Scene 40 拒めない同意
救われたいと願うことと、
何かを手放すことは、同じではない。
けれど、ときに人は、
選んでいるようで、選ばされている。
それでも守りたいものがある。
それでも、生きたいと願う心がある。
これは、救いと選択の狭間で、
ひとつの記憶を手放すかどうかを迫られた人々の物語。
施療院の中を見たいと言ったのは、俺だった。
記憶が、実際の治療でどう使われているのか、自分の目で見たかった。
記憶保管庫を出る前に、アシュへそう伝えた。
アシュは少しだけ考えてから、頷いた。
「分かりました。施療院には話を通しておきます」
その日の昼、鐘が鳴り終わる頃、宿舎の前にリオルが来た。
「施療院から連絡が来ました。見学できるそうです。私も同行します」
フィーナが立ち上がった。エレナも外套を取る。
少し遅れて、ガルムも宿舎を出てきた。外套の背に、布包みの剣が斜めに掛かっている。
「来るのか」
「施療院だろ」
それだけだった。中央聖域ではない、という意味だと思った。俺は聞き返さなかった。
施療院は、外から見た時よりも奥が深かった。
入口では、白い前掛けの施療神官が待っていた。
見覚えがあった。一昨日、呼吸の苦しい老人を列から先に通した女性だった。
「最高司祭から伺っています。こちらへどうぞ」
入口を抜けると、天井の高い待合があった。長椅子が何列も並び、その間を白い前掛けの職員が行き来している。煮沸した布の匂い。薬草を煎じる匂い。どこかで、子どもが小さく咳をしていた。
人は多かった。施療神官や補助者が、その間を絶えず行き来している。それでも、患者を呼ぶ声も、人の流れも乱れてはいなかった。
俺の目は、また長椅子の方へ行った。
顔色。唇の色。呼吸の速さ。肩で息をしていないか。
奥の扉から、職員が名前を呼んだ。立ち上がったのは、軽い咳をしている男だった。顔色はいい。自分の足で歩いていく。手に持った札の角に、小さな印が付いていた。
次に呼ばれた女性も、同じ札を持っていた。足取りは、しっかりしていた。
壁際の長椅子の端に、一人の女性が座っていた。背を壁に預け、肩が速く上下している。もう、ずいぶん長くそこにいるように見えた。誰も、その人の名前を呼ばなかった。
「あの札は」
俺が聞くと、案内していた施療神官が足を止めた。
「提供協力の札です」
「治療の順番にも関係するんですか」
女性は、すぐには答えなかった。
「……最近、受付で使われるようになりました」
リオルが札を見た。
「私は初めて見ます」
一昨日、この施療院の前では、呼吸の苦しい老人が先に中へ通されていた。白い前掛けの女性が「この方を先に」と声をかけ、列の誰も文句を言わなかった。
あの時は、具合の悪い人が先だった。
今は違う。
壁際の女性の膝に、小さな男の子がもたれていた。
男の子が顔を上げた。俺を見て、少し目を丸くした。
見覚えがあった。
配給所で、椀を傾けかけた子だった。パンを片手に持ったまま、両手で椀を抱えようとしていた。
女性も、俺の方を見た。
「……あの時の」
声がかすれていた。一昨日、配給所で頭を下げた母親だった。あの時は、走っていく息子の背中を見ていた。今は、その息子の頭に手を置いたまま、顔を上げるのも辛そうだった。
「サナです。この子は、トビ」
名前を言うだけで、一度、息を継いだ。
小柄な子だった。六つか七つくらいに見えた。
サナは笑おうとした。口元は動いたが、息が続かなかった。
「少し、診てもいいですか」
サナが、小さく頷いた。
俺は長椅子の前に膝をついた。手首に指を当てる。速い。皮膚が熱い。それなのに、指先は冷たかった。
胸の動きを目で追い、数えた。一回。二回。三回。数えるたびに、間隔が短い。
唇が乾いていた。
「いつから、熱が」
「……一昨日の、夜から」
返事が、少し遅れて返ってきた。
「横になると、楽ですか」
「起きている方が……少し」
壁に背を預けているのは、そのせいだった。
病名は分からない。ここには、俺の知っている検査も、薬もない。
それでも、分かることがあった。
この呼吸は、待たせていい状態じゃない。
トビが、母親の袖を握っていた。
「お母さん、帰れる?」
小さな声だった。
「大丈夫」と言いかけて、やめた。
「今、診てもらえるようにする」
トビが、俺を見た。
「ここにいていい。お母さんの手、握っててくれ」
俺がそう言うと、トビは黙って頷いた。
俺は、案内していた施療神官を振り返った。
「この状態なら、先に治療するはずです」
女性は、すぐに頷いた。
「私もそう判断しました。受付にも伝えました。でも――」
記録室へ続く廊下から、聞き覚えのある穏やかな声がした。
「順番は、記録に基づいています」
ヴェルンだった。朝と同じ帳面を抱え、襟元にも袖口にも乱れがない。
それから、サナの方へ向き直った。
「提供にご同意いただければ、すぐにお回しできます。手続きは簡単です」
サナが、首を横に振った。
「それだけは、渡せません」
声は小さかった。けれど、はっきりしていた。
サナの膝に、一枚の紙が載っていた。
提供する記憶。用途。確認の欄。最後に、署名をする場所。
そこだけが、空いていた。
「書けば、母さん治してもらえるって」
トビが言った。
サナが、トビの肩に手を置いた。
「違うの。順番が、少し早くなるだけ」
その声は、息の途中で切れた。
リオルが、紙に目を落とした。
「治療の同意と、記憶提供の同意は、別です」
施療神官の女性が、目を伏せたまま言った。
「……私も、そう習いました」
前掛けの裾を握った指が、白くなっていた。
ヴェルンの声は変わらなかった。
「治療を拒否しているわけではありません。全員を同時には診られない。協力いただける方を、可能な範囲で優先しているだけです」
「それを、同意って言うんですか」
俺が聞いた。
「断れるなら、同意です」
「断ったら、この人はここで待たされるんでしょう」
ヴェルンは、すぐには答えなかった。
「……規則です」
穏やかな声のままだった。
規則。
規則が悪いのではなかった。一昨日、この施療院の前で見た規則は、呼吸の苦しい人を先に通していた。
同じ規則を、この男は、別のことに使っていた。
「神殿には、前にも助けてもらいました」
サナが、かすれた声で言った。
「夫が死んだ時も。この子が、熱を出した時も」
息を整えるように、一度、目を閉じた。
「……規則なら。仕方ない、ですね」
トビの手が、母親の袖を強く握った。
サナは、トビから目を離さなかった。
何かを手放すことを、迷っているように見えた。
「何を渡すことになっているんですか」
俺が聞くと、サナはしばらく黙っていた。
「強く残っている記憶を、一つ出すように言われました」
「何に使うんですか」
「術式の補助に使うって……」
サナの手が、トビの頭に触れた。
「……この子を、夫が初めて抱いた日の記憶です」
トビが母親を見上げた。
「父さんの?」
「うん」
サナは笑おうとした。
「腕が震えててね。抱き方が分からなくて。トビがずっと泣いてたのに、あの人が抱いたら、急に泣き止んだ」
そこで笑顔が消えた。
「夫の顔を、はっきり思い出せるのは……もう、それくらいなんです」
朝、記憶保管庫で見た瓶が浮かんだ。
手は覚えている。顔は覚えていない。
「今は治療が先です」
俺は言った。
「その記憶を渡すかどうかは、呼吸が落ち着いてから考えればいい」
ヴェルンが何か言いかけた。
「今の状態で決めさせることじゃない」
ヴェルンは一拍置いた。
「では、先に処置室へお移しします。そちらで、改めてご説明を」
職員が二人、担架を運んできた。
処置室。
その言葉に、俺は一瞬だけ、肩の力が抜けた。中へ運ばれる。診てもらえる。そう思ってしまった。
「付き添いの方は、こちらでお待ちください」
トビの手が、母親の袖から引き離された。
担架が、奥の廊下へ運ばれていった。
施療院の入口から、誰かが駆け込んできた。
若い記録官だった。息を切らせ、帳面と一枚の紙を胸に抱えている。俺たちを見つけると、まっすぐリオルの方へ来た。
「リオルさん、これを」
リオルが紙を受け取った。俺は横から覗き込んだ。
記憶提供の同意書だった。名前の欄に、サナ、とあった。
日付は、昨日だった。
待合で見たサナの膝の紙は、署名の欄が空いたままだった。
「サナさんが、ここへ来たのは」
俺が聞くと、施療神官の女性が、小さな声で答えた。
「……昨日の朝です。一度帰されて、今朝、また」
昨日、最初にここへ来た時点で、もう同意したことになっていた。
けれど、サナの膝には、今日も署名欄が空いた用紙が残っていた。
「再照合で、同意の件数と、提供の記録が合わなかったんです」
記録官の声が震えていた。
「同意済みの方が、何人も、まだ提供していない。この方も」
「上へは」
リオルが聞いた。
「最高司祭様へ、緊急の報告として上げてきました。それから、ここへ」
記録官は、そこで初めて、廊下の奥へ運ばれていった担架のことに気づいたらしい。
顔から、血の気が引いた。
「処置室……」
施療神官の女性が、廊下の奥を見た。
「奥の部屋は、施療の処置室ではありません」
俺は、もう走っていた。
廊下は、奥へ行くほど静かになった。洗った布の匂いが薄れ、代わりに、冷たい石の匂いがした。
後ろで、小さな足音がした。
振り返ると、トビが走ってきていた。施療神官の手を振りほどいてきたらしい。止める間はなかった。トビは俺の外套の裾を掴み、離さなかった。
「俺の後ろにいろ」
トビは、黙って頷いた。
突き当たりの扉の前に、記憶管理区画の札を付けた警備役が二人立っていた。腰には、短い剣を下げている。
その奥で、扉が半分開いていた。
床に、細い線が円を描いていた。線の外側に記憶の瓶がいくつも並び、金属の輪と鎖で台へつながれている。朝、保管施設で見た接続具と同じ形だった。
円の中の椅子に、サナが座らされていた。手首に、革の帯が掛けられようとしていた。
「嫌です」
サナの声が聞こえた。
「それだけは……嫌です」
円の外に、ヴェルンが立っていた。帳面を抱え、いつもと同じ穏やかな顔をしていた。
「記録どおりに処理します」
誰に言うでもなく、ヴェルンは言った。
「同意は、得ています」
「得ていない」
エレナの声だった。
扉の前の男の一人が、剣の柄に手を掛けた。
「ここは立ち入り禁止です。お引き取りを」
床の線に、淡い光が走った。
術式が動き始めていた。円の外の瓶が一斉に光り、サナの肩が跳ねた。
エレナは、腰の剣の鞘に手を置いた。封印紐が掛かっていた。一昨日、城門で掛けられた、確認済みの印だった。
剣は、市内で許可なく抜かないでください。
抜く理由がなければ抜かない。
エレナは、紐に指を掛けた。
「理由ができた」
紐が、ちぎれた。
次の瞬間には、もう踏み込んでいた。男の剣が抜けきる前に、エレナの刃が柄を叩いた。剣が床に落ち、乾いた音を立てた。もう一人が腕を振り上げる。エレナは半歩だけ下がり、その腕の内側を剣の腹で打った。男が膝をついた。
部屋の隅で、白い上衣の補助者が一人、壁に背をつけて震えていた。エレナは、そちらを一度も見なかった。刃は、二人の男以外のどこにも向かなかった。
「フィーナ!」
フィーナは、もう円のそばにいた。
台につながれた瓶へ、一瞬だけ手が伸びた。接続具の輪に、指先が触れかけた。
その手が、止まった。
フィーナは手を引き、自分の胸の前で指を組んだ。唇が、短く何かを紡いだ。
光が、フィーナの手のひらに集まった。瓶の光とは違う、細く白い光だった。それが床の線へ落ち、円を内側から断ち切った。
術式の光が、ふっと消えた。
「本人が、嫌だって言った」
フィーナの声は、静かだった。
俺は、サナのそばへ駆け寄った。革の帯を外す。手首に指を当てる。速い。けれど、ある。呼吸を数える。浅い。それでも、続いている。
「サナさん。聞こえますか」
「……はい」
「ここにいます」
サナの手を握った。熱い手だった。
その時、背中でトビが息を呑んだ。
振り返ると、廊下の方から三人目の警備役が来ていた。抜き身の剣を持ったまま、俺たちを廊下へ押し戻そうと近づいてくる。
トビを、背中へ引き寄せた。俺には、剣も魔法もない。
その前に、大きな背中が立った。
ガルムだった。
背中の布包みに、手が掛かった。布がほどけ、柄の擦り切れた古い剣が現れる。鞘の封印紐は、抜く動きだけで切れた。
一振りだった。
速すぎて、刃の動きは見えなかった。金属の打ち合う音が一度だけ鳴り、男の剣が床を滑っていった。壁に当たって、止まった。
男は、剣を失った自分の手を見た。
「下がれ」
ガルムが言った。
男は下がった。
ガルムは剣を下ろした。二度目は、振らなかった。
「施療神官! サナさんを!」
サナの手を握ったまま、俺は廊下へ叫んだ。
案内していた女性が、補助者と担架を連れて駆け込んできた。迷わず、サナのそばへ膝をつき、手首に触れた。指先が淡く光った。
「すぐに処置します」
女性は、俺を見た。
「呼吸が速いです。熱は一昨日の夜から。起きている方が楽だそうです」
俺は、分かったことだけを伝えた。
女性は、短く頷いた。
「ありがとうございます。あとは、こちらで」
部屋の奥に、木箱が三つ積まれていた。蓋の隙間から、淡い光が漏れている。
リオルが蓋を開けた。瓶が並んでいた。下がっている札は、朝、記憶保管庫で見た三七二の箱と同じ形だった。
記録官が帳面を開き、番号を追った。指が、何度も止まった。
「……全部、使用済みになっています」
ヴェルンは、何も言わなかった。帳面を胸に抱えたまま、立っていた。
「この部屋の記録を保全してください」
リオルが言った。
「最高司祭から再照合の命令が出ています。記録も瓶も、誰も動かさないでください」
公務の声だった。けれど、いつもより低かった。
記録官は、壁際に立っていた。帳面と同意書を胸に抱え、肩が小さく震えていた。それでも、帳面と同意書を抱えたまま、その場を離れなかった。
廊下に、足音が重なった。
騎士を四人連れて、アシュが入ってきた。朝と同じ白い手袋をしていた。
アシュは、すぐには何も言わなかった。床の線を見た。台につながれた瓶を見た。木箱を見た。リオルから同意書を受け取り、日付を見た。それから、施療神官の処置を受けているサナを見た。
最後に、ヴェルンを見た。
「ヴェルンさん」
静かな声だった。
「最高司祭」
ヴェルンは、帳面を抱え直した。
「この件については、私から説明します。記録を見てください。今季に入ってから、施療院の処理件数も、記憶媒体の利用数も増えています」
「記録は、見ました」
アシュは言った。
「……私が整えたのです」
ヴェルンの声が、少しだけ速くなった。
「この施療院が回っているのは、私が整えたからです。私がいなければ、今の半分も処理できない。誰が、この仕組みを動かしていると」
そこで、言葉が切れた。
ヴェルンは、アシュの顔を見ていた。何かを探すような目だった。
「私は神殿のためにやったのです」
アシュは、すぐには答えなかった。
一呼吸の間があった。
「神殿のためではありません」
穏やかな声だった。
「あなた自身のためです」
ヴェルンの指が、帳面の端で止まった。朝と同じ止まり方だった。今度は、頁をめくらなかった。
「本日付で、あなたの権限を停止します。記録はすべて保全してください」
ヴェルンは、帳面を見下ろした。何かを言いかけて、やめた。
「連れていきなさい」
声を荒らげたわけではなかった。それでも、騎士たちはすぐに動いた。誰も、何も言わなかった。ヴェルンも、もう何も言わなかった。帳面が、騎士の手に渡った。
騎士の一人が、床に落ちた剣と、エレナの手にある抜き身の剣を見た。それから、ガルムの古い剣を。
「最高司祭。許可なく抜剣を……」
「記録しておきなさい」
アシュは言った。
「理由も」
騎士は、黙って頷いた。
ガルムは、もう剣を布に包み直していた。アシュの方は見なかった。アシュも、ガルムに声を掛けなかった。
俺は、サナの手を握っていた。
熱い手だった。指先だけが、まだ冷たかった。
トビが、俺の横に立っていた。
俺は指をほどいた。サナの手を、トビの方へ差し出した。トビは、両手でそれを握った。
俺は、手を離した。
担架が持ち上がる。サナが、かすかに目を開けた。トビを見て、それから俺を見た。口が、何かを言おうとして動いた。声にはならなかった。
担架が運ばれていく。トビが、母親の手を握ったまま、その横を歩いていった。
部屋が、静かになった。
床の線は、もう光っていなかった。台につながれた瓶だけが、さっきと同じ淡い光を残していた。
「これで終わりですか」
気づけば、俺はアシュにそう聞いていた。
アシュは、瓶の並んだ台を見ていた。
「いいえ」
それだけだった。
アシュは、それ以上を言わなかった。
ヴェルンを止めても、これで全部が片づくわけじゃない。
そのことだけは、分かった。
廊下の向こうから、声がした。
「サナさん。サナさん、聞こえますか」
施療神官の声だった。
番号でも、件数でもない。
その人の名前を呼ぶ声が、施療院に響き渡っていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
Scene40「拒めない同意」では、救うために作られたはずの制度が、いつの間にか人を「件数」や「資源」として扱ってしまう怖さを描きました。
サナが守ろうとしたのは、ただの記憶ではありません。
もう会えない人の顔であり、トビと生きてきた時間であり、自分自身の一部でした。
そして、断れるはずの同意が、断れば不利益を受けるものになったとき、それは本当に「選んだ」と言えるのか。
ヴェルンは、その地位と役職を剥奪されました。
けれど、それですべてが終わったわけではありません。
次回、Scene41「悲しい目」。
今度、選択を迫られるのは、誰かではなく――ソウル自身です。
人を救うためなら、自分を差し出してもいいのか。
その決意を見つめるフィーナの目に、ソウルは何を見るのか。
誰かを守るための選択が、
いつも正しいとは限らない。
それでも人は、選ばなければならない。
次の物語も、見届けていただければ嬉しいです。




