第十二柱 雄麗なるアルゲバル
砂漠の水害に遭遇した二人を、さらなる現象が襲う。
◆
涸れ川に遭遇したのが明け方であったこと、そしてコモドの移動速度が仇なしたことは、実に不運であった。後にイブキはそう振り返った。
「今はただの涸れ川じゃない!…大きな河が出来てる!」
だいぶ明るくなった地平線を正面に、ディオルコの背中からひょっこり顔を出してイブキは叫んだ。
竜にも似た濁った水流が、暁光に輝く砂漠をのた打ち回っていた。
「また…今年は異常気象か!」
ディオルコも風に逆らいイブキに負けず劣らずの大きな声で叫んだ。
『また』、ということはディオルコたちはどうやらイブキと出会う前にもこの現象に見舞われたらしい。
『ワジ』とは涸れ川のことだ。普段は交易路として使われていることもある。通常は雨期にのみ流れが復活する。
「例年はまだ雨期じゃないはずだ!…しかし」
ディオルコは突然沈黙した。
「だ…誰か流れてくるよ」
助けなきゃ…、と尻すぼみに言いながらイブキの目が拾い上げた漂流物は、誰の目にも死んでいるのが明らかだった。
流れてきたのは人だけじゃない。家畜、兵糧、何かの板、また家畜…様々な生活の跡が濁流に埋もれ、また顔を出しを繰り返していた。これは幼いころ砂漠を横断したはずのイブキにとっても初めての体験だ。
鉄砲水、つまり…どこかで起こった大雨によって地中に水を貯め込みきれなくなり、吸水能力の低い砂漠の地盤の薄くなったとこから一気に噴出する現象。その水流はありとあらゆるものを飲み込み涸れ川に流れ込む。
具体的には何が何だか判別できないものの、イブキに視力の劣るディオルコにもその様子が呑み込めたらしい。
「急激に天気が崩れたみたいだな。鉄砲水か…これは酷いな…」
「で、でもここはすごい天気いいよ?」
イブキは上を見上げた。不気味なほどに雲一つない快晴だ。…風は速いが。上流へ向かうように吹いている。
「…風が雨雲をここから吹き飛ばし、上流の集落がやられたか。土着民がこうも巻き込まれるとは…。俺にもわからん…とにかく。」
自然の前にはどうすることも出来ない、事態の解明はとりあえずとして…
「離れて今からテントを張る!」
「えっ?」
そう一言説明しディオルコはコモドをUターンさせた。
…確かに日は昇り星はもうほとんど見えない。何にせよ今日はもう日中を大人しくやり過ごすしかないようだ。
◆
砂漠から打って変わり、こちらは白壁の小部屋。天井は薄暗く、床も壁も白く象牙のような滑らかな素材で出来ている。床に備えられた明かりが部屋を照らしている。
部屋の角に、灰色のロングコートを着た面長の男がぼうっと座り、キセルで何かを吸っている。
「確かに報告は受け取った。…ククク。」
男の姿を切り出したかのように、漂う煙は不自然に途切れている。
「『赤錆』が奇行に走るとは…俺は信じてないぜ、まあいい。」
「上には報告のまま…理由は不明だが、アイツは『漆黒』を仕留めた際に失踪したと通そう。件の報酬は『貴様』にきっちり払われる。それで、お前はこれからどうするつもりだ。」
面長の男に向き合う形で、座っているミケーレがきっぱりと返す。
「追いますよ。」
「何?」
男は怪訝な顔をした。
「お前にしては酔狂な、金にならない仕事はしない男だろう。ひょっとして討ち取るつもりか。」
そう言うと男は鼻と口を覆い、煙を深く吸った。
「…もしあの男が職務復帰したら、扱いはどうなります。」
面長の男はまさか、という顔でミケーレを見たが、すぐに何かを考え始めた。
「まずやつが裏切り者と判断されるかどうかだが…。赤錆は事情はともあれ立場を放り出してどこかへ向かった…組織からすれば裏切りと考えられるだろう。その場合。」
渡す情報に誤りの無いよう一応念入りに考えているのだろう。男の目は左下を向いていた。
「仮に復帰を希望したとしても裏切った経歴は消えない。だが籍は、死んで抹消される漆黒とは違い、生きている場合は残る。つまり赤錆を殺すミッションはそのまま残るが、それでもお前が組むというならマニュアル上容易に復活できる。…最もヤツを見つけ次第、他の連中はこぞって赤錆を殺しに来るだろうし狂気の沙汰とは思えんが…俺は所詮中間管理職、お前らにお悩み相談をして、力になってくれた子には決められた小遣いを渡す、それだけだ。それ以外の面倒事はごめんだな。…しかしお前ほどの男がなぜそう奴に固執する?」
「別に固執などしませんよ。あの男とは契約がありましてね、ヤツと組むほうが私にとっては都合がいい。金の切れ目が縁の切れ目…と申しますが、金を得られる限り私はヤツを切るつもりはありませんから。説き伏せられなければ始末し手柄にするだけ…ああ見えてあの男は使い勝手が良いんですよ。」
「なるほど…アイツ、金で折り合いをつけていたか、クク。しかし本当はヤツを追うと見せかけて、お前には『別の』目的があるんじゃないのか?例えば北に向かい…」
「―――貴方は。いつから他人のことに首を突っ込むようになったんですか。」
ミケーレの視線が面長の男を抉った。
「そう怖い顔をするな。疑ってるわけじゃないが、お前にとっては残念な知らせだ。札付きは原則二人一組だ…人手の補充はさせてもらうぞ。」
ミケーレは溜め息をついた。
「邪魔だから必要ない、と言っても無駄なんでしょうね。」
「前に赤錆をお前に充てた時も同じことを言っていたな。…まあそういうな。足は必要だろう。偶然にもお前の近くに、相棒を無くしたばかりの札付きがいるんだ。ラクダでそちらへ向かうだろう。知っての通り、基本給は組ごとに支給される。言っておくが、お給料は『仲良く』分けるんだぞ。」
仲良く、ね。今まで金の話を穏便に終わらせたことはない。ディオルコただ一人を除いては…。様々な意味で二人は少し特殊だった。
それにしてもラクダか…。これが普通なのだ。『コモドドラゴン』の便利さを思い、ミケーレは残念がった。
「あぁ、そうそう。これは忠告になりますかね。」
ミケーレは立ち上がりざま思い出したように言った。
「私としてはどちらでも…いや、最終的にはむしろヤツが裏切り者と見なされたほうが好都合ですがね。赤錆を裏切り者扱いにしない方が良いのではないですか。」
「何?」
「貴方だって人員補充は面倒でしょう。彼に下手に懸賞をかければ全員返り討ち―――殲滅されますよ。私を除いた全員がね。」
ミケーレの眼鏡は暗闇に反射し、相変わらず無感情でその表情はよくわからない。
「莫迦な。貴様じゃあるまいし。」
揺らぎなくそう鼻で笑ったかと思うと、面長の男の姿は消えていた。
ミケーレは部屋の階段を降り、溶けた壁の向こうに消えた。面倒事がもう一つ残っていた。
◆
幼い頃、涸れ川を見つけたら直ちにその場を離れ高い所へ避難するように、口を酸っぱくして言われていた。だが今は見渡しても高所は見当たらない。
そんな環境だから、移動速度の速い『コモド』が非常に便利だった。あっという間にワジから離れ、ディオルコは急いで、しかし強風に負けないようしっかりと軍用の三角テントを設営した。慣れたものであっという間にテントは張れたものの、作業にとりかかるのが少し遅かったために太陽はすっかり姿を現してしまっていた。
テントの中での会話によれば、なんでもディオルコ曰く昨夜であのワジは越えてしまうつもりだったのだという。
彼がイブキを責める様子はなかったが、自分が駄々をこねた時間がなければ首尾よく涸れ川を横断できたのではないか…そう思い居心地悪そうにするイブキに対し、
なに、あのまま急いで渡ってれば運悪く鉄砲水に飲み込まれてお陀仏だったかもしれないさ、と誰に言うでもなくさらりと呟いた。…確かに、それもそうなのだが。イブキは青年のこういう部分に自分の覚悟を鈍らされているようでもやもやしつつ、謝罪の言葉も自己弁護の言葉も見つからず黙っていた。
テントの真ん中に全高の大きなコモドを挟み、ディオルコとイブキは川の字になって寝ることになった。暑くてたまらない。体中の水分が気化していくようだ。
横になるなり寝息を立てたディオルコを背に、イブキは持ってきた服にこっそりと着替えた。自分の血でパリパリになった服を着替えさっぱりしたイブキは、着た服にかわり脱いだ服をリュックへ入れ替えた。今を好機と見て、寝ているディオルコの目を欺き再びバイクを盗むことを考えないでもなかったが、このバイクを動かす術がどうしても見当つかない。彼は跨るだけ…ディオルコが特別変わったことをしているようにも見えないのだ。
…何より眠い。丸一日寝ていない。疲労困憊だった。疲れで余計なことを考えずに済むのは助かるが、さすがに限界だ。イブキは少しだけ仮眠をとることにした。少しだけ、そしたらどうやってこの男から逃げるか、色々考えるんだから…イブキはそのまま、泥のように眠った。
夕暮れ時、もうじき一番星が見え始める頃、ディオルコは目を覚ました。
「ンのォ…」
…顔が熱い。頭がガンガンする。ディオルコは呻いた。…原因に心当たりはある。孤児院を訪れた午前中、ミケーレに酷使され日中の砂漠を走りすぎたのだ。
忌々しい、同じ北国出身でありながら何でミケは平気でいられるんだよ…!
しかも昨日に続いて今日までも、日が出てから作業をしてしまった…この鉄砲水だ、仕方がない。こんなのはさすがに予定にはない。そもそも明日の夜には次の集落へ到着し休めるはずの距離だったのだから、コモドを少し飛ばせば二人にとっての足止めは微々たる影響のはずだった。
しかし先刻見た河は生っちょろい規模ではない。この水量は前にこの砂漠で見たものとはまるで比較にならない。一体どのくらい…いや何日、迂回か足止めを食らうのだろう。無性に嫌な予感がする。
更地に近い地図を眺め思案しながらディオルコはコモドの荷箱を開けた。
…中には様々な道具と、水と食料が入っている。
急な砂漠への脱出と、想定外の災害。人間相手ならまだしも、相手は自然だ。…砂漠に飛び出してすぐにこうなるとは、まさか考え及びはしなかった。残念ながらこの不測の状況に水と食料の備えは、楽観的に見ても多くはないと言えた。コモドは『進めすぎた』のだ。移動距離が大きいことと引き換えに、積載量はあまりない。幸いその速さのお陰で、すぐに『引き返す』ことは可能だ。
水が引くまで昨日のオアシスに戻り待機するか?―――最良に思える。ただしオアシスの住民たちの問題に加え、あのオアシスさえもワジと地下水道で繋がり水害が起きている可能性もある。
再度荷箱の中身を見てディオルコは唸った。四の五の言ってもいられまい。
イブキを荒れた民族の目に晒すことに不安はあるものの、腕に自信のある彼にとっては水場に停留する方が砂漠で右往左往するより遥かにマシだ。川を無理に渡ろうと考えたり、下手に動きまわるのは自殺行為だし、環境を整えて待つべきだろう。何か他にいい手はないかと考えを巡らせながらも、まずはワジの水が一刻も早く引いてくれるのを祈るばかりだった。
抱える不確定要素も多い。自分は飲み食いしなければ死ぬ…それははっきりしていたが、問題なのはこの少女だ。Barrenについては見聞きした知識もあるが、この子についてはどこまでその能力で許容出来るのかは定かではない。
怪我が治ることは判明したが、病気や精神病は?溺死は?飢餓は?どこまでは大丈夫なんだ?…本人にも尋ねなければならない。
シファードへの大切な『配送品』。自分よりこの娘の方がはるかにシファードにとって価値のある存在だろう。『紛失』、『破損』は絶対に避けなければならない。今は完全に庇護するべきだ。無論、護る理由は彼女をシファードへ届けなければならないことだけではなかったが。
…ディオルコはさっぱりわからなかった。西の森の魔女、エリス・ビ・ドールは一体自分に何を期待してこの子を託したのか?子供の扱いなどさっぱりわからない、腕っ節だけのこの自分に。
『世界が終末を迎えたなら、南を巡り神を模した娘、イブキ・ダグーを探して欲しい』
手紙を穴の開くほど読み返しても、裏から読んでも火にあぶっても、少女に関してはたったのそれだけしか書かれていない。
ふと眠っている少女を見やる。丸くなり無防備にすやすやと眠っている。
本当に、ただの…ほんの子供だ。眺めるたびに困惑してしまう。
目立っておかしな何点かは了承済みだがそれを目にした今も、少なくとも自分の前では世間知らずのただの子供だ。強大な力などない。
ディオルコだってつい昨晩の、焼け焦げたトギニの姿とひしゃげた大鉄扉の光景を忘れてはいなかった。
状況からこの少女の仕業以外に考えられないし、ぼかしてではあるが少女の口からもそう友人に話すのを盗み聞いた。…見たままの、非力な少女ではないはずだ。だがとにかくそうは見えない。
ともすれば人格の面だけでも何かが欠けている子供なのかと思いきや、話していて少なくとも最低限の倫理観は持ち合わせている。
自分が突飛な妄想か何かに憑りつかれているだけなのでは、とさえ思えてくる。
気が迷う。これ以上自分の説に自信を無くすくらいならいっそ、ただの子供として扱ってしまおうか…。
ディオルコは夕暮れの空を見上げた。強風が肩辺りまでの長髪をなびかせた。大型の鳥が弧を描いて飛んでいる。…うち上がった漂流物でも狙いに来ているのだろうか。外を眺めつつテントの外へ出ると、コモドもついてきた。
何かを決意したようにディオルコは三角テントを畳み始めた。
【ワジ遭遇から一日経過】
夢の中でイブキはまだ孤児院にいた。リキやレディエンヌと夕飯を食べていた。なぜか食べても食べても腹は満たされない。叫ぶ腹の虫を諌め、一日の終わりにさあ『おやすみ』を言おうとレディエンヌに振り向くと、そこにいたのはあの青年で
「おーい、起きろ。後ろで寝れるもんなら寝てていいから、とりあえず起きてくれ、移動するぞ。」
バサバサと固い布の音がし、イブキは飛び起きた。
「ほあっ…?!」
「ほらほら。」
テントを畳むため、寝起きのイブキは外へと追い立てられた。重い瞼で呆然と立ち尽くしながらイブキは無性に悲しくなった。ああ、夢だったんだぁ…
「眠れたか?まぁ聞くまでもないな。とても見知らぬ男と一緒とは思えない熟睡っぷりでしてよ♡」
せっせとテントを畳みながらディオルコは軽口を叩いた。
今は怒る気にもなれない。これだけすっかり寝てしまって…よくもまあ、自分はこの男から逃げられると思っていたものだ。情けない。
いくら疲れていたとはいえ、私の警戒心はどこへ行ってしまったのだろう。
イブキは自分に呆れていた。
「ほれ、飯だ。」
片付けの片手間にディオルコは何かの包みを寄越した。匂いからして何かの肉の乾物だ。
「昨日からろくに何も口にしてないだろう。さすがに腹が減ったんじゃないか。」
確かにとてもお腹が空いていた。しかしなんだか餌付けされているようであまり気乗りしない。イブキがなにか言いかけるのをディオルコが制した。
「こんな状況だ。十分食わせてやれるとは言いきれないが…まあ食えるうちに食っとけって。何があるかわからないだろ?」
仕方なしにイブキは食料を有り難く貪った。美味しい。
「アンタは?」
「俺はお前が腹鳴らしながらいびきガーガーかいて間抜け面晒してる間に頂きましたよっと。」
「いびきはかいてない!」
「そりゃどうかな。さて、と…」
テントをしまい終えたディオルコはパンパン、と両手のひらを合わせて砂を払い、荷箱から地図を取り出した。地図を片手に、空いた手で顎に手を当て顔をしかめる。
「あのワジを見ただろう。一度昨日のオアシスに戻り、二、三日様子を見る。良い変化が見込めればいいが…」
しかし現実は非情にも、このあと二人はすぐにこの場所へとんぼ返りをする羽目になる。
「どうなっていやがる。ああ?」
「……」
轟々と音がなる。イブキは昨日通過した、他とは土の色の違う開けた場所が、どうやらこの場所であることに気がついた。ただし目の前にはオアシスへ向かう二人を嘲笑うかのように、先に見たワジとは別の淀んだ泥の川が広がっていた。…挟まれた!
二人を挟むこの二条の河川は、古くから足の涸れ川と呼ばれ、それぞれ片足ずつに相当するらしい。故にこの右足は今ももしかすると最初の左足とどこかで地下水路として繋がっているんじゃないか、というのがディオルコの推測だ。とにかく、限界量を超えた水は地下水路を介して隣の涸れ川にも流れこんだらしい。それならばこの二河川は運命共同体であるわけだ。一方が涸れれば他方も涸れる。
オアシスへ近づけないかと下流側へと向かってみると、二つのワジは遠くオアシス側の方角で合流していた。さしずめ『股』にでも当たるのだろうか。
「まさか上流も地上で繋がりここだけ取り残された、なんてことはないと願いたいが。仮にワジに閉じ込められていなかったとしても、上流に向かえばどっちみちオアシスから遠ざかっちまうな…」
遠く遠く川を逆上ることになる。ディオルコは頭を抱えた。イブキが指でちょいちょい、と河を指しながら
「泳いで渡れない?」
というのを機に青年は聞いてみた。
「渡れない。…いや、お前、ひょっとして溺死とかしない人?」
「わかんない…泳いだことないし…」
「そんなんで本気でここを渡ろうと思うのかよ…」
やはりこの少女、少々考えなしというか向こう見ずである。
「やめとけよ、不死身ってのが勘違いなら一巻の終わりだろ。大体お前、どこまで試したことがあるんだ?死にそうになった経験は?」
「正直…今までこの間の銃で撃たれたやつと、終末くらいしか…」
「んー…」
まぁだろうなと思い、ディオルコは頭を掻いた。
水量が増せばどこかしら決壊し中洲が潰れ危険だと判断した二人は、苦渋の決断だがオアシスを諦め上流へ移動した。延々続く右足を遡る。ディオルコ曰く少し遠いが、地図によれば上流側にも立ち寄ったことのない集落があるはずだという。
遠くには横たわる、旧火山と思しき巨大な台形の山が見えた。地の果てに見える、とイブキは思った。
…いくらコモドが速いと言っても、もしやあそこまで向かうことになるのだろうか?
【ワジ遭遇から二日経過】
もちろん川の水が引けば渡れる可能性もある。そう思い次の夜バイクを降りて見てみたが、左足は轟々と音を立て、元涸れ川の川幅も水嵩も増していた。流れは昨日より明らかに速い。今日は心無しかさらに風も強くなり、空気の乾燥も酷くなっている気がする。
恐らく上流は大被害を被っている。
コモドの光に頼り二人は十分注意して河に近づいた。濁流に跳ねた水が風に乗り降りかかる。
「この子でここを渡れない!?」
イブキはコモドの方を振り返りながらディオルコに聞いた。コモドはその目で静かに川面を照らし続けている。
「ダメだ、こいつにそんな無茶はさせられない!…いくらなんでも機械だし川は可哀想だ!」
ディオルコはなんだか矛盾した意見を述べた。
それに、水嵩も水流の威力もわからない。全員土左衛門になる可能性がある。二人はワジを後にした。
幸い今のところ閉じ込められてはいないがワジに挟まれていることには違いなく、何も解決しないまま上流を目指し二日が経過した。
【ワジ遭遇から四日経過】
進んだ先は過去の鉄砲水が大地を削り、元の高低差によりちょっとした崖のようになっていた。そこから河が滝のように流れ落ちているのが見える。
今夜あたりが村に着く頃であるという。この日も二人はテントを張り過ごした。
昼間の灼熱はさらに悪化し、乾燥した熱風が鼻腔と口腔を焼いた。
思えばこの厳しさは何か異常なものがあった。
暑さと運転の疲れ。日中にディオルコの覚醒した姿をほとんど見ない。それは理解できたが、イブキにはまだ一つ気がかりなことがあった。…ワジを見てから彼の食事風景をほぼ一切、見ない。
彼自身普段と変わらない態度で、そのことに自分から触れる様子もない。もちろんイブキには、鍵の掛かった荷箱から食糧がきちんと配給された。だからイブキは自分の気のせいだと思っていた。
…だってまさか、そんなお人好しはいない。誰だって自分の身が可愛い。ご飯だよ?あるのに食べないなんてことある?
また、要る要らないの問答が面倒らしく、水筒の管理は基本的にイブキに割り当てられた(量の制限はあったが)。
もしかすると、ディオルコは水を任せることで少しでもイブキの信用を得ようとしているのだろうか。確かにこの状況で仲間割れは避けたいだろう。
「………」
本当にそれだけだろうか?
イブキは少量の塩漬け肉を手に持ったまま、今しがた寝転がったディオルコを盗み見た。
もしかしなくても。私は優遇されているのではないか。そんな現実から目を逸らした。
知らない。村に着いたら今度こそ逃げ出すんだから。例え気を遣われてようと、今夜村についてしまえばあんなヤツ関係ない。…よね?
イブキはどこ吹く風、を貫いた。
【ワジ遭遇から五日経過】
結局その夜は星を指針に進んだものの、朝方になっても目的の村らしきものはイブキの視界には見つけられなかった。
「…潰れっちまったのかなあ。どう思う?」
ディオルコは地図を日にかざし呟いた。目的地のことだろう。縁起でもないが、確かに地図のデータが古ければ、捨てられた村がそのままに記載されていることはあり得る。不思議なことに人の住まなくなった村は一気に風と砂に風化し、飲み込まれて跡形もなくなる。
ディオルコは覚悟を決め、危険を承知でワジから水を汲んだ。濁りきっていてとても飲めたものではないが、テントを構えた場所でそれを砂や布、ワジ沿いの石などを詰めたお手製の濾過器にいれ、煮沸し僅かながらの飲水を作った。あまり回収効率の良いものではないようだが今はその備えすら必要だった。
昼夜の温度差を利用した蒸留水なども試し、なんとかやり過ごした。
体力をセーブするためか口数は明らかに減ったものの、ディオルコは相変わらず朗らかだ。
「一体いつまで雨が降ってるんだ?」
風上を一睨みし拵えたテントに潜り込みながらも、彼は怪訝なイブキの肩を叩いた。
「ま、お前も無駄な体力は使うなよ。いざって時は期待してるからな、神を模した者さんよ。」
そう言うとすぐに横になった。
期待、そうだ。何のことかよくわからないが、この男が私に親切なのは、あくまで私がDivinesだからに違いない。気後れする必要はない、それだけだ……
【ワジ遭遇から六日経過】
どこかで数え間違っただろうか…?ぐるぐる日が巡りイブキは今日がワジに遭遇して一体何日目なのか自信が持てなくなっていた。しかし、流石に食わせてもらって世話になりっぱなしは立つ瀬がない。そう気づいたその日、初めてイブキがテントを立てた。
初回はなかなか手際よく、ともいかずディオルコの手直しが入り、その後もまたディオルコはすぐに横になった。
彼の呼吸は早く、妙に深呼吸が増え、日に焼けたのか顔も赤い。正直に見てあまり調子が良さそうではない。
それなのに運転はさせ、水と食糧は与えられ、自分が出来ることと言えばテントを立てるくらいだ。
イブキは何となく口には出せずに、色々な疑問を抱き続けていた。
何か食べているのか?具合がわるいのか?総括すると何を考えているのか?ということだった。しかしイブキは意固地にもそれは聞くまいとしていた。
想像している返答は聞きたくない。この男を『頼れるいい人間』だとは思いたくない。そう思ったが最後、初日から抱えてきたとある感情がこのワジのように噴出しそうだった。
その昼、ディオルコがイブキを叩き起こした。
「おい、起きろ『イブキ』!外を見ろ!!」
イブキは驚き外へ飛び出し、目の前のあまりの光景に息をのんだ。
壁。迫り来る巨大な―――壁だ!
目を見開きディオルコが叫んだ。
「大砂嵐…!!」
砂嵐の壁が天まで伸び、大地を隔てていた。
「どうりで風がおかしいと…なんて面倒な…!仮に水が引いても、これじゃあ空が見えない…!」
一見ノロノロとこちらへ向かってくるかに思われた砂嵐は、実は結構なスピードで目前へと迫ってきていた。馬が走るくらいの速度はあるだろう。
なんとツキのない…しばらく砂の巨壁を睨み呪っていたが、やがてディオルコはため息をついた。
「いずれ真っ暗闇になる。そうなる前にテントを補強する。イブキ、…手伝ってくれ。」
アラビア語なんて知らないぞ。




