とも道中お気をつけて……!」
茶番を挟みつつ無事に手続きを済ませた二人は、そのまま都市の中心部にそびえる『深海エレベーター(昇降施設)』へと向かった。
分厚い鉄製の扉が開き、重々しい機械音が響く中、アルトとカノンはゴンドラへと乗り込む。
ギイィィと金属をきしませながら、ゴンドラは洋上の足場を離れ、太陽の光が届かない不気味な紺碧の海中へとゆっくりと沈み始めた。
「……ふふ、驚かせてしまいましたか?」
眼下に広がる底知れぬ暗闇を見据えながら、カノンが楽しげに微笑む。
その傍らで、アルトは胸元に意識を集中させた。音叉と一体化したパルスが、水圧の変化や周囲の不穏な魔導波長に合わせて心地よい微振動を返し、アルトの感覚へとダイレクトに情報を伝えてくる。
(……まったく、調子は狂わされるが、パルスのおかげで水圧の負荷も波長の乱れも完全に相殺できているな)
アルトが呆れと優しさが入り混じった表情で懐のパルスをそっと指先で撫でる。
やがて、ゴンドラは激しい水流と魔力の澱みを抜け、完全に光の消えた深海の底――『深海ダンジョン』の第一層へと到着した。
重く冷たい空気が張り詰める中、どこか遠くから、耳障りな不快なノイズ音が水底の闇を伝って響いてくる。
「……聞こえるかい、カノン。連中の仕掛けたノイズの震源が、この下の層から微かに反響している」
「はい。……ですが、どんな深い闇の底であろうと、アルト様の音色と一緒なら、私に恐れるものはありません」
カノンはふっと表情を引き締め、アルトの隣で構えをとる。
アルトは静かに右手を掲げ、掌に高純度の調律の波長を纏わせた。
「行こう。海の底に巣食う不快な不協和音を、残らず綺麗に解体してやるさ」
深海の闇を切り裂くように、調律師と天翼種の少女による本格的なダンジョン攻略が、静かに幕を開けた――。




