希望 ①
穏やかな時間は、すぐに終息を迎える。
「エシュヌンナ軍です!!」
鋭い兵の叫びに、軍議中の面々が一斉に東を見た。
地平線に、空を突き刺す槍の列が現れた。
「やはり追ってきたか!」
「戦いましょう! 背後は川、マリ軍に挟み撃ちされることはない!」
「いや、マリ軍の動きが読めない今、戦うのは危険だ!」
「ならば退くか?」
隊長や士官たちが慌ただしく声を発す。
ムトは眉間に深い皺を刻み、それを睨みつけている。
ーーダッ、ダッ、ダッ。
低く響く足音が近づいてきて、腹を、心臓をガンガン打ち鳴らす。
だんだんそれが見えてきた。だが。
「なんか…………増えてない?」
隣のシャム君、サーラさんも息を呑んでいる。
明らかにエシュヌンナの軍勢は、多い。
「……合流したな。まあ、挟み撃ちができないならそうくるよね。随分早くて困っちゃうな」
ダガンさんの憎々しげな呟きがここまで聞こえた。
エシュヌンナ軍とマリ軍が、合流した。
「トゥトゥブまで退きましょう!この兵力では圧倒的に不利です!」
「籠城戦か?!あの城壁は脆いぞ!」
「ならばどうしろというのだ!」
隊長たちの声。
「……逃げ道はありますか?」
隣に立つサーラさんに聞く。だがその顔は沈んでいる。
「後ろの川を渡れないこともありませんが……追いつかれる可能性が高いですね。前を抜けるしか……」
「前って……」
ダッ、ダッ、ダッ。
綺麗に列を組んで向かってくる、同盟軍の槍の壁しか見えないが。
圧倒的な数の暴力を前に、バビル軍の空気が一気に重くなったのが目に見えた。
シャム君が顔をマフラーで覆い隠す。
戦車の向こうから、陛下がやってくる。
「ノア、サーラ、今度こそ馬でシッパルに行け。そこの兵、お前は強いな。二人を守れ」
シャム君は敬礼をし、すぐに血糸馬の準備を始める。サーラさんも馬の用意を始めた。
「陛下……」
陛下は力の入らない私の手を取り、口元に運んで甲に口付けた。
「俺たちはここで戦いトゥトゥブに戻り、援軍を待つ。……シッパルまで寄り道せず、まっすぐ行けよ」
「わ、私だけ逃げるなんて」
「時間がない。……サーラ、早く連れて行け」
サーラさんが私の腕を引く。シャム君はもう血糸馬の上で待っている。
「陛下……」
ポン、と私の肩を押し出す、陛下のエメラルドの瞳。その目にはちゃんと、勝利が見えているのだろうか。
「……大丈夫だ。バビルは負けない。すぐに援軍が合流する。安心して行け」
「陛下、まだ援軍の知らせはありませんが」
ムトがやってきて陛下に耳打ちする。
陛下がムトの胸を小突く。
「……今言うな。早く歩兵の陣を整えろ」
ムトは敬礼して振り返り、隊長たちに指示を出しに行った。
そうしているうちにも、ダッ、ダッ、ダッ。
同盟軍の足音は近づいてくる。
それを睨みつける陛下の、腕を掴む。
「……陛下、バビルの勝利を信じていいんですよね」
「あぁ」
「なら私は、そこの丘でバビルの勝利を見届けます」
高台を指差す。陛下は眉をしかめる。
「捕まったらどうする!」
「ヤバくなったら逃げます。シャム君の乗っている馬はとんでもなく早く走れるので!」
「だめだ」
陛下は冷たく首を振る。
私もブンブン、首を振る。
「陛下、私は『神からの贈り物』ですよ。万が一捕まっても酷い目にはあわない……と信じたいですし、多分大丈夫です。それにここで私が逃げるなんて、それこそバビル軍の戦意が失われてしまいます。私は『神からの贈り物』ですよ」
「…………」
何か言いたげに口をつぐんだ陛下の後ろ、重苦しい空気のバビルの兵達に目を向ける。
みんな近づいてくる死の壁を、ただただ疲れた顔で見つめていた。
気づいたら、口が動いていた。
「……は、ここににいます」
「?」
「神からの贈り物は、ここにいます」
「……ノア、早くシッパルへ……」
「神からの贈り物はここにいます!」
声を張り上げると、バベルの兵達が振り向いた。サーラさんもムトも、ダガンさんも、みんな私を見た。
どの目も、すがる希望を欲していた。
「神からの贈り物はここにいます!バビルと共にいます!バビルの栄光と共にいます!神は私たちと共にいます!」
死を目前に人が真に欲するのは、金でも権力でもない。希望だ。
ーーーダッ、ダッ、ダッ。
バビル陣営は奇妙な静けさに包まれた。
陛下は目を閉じ深く息を吐いた。
そして目を開いて優しく微笑み、私の額に口付けを落とした。
それから何かを待っている兵士たちを振り返り、戦車に乗り込んだ。
数多の兵を見回して、呼びかけた。
「……我が勇敢なる戦士たちよ!」
誰もが固唾を飲んで、王の言葉に耳を傾けた。
「バビルの兵達よ!お前たちは知っているはずだ。この川の向こうには我らが誇り高きバビルの大地がある。そして今、その大地が踏みにじられようとしている。我らの家族が、子どもたちが、敵の刃に怯える未来が目の前にある!
エカラトゥムの兵達よ!お前たちは知っているな。お前たちの国を略奪し、畑を焼け野原にしたのは誰だ? 愛する者を殺したのは誰だ? エシュヌンナだ!憎むべき敵はいま目前にいる!
確かに敵は多い。この戦いは容易ではない。だが思い出せ、我らが剣を握る理由を! 我らが血を流す意味を!
お前たちは知っているはずだ。我らの戦いは自分だけのためではない。我らが愛する者のため、友のため、国のため、未来のためにある!
ならば行こう!『神の贈り物』が、我らの戦いを見守っている!そして勝利の歓声を、敵の血を!神に捧げよう!」
王は剣で天を突き刺した。
ダガンさんが馬車に飛び乗り雄叫びをあげ、同じように剣を高く掲げた。
全ての兵が一斉に武器を掲げた。
「おおおおーー!!」
近づく死の音を、大地を震わす咆哮がかき消した。
いつのまにか涙があふれていた。
「攻撃陣形ーー!!」
ムトの声に、バビル王・エカラトゥム王の戦車を先頭に、兵達が陣形を整える。前方の弓兵隊が構える。
「ノア様、行きましょう。彼の馬に乗ってください」
シャム君の前に乗せてもらい、3人で高台に馬を走らせる。吹き付ける風で涙が乾いた。




