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LEMURIA 混沌のレムリア  作者: アマダイ
20/25

第二十柱 フロウ

「記憶の限り、ずっとこの砂漠を彷徨っていた。」

怪人が砂漠へと誘う。軽い亡骸を腕に、砂の(とこ)へと寝かせた。

村人を目視出来ない程度に、村から離れた夜の砂漠へと歩く。

この地にしては珍しく静かな風が、そのひやりとした手の甲で頬を撫でた。

「意識が混濁した中、おそらく熱風も、砂嵐も、俺の意識を全て通り過ぎた。自覚するほどの身体の感覚はなく、亡霊そのものであり。いつからこの地にいるのか、何日も何年も経過しているのか、それともわずか2、3日のことなのか。それすらもわからないほどに朦朧としたまま、ただ何故か、歩き続けた。人に飢え、人の影を探した。」

砂が、横たわる亡骸を覆う、包帯の隙間を侵食していく。

「今思えば五感など存在するはずもなく、この防護服がその機能を果たしているという推測になる。俺はついに人間を見つけた。だが、ようやく出会えた人間は、俺を見ると悲鳴をあげ逃げ出した。砂をかけ背を向けた。足を素早く動かそうともがくも、意識が空回りするだけだった。俺は、ただ赤ん坊のように縋る気持ちで腕を伸ばした。…そうして初めて、『他人』と『自分』を理解した。」

「俺の姿は他の人間とは明らかに違っていた。忌々しくも脱衣することの出来ないこの全身スーツは、俺をあらゆる自然災害から守りはしたが、しかし俺の体は人間からはかけ離れていた。他人を認識するまでは、意識だけは人間のつもりであったにも関わらずだ。俺はそれを初めて自覚した。」

お前達も理解しているだろう、と怪人は付け加えた。

…そう、最初に出会った時、彼は確かに『液体だった』。

しかしあれから僅か一日足らずの、今。…なんと、彼には間違いなく、『関節』が存在している。

生えた、成長した、そういった可能性を受容できずに、イブキはディオルコの方を見た。彼は何も問わずじっと眺めるように、しかし同時に警戒もするように怪人の背中を見つめていた。

「己を知り意識がクリアになっていくほど、俺の身体もやや人の物へと近づいた。ぼんやりと、目が見える。だが俺は再び人間に拒絶されることをひどく恐れた。次に隊商(キャラバン)を見つけたとき、俺の姿は彼らには見えていなかった。かえって都合が良く、キャラバンの傍で日々を過ごした。人の声を聞きながら生活する安堵感。そうして初めは人の傍にいられることで安心を得たが、やはり欲が出てくる。」

―――誰かと、話したい。

俺は誰だ。ここに存在していいモノなのか。

誰か、俺を認めてくれ。


会話を―――声、声、声。


そんな日々が続き、やがてキャラバンは村に着いた。


赤犬が見守る中、首を下方に傾け、手から零すように砂を手向けながら怪人は続けた。


「そんな時、俺に初めて話しかけてきた人間が、『ベス』だった。」



『…誰だい?誰かいるってのかい?』

火が付いたようにファイドーが吠える、その中空には影はない。

肩までの見事な黒い巻髪を垂らし片手に酒瓶を提げた女性は、慈愛の眼差しで犬を見た。手首を返す動きに、飲み口を指で挟まれた酒瓶がゆらりと孤を描く。

「…」

主人は犬を制止する。まさか行く道に何者かがぼんやりと立ちはだかっているなどと微塵も考えていない。

おぼつかない動きで爪先が、他所を向く。

『およしよ、誰かがいるってんなら、アタシ達が違う道を行くってのが筋ってモンだ。』

「…」

ベスが方向を変えるも、ファイドーは鳴き続ける。


犬は、俺に気付いている。

俺は存在する。認識する、他人を、俺を。

それなのに、俺はここにいるんだ、なのに―――


『ファイドー!月に喧嘩吹っかけてどうするんだい!』

ベスは弾けた様な、開き直った声で笑う。


―――ああ、声!声!声!

―――出ろ!出ろ!出ろ!


「…ァ…」

ベスは踵を返す。


「―――待…」


こっちを、向いてくれ!


「…待て…待って、くれ!!!」


初めて声帯から産声を上げた。

女性は振り返り、路地に立ち尽くす。その姿は今も目に焼き付いたままだ。

『こりゃ、驚いたね。アタシもいよいよ、亡霊の仲間入りってわけかい。』



「最も、『ベス』とまともに言葉を交わすことができたのは、たった、数えるほどの日々の間だけだ。彼女は非常に不安定だった。幼い頃に知らない連中に北の国から連れ去られてこられ、死に物狂いで彼らの手から脱走し、流れ着いたのがこの村だった。この貧しい村に身寄りもなく、生活するだけでも必死だったが、どれだけ月日がかかってもいつか資金を貯めて国に帰る。それだけを支えに懸命に生きようとする彼女を、この村は受け入れた。気立ても良かったそうだ。実際、酒を飲んでいる間は屈託なく良く喋り、良く笑う。俺の姿を見て、どれほど驚いたことだろう。それでも言葉が通じることが分かると、躊躇なく手を差し伸べてくれた。聡明だった。だが一度アルコールが切れると、俺やファイドーに当たり散らし、自滅的になり、再び酒瓶に手を伸ばす。俺はそういう人間を初めて見た。」

「彼女が変貌したのにはきちんと理由があった。村に来てしばらくした頃、行きずりの権力者に乱暴されたことがあるらしい。それだけでも十分心は壊れうると思うが、気丈に生きる彼女に、さらに不幸が降りかかった。…どうやらその一件で悪質な病を患ってしまったんだ。」

「この地では不治の病とされているらしい。きっと間に合わないと。彼女は生きて国へ帰る望みを絶たれた。自暴自棄になり、貯蓄で酒に逃げた。彼女の精神はいよいよ崩壊した。俺が出会ったときの彼女は、既にそんな状態だったんだ。だが俺は病を治す術を知っていた。薬の作り方を…どこで得た知識なのか、全く思い出せないというのも恐ろしいものだが、その話をした途端、ベスの瞳に光が戻った。俺は本当に、心から、彼女を元の在るべき姿に戻すことができたらと、そう思ったんだ。屈託のない少女の姿へと。だがそれは所詮、出すぎた真似だった。」

怪人は泣いてはいなかったが、これからを語る上で心を無にしているようだった。

「治療の一環として、俺は彼女にアルコールを制限するように約束させた。祖国に帰るためにも、一滴も飲んではならないと。だがこれが間違いだった、―――遅すぎたんだ。俺は、状況がここまで酷いものだと、把握していなかった。」

「彼女のアルコール中毒は、進行しすぎていた。元々意思疎通が取れていたのが不思議なくらいだったんだ。俺はそのことには気付かずに、酒を止めさせた。…彼女の脳は既に、アルコールからしか栄養を摂取できないように不可逆に変化してしまっていたんだ。そこへ栄養を止めたら一体どうなる?彼女の脳の状態は一気に悪化した。」

「…そんなことがあるのか?初めて聞くが。」

ディオルコが尋ねた。

「俺も初めてだ。だがそれしか考えられない。アルコールを止めろと言われて実際に止められる人間がどの程度いるのかもわからないし、そもそも周りの制止で何とかなる環境なら普通ここまでは悪化しないので参考になりようがない。だが彼女の場合意志が強く、酒の一切を自分で絶ったんだ。――――俺の、せいで。」

ディオルコは何か聞きたげだったが、今は呑み込んだ。


「俺を信用してくれた一人の人間の脳を、俺は破壊してしまった。悔いても悔やみきれない。当然、自責の念から、俺は彼女を介抱し続けた。しかし性病への投薬は出来ても、認知機能も悪化し精神状態も最悪となった彼女がここから良くなることは絶望的だった。顔を、体を毟り、皮膚は崩壊し、悪臭がするようになった。意思の疎通は望めず、正気に戻ったときに見せていた人間らしい表情は消え、時に奇行に走り、徘徊癖が現れた。」

「…そんなの、おじさんのせいじゃないじゃない。」

思わずイブキの口から言葉が漏れた。

「運のせいだ、そういう運命だ。―――そうかもしれない。だが彼女が人を恨むような娘ではないから、俺はなおさら、俺自身を恨む…恨めしいんだ。それを、彼女を突き飛ばした女の子への怒りと混同した。本当にベスをボロボロにしてしまったのは、俺なんだ。だが未だ脆弱な俺の自制心は、感情のコントロールに失敗してしまった。幼子の癇癪のように。」

イブキは気遣うようにクリーチャーの顔を見上げた。

「おじさんは、他人の為に心を痛めて、苦しんであげられるじゃない。だから、この女の人も、おじさんのことを信じたんだよ。それできっともう十分だよ。」

「―――…」

「国はどこだ?」

沈黙する怪人へと、徐にディオルコが疑問を投げかけた。

「何?急にどうしたの?」

「その()の正しい名前と、祖国はどこだ?俺らがこれから向かうのは北国だ。離れ離れになった家族に顛末を伝えることくらいはしてやれるかもしれないぜ。」

イブキが納得の表情をすると同時に、クリーチャーの動きが一瞬固まった。

「名前は…『ベス』としか…いや、違う確か、本名は『エリザベス・ボーンズ』…、それ以上は…。国は…、聞いたこともない名前の、なんと言ったか―――…」

「『リル』か?『シファード』か?…。」

「いや、もっとこう、『ウ』―――…」

「まさか、『ウコキア』か?」

「そう、それだ!確かそんな名前だった。」

―――『ウコキア』を、知らないだと?『聞いたこともない』?

ディオルコの目尻が僅かに吊り上がる。

「…お前…『エルディーダ』は…『キルピス』は、もちろん知ってるだろうな?」

「『エルディーダ』…?『キルピス』は、確かこの先の…そう村人が話して…」

しどろもどろの怪人を、ディオルコがさらに追い詰める。

「今までの話から察するにアンタ、本当は科学者や医者といったところだろう。記憶というのは一時的に失っても、知識の部分は残っている場合があると聞く。今のアンタは語る内容も量も昨日とはまるで別人だ、一日で得た知識量じゃない、そんな環境でもない。元からあった知識が蘇った、と俺が考えるのは自然だと思うが―――じゃあなぜ生活に必要な知識が抜けている?自分が暮らした周辺国の名前ってのは、少なくとも聞き覚えくらいはあるもんじゃないのか?一体どっからきやがった!」

「それは、それは―――それは俺が知りたいくらいだ!」

青年は眉間に皺を寄せたまま、ひとまず引く。

「―――いや、悪い、こちらも熱くなりすぎた。」

胡散臭さは目白押し、問い詰めるべきことは山の如しだが、先刻の癇癪を思えば腫れ物に不用意に触れるべきでもなかった。

感情のコントロールに関して未熟な点は、この怪人自身すらも自覚済みだ。風体や声音こそ成人男性だが、どこかこう、幼子のような…。

「………一体、俺はどうしてこんなものを着ているんだ。どうしてこの世の何もかもにおいて、こうも見覚えがない?俺はなんだ?わからない…、だが信じてくれ、心は在るんだ。彼女に、ただ報いてやりたかった…。」

一連の会話を眺めていたイブキが、突拍子もない提案をした。

「ねえディオルコ、この人一緒に連れてってあげようよ。」

一度では言葉を呑み込むことができなかったのか、ディオルコはショックを受け声もなくイブキの方を見た。

「…それはまさか俺に言ってるのか」

「だって、この人…『ベス』って人の故郷に行ってみたいと思うよ。それに、旅の途中で何かを思い出すかも。」

「『ウコキア』は彼女が連れ去られた頃の『ウコキア』じゃない。一般階級の家族が生きているならせいぜい『リル』か『シファード』へ出稼ぎへ出ているのが関の山だろう。現実的に考えてくれ、そこまで俺がこいつとお前を後ろに乗せて、移動しろってのか?」

イブキが首を傾げた。土地勘がないのだ。

「無駄な話だったな。」

「なにさ、感じ悪い!」

「こいつが一体何キロあると…いやトンレベルか?俺の負担は!運転するのは、俺!!」

「重さ関係あるの?」

「あるわ!!大ありだ!!コモドのケツが捥げるわ!!」

最も、本人を前にしては控えたが、一番心配すべきは怪人の素性だった。

ディオルコにしてみれば、触れてみたいが関わりたくもないというのが本音だった。

「…『イブキ』と言ったか、お嬢ちゃん、…いいんだ、俺は。誰の迷惑にもなりたくない。ただ君達に会えて話が出来たことはとてもよかった。」

怪人のあまりにも控えめなコメントに、イブキが目を釣り上げてディオルコを見た。

「よせ、わかった、例え力は貸せなくても知恵は絞ってやるからそう俺を責めるな。いいから名前でも聞いてろ。」

手を上げてイブキを制止しながらディオルコは頭を搔きむしった。

「あっ、そうだよね、おじさんの名前がないや。覚えてる?」

「いや…ただ、ベスは、亡霊と呼んだり、たまに間違えて『ファイドー』と呼ばれたりした…」

呼ばれたファイドーが足元で尻尾を振った。

「『野良犬(ファイドー)』?ふーん、じゃあ、『ポチ』さんだね!」

流しきれなかったディオルコが割って入った。

「お前、大の大人に、『ポチ』はねえだろ『ポチ』は!アンタも抵抗しろよ!」

「いや…俺は別に……」

「なんでだよ」

「えー、だめかな。今は記憶がないけど、ポチさんは本当は大事な名前をしっかり持ってるんでしょ?だったら今は、最初の名付け親に倣って簡単な名前じゃダメかな?」

ディオルコは一瞬丸い目をした。

「…一理あるが…、いや、でもなあ…」

「俺は良い名前だと思う。ファイドーは俺の先輩だ。物のねだり方、残飯の在処、万引きのタイミング、様々なことを教えてくれた。」

「あっ、そういやテメエ、あの時はよくも俺の酒を…やっぱ手を貸すのはやめとくか。」

ディオルコがにんまりしたのでイブキは気付いた。

「じゃあ、なにか案が?」

「いいか。『キルピス』までは一緒に乗せていこう。特殊な場所だ、お前の素性を知る者がいるかもしれない。それでどうだ。」

イブキはびっくりして怪人と顔を見合わせた。

「…いいのか?」

「だって、絶対乗せたくない感じだったじゃん…どういう心変わり?」

よく見れば笑う青年の赤茶の瞳が僅かに死んでいる…気がした。そのまま怪人の姿を捉える。

「全てはアンタの熱意次第だ。その気がないヤツは連れて行かない。どうなんだ?」

青年はいつも問う。自分次第だ、自分で選べと。それは、きっと自分自身にもだ。

「それは……」

怪人は言葉を探した。

「小さな目的が、今の俺の心の在処だ。俺は、あの()との縁を辿りたい。琴線に触れた何かが、俺の記憶を呼び戻すかもしれない。―――共に、行動させて欲しい。」

イブキは事の顛末を見守った。

「難しい言葉ばっかり使いやがって。…そんなとこだろうよ。」

それだけ言うと、ディオルコは仏に一礼し踵を返した。

「行くぞイブキ、水を安く恵んでやるってさっき村の老人に言われたんだよ。『ポチ』…アンタはパニックになるから裏で待機だ。後でな。」

振り返りもせずにそう言う青年の赤い背中を見てぽかんとしたイブキが、慌てたようにポチへと付け加えた。

「あの…多分、悪い人じゃないから…!」

それだけ言うとすぐに青年を追いかけに駆け出した。

残された亡霊は、ただ亡骸の脇で、しばらく呆然と砂漠を眺めていた。酷く静かな時が流れた。



水を貰うついでに、イブキは村の老人の井戸汲みを手伝った。

「娘さんや、あの怪物はあの後どうしたか知っとるかいね。」

「えっ…知らない」

聞かれてもそう応えるよう予めディオルコに言われていた。

「そうかね。あの若者とあんたさんは今からキルピスに向かうんじゃろ。井戸の作り方も、村の作り方も、酒の楽しみ方も、全部その昔キルピス人に教わったもんじゃ。偉大な民じゃった。エルディーダに蹂躙されるまではな…」

「エルディーダが、キルピスを…?」


「あの怪物と同じ、橙色の連中が何人も押し寄せて、キルピスを火の海にしたのよ。その地に共に棲む『ルルカ』を丸ごと抹殺しようとしてな…」


イブキは頭が真っ白になった。

遠いところで老人が、まだこのあたりをウロウロしているなんて、と呟くのを聞きながら、血の気が引いていくようだった。

両手で抱えた水の入った桶がぐらりと傾くのをどこからか現れたディオルコが引き取った。

「よう、どうした。何か聞いたか?」

「―――い、いや……」

「そうか」

ディオルコは目を伏せたまま微笑みもせず、薄く笑った。



川の流れる音が渓谷に響く。

雲海を眼下に、仏座のような形をした岩の上で狐のような細い目をした人物が胡坐をかいている。

脇には錫杖と思しき棒が備えられているが、その先端は白布で覆われている。

「ははあ、出発したのかい♪」

耳まで裂けるような口に笑みを浮かべ、ぐるりと展望を見渡すと、軽いこなしでひょいっと宙返りして立ち上がった。興味本位で途中まで読んでいたであろう藁半紙をくしゃっと丸めると、この細身の人物は男とも女ともつかない声で欠伸をしながら呟いた。

「この目で見るまでは信じられないようなことをするよねぇキミ…さてどうおもてなししようかなぁ」



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