戦場
血に濡れた大地に、無数の人が泥にまみれて転がっている。
誰が味方で誰が敵か、
生きているのか死んでいるのか、
何もかもがわからない。
シャム君は片手で右に左に剣を振り下ろし、器用に馬を走らせる。赤い馬の巨体が人間を無遠慮になぎ倒し、何かが砕ける音、悲痛な叫びが入り混じる。
鼻を刺すのは、汗と血とが混ざる獣のような生臭さ。喉奥に張り付く鉄の味。
槍やら矢やらが飛び交う中。
近づいてきたもの全てをシャム君は薙ぎ払い……戦場の中心部に近づいていく。
四方八方から響く叫び。剣のぶつかり合う甲高い音。その中で陛下は目の前の敵と――戦場の奥、エシュヌンナ王の乗る戦車を見続けている。
エシュヌンナ王、ツィリ。軍人上がりの王らしく、遠目でも分かるほど筋骨隆々の大男。彼もまた剣を槍を振り回し、肉に突き立て血を撒き散らす。
それを見据える陛下まで――
もうすぐ……陛下の戦車まであと少し!
タイミングを見計らい、思いっきり声を出す。
「陛下ーーーー!!」
血まみれの陛下とムトが振り向いた。
2人とも目を丸くする。
「…………ノア?! なぜここに?!」
赤い馬が戦車の横に並ぶ。陛下は戦車から身を乗り出した。その瞳孔は開き切っていた。
「ノア! どういうことだ!」
周りの兵達が聞いているかもしれないが、とにかく、伝える。
「シッパルに向かう途中にマリ軍がこちらに向かっているのを見ました。工作兵が捕らわれていました!間もなく川を渡ってきます!」
陛下は目を細め、すぐに状況を理解しうなずいた。赤く濡れた手で剣を握りしめ、低く唸るように言う。
「……わかった。ノア、よくやった。ムト、退却だ。陣形を立て直す!」
敵の腕を切り飛ばしたムトは頷き、声を張り上げた。
「……退却――!!」
「退却――!!」
ムトの声にすぐさま隊長らが呼応して、角笛の音が鳴り、バビル軍は一斉に戦車が向かう方向へ走り出した。
その次の瞬間。
横から槍が飛んできた。
「きゃっ!」
反射的に身を引く。シャム君が剣でそれを振り払うが、槍は馬の腹にかすった。馬はいななき前脚を大きく振り上げる。その反動で私の体は馬から離れ――落下する。
「ノア!!」
地面に落ちる寸前、シャム君が服を掴んだ。助かった!と思った瞬間、そのままブン!と放り投げられた。
「?!」
訳もわからず私は戦場の宙を舞う。視界には戦車の上で慌てて剣を捨て、両手を広げる――陛下の姿。
「陛下――危ない!」
思わず目を閉じた。
だがすぐに衝撃音、そして熱い体に包まれて、陛下の胸の中に着地したことを知る。
目を開けると、私の体を受け止めて陛下が腰をついていた。血のこびりついた眉をしかめている。
「……陛下! 大丈夫ですか?!」
「あぁ。怪我はないか?」
「はい!」
「よかった。……頭を低く下げておけ」
「はい!」
陛下は頭をポンとして、荷台に落ちていた剣を拾い上げ立ち上がる。そして戦車の外を睨みつける。
ムトは安堵のため息をつき、再び前を向き手綱を引いた。
「退却――!!」
戦車は時折嫌な音を立てながら、戦場から離脱する。
ガタガタ。バキッ、グギャッ。
陛下の隣に座ったままひょっこり外を覗いてみると、遠のいていくエシュヌンナ軍。そしてすぐそばで血糸馬に乗ったシャム君が、追いかけてくる兵を軽やかに駆除していた。陛下が感心していた。
まもなくバビル軍は戦場を離脱。数刻走り続け、見晴らしのいい緩やかな丘の上に陣取った。
エシュヌンナ軍は深くは追いかけてこなかった。
アウェルさんも所属する後援部隊が陣の整備を始め、束の間の休息が訪れた。だが陛下たちは休む間も無く、怪我の手当を終えるとすぐに今後のことを話しだす。
予想より随分早くマリ軍が来る。一旦バビルの領土まで撤退すべきか、他に策はないか――。
一方私はフラフラと戦車を降り、戦車の裏側、人気のない場所、まだ血に染まっていない地面にぺたりと座りこんだ。
血糸馬を休ませたシャム君もすぐ隣に座った。ヘルメットを外し、口元を覆う布を下げて、ふーっと息を吐いている。シャム君の任務は、完了だ。
「……シャム君、運んでくれてありがとう。でもなんでバビル軍に? おじさんのところに戻ったのかと思ってたよ」
「ノア、シンパ、イ……ダタ」
「え?!私を心配してついてきてくれてたの?!」
シャム君は照れくさそうに頷いて、ちょっと口元を微笑ませて、手をギュッと握ってくれた。
自分の手が細かく震えていることに、その時初めて気がついた。
ーーそれにしても。
今しがた自分が見たもの、聞いたもの、嗅いだもの全てに、それが現実であるという実感が湧かない。
戦場を離れたはずなのに、心臓がバクバクドクドク、激しく体を打ちつけて落ち着かない。
それに……
「……サーラさん…………サーラさん!サーラさんを探さなきゃ! シャム君、もう少し付き合ってくれない?!」
勢いよく立ち上がると、シャム君もすくっと立ちあがり、また口をマフラーで覆いながら頷いた。
2人馬に乗る準備をしていると――
「……陛下!! ノア様!!」
聞き慣れた声に振り返ると、丘の向こうから馬に乗って走ってくる女性の姿。カールのかかった黒い長い髪が風にたなびいている。
「……サーラさん!!」
全身の力が一気に抜けて、膝から崩れそうなところをシャム君に支えられた。
「え?! サーラ!? ……ノア様も?!」
「ノアちゃん?!なんでここに?!」
軍議に参加していたアウェルさんとダガンさんが驚き振り返る。陛下が事情を話しだす。
サーラさんは兵をかき分け馬を進め、陛下の御前へ……
と思いきや、陛下もアウェルさんも通り越して、私の元へやってきた。そしてシュタッと馬を降りる。
「サーラさん……ご無事でよかった……」
サーラさんの元にフラフラと駆け寄ると、その瞳にキッ!と射抜かれた。思わず肩がすくみ、立ち止まる。
「……なにが……なにがご無事でよかったぁですか! 戦場に突っ込むなんて! なんて馬鹿なことを!」
サーラさんは猛烈に怒っていた。
「ご、ごめんなさい」
「本当にもう! 信じられません! ありえない!」
サーラさんは目と鼻の先までズンズン迫ってくる。その迫力にひるむ。
そしてサーラさんは――縮こまる私にガバッと抱きついてきた。
「わっ!サーラさん」
「……もう二度と! あんな真似はしないで!」
少し乱暴に言葉を吐き出したサーラさんの体は、背中に回されたその華奢な腕は、細かくふるふる震えていた。
「……心配かけてごめんなさい」
サーラさんの火照った背中に、そっと腕を回しかえす。
この女官長には心配をかけてばかりだ。
「ノア様は陛下のお世継ぎを望める希少な存在なんです。もっと、自分を大事にしてください」
「…………」
……サーラさんは陛下の血筋を残すことを、何よりも大切に考えている。その可能性を秘めた私の身をサーラさんが案じるのは至極当然のことでもある。
それが実現できるかどうかはともかく、どこまでも信念に忠実なサーラさんを、私は尊敬している。
「……はい。気をつけます」
アウェルさんがやってきて、サーラさんの肩をポンポン、優しく叩いた。
「サーラ、陛下から聞いたけど、ノア様は命を賭けてマリの進軍を伝えてくださった。そのおかげで我々はエシュヌンナとマリの挟み撃ちという最悪の事態を回避できた。気持ちはわかるけど、ノア様を責めてはいけないよ」
「そんなの…………わかってるもん……」
ますますギュッと抱きついてくるサーラさん。
いつもは頼れるお姉さまなのに、今はなんだか子供のようだ。
「……でも、私は……絶対、ノア様に陛下のお世継ぎを産んで欲しいのです」
「サーラさん、子供は授かりものですから……」
「王子にサーラおばちゃまと呼んで頂きたいのです。陛下とノア様のお子ですもん、絶対かわいいもの」
サーラさんは随分気が早い。
アウェルさんは切なげな顔をする。
サーラさんは抱きしめる腕に力を込める。
「私は……ノア様が陛下と向き合おうとするお姿をずっと見てきたのです。陛下のお側は危険にあふれているのに……首を絞められても、毒を盛られても、何度拉致されようと、ノア様はなんだかんだ陛下の元へ帰ってきてくださった。頑張って苦難を乗り越えてきた!そんなの間近で見てきたら……もう、推すしかないじゃないですか!」
「推すしかない」
いつのまにかサーラさんに推されてた。
……ただ流されるままここまで来たような気もするけれど、それでも「頑張った」と認められると素直に嬉しい。結構大変な目に遭ってきた気もするし。
「……ですから……ここまできたらノア様以外の王妃様にお仕えするなんてとても考えられません。ノア様じゃないと、私、嫌ですからね。嫌ですから」
その震える声。熱いお湯を注いでもらったように、胸が熱く満たされた。強く抱きしめ返した。
その背中をさすりながら顔を上げる。戦車の向こう側から、こちらを見ている陛下と目が合った。
全身血だらけだったけど、陛下はとても優しく微笑んでいた。




