父の背中
「底辺グルメ配信者の俺が星系代表になったって本当ですか?」の前日談。
レイモンドが政治家になるための実質的立役者であるシノの物語です。
ぜひお楽しみください。
1. 船の匂い
まだ物心つく前から、あたしの記憶の底にあるのは、いつも船の匂いだった。
金属と、潤滑油と、微かに焦げたような電子機器の匂い。
ゆりかごの代わりに、操縦席の後ろの狭い寝床があたしの居場所だった。
「シノ、危ねえから、そこ座ってろよ」
父――ウラガ・ガイウスは、いつもそう言いながら、
片手間にあたしを膝に乗せて操縦桿を握っていた。
母がいない分、船の上では父がすべてだった。
母は、あたしがまだ三つの頃、輸送中の事故で死んだと聞かされている。
詳しいことは、父はあまり話したがらなかった。
「危ない仕事だったんだよ、これは」とだけ、
いつか一度、酔った時にぽつりと言っていたのを覚えている。
それ以上は、聞くのが怖くて、あたしも突っ込んだことはなかった。
だから、あたしにとって「家族」というのは、
父と、そして父が信頼する副長――ロイド・マーシュのおっさんだけだった。
2. ロイドのおっさん
「シノお嬢、また操縦桿にべたべた触って。
あとで指紋だらけになったら、旦那に怒られるのはあたしなんですよ」
ロイドは、そう言いながらも、決して本気で怒りはしなかった。
父よりずっと慎重で、細かいことにもよく気がつく男だった。
父が思いつきで無茶な航路を選ぼうとすると、
必ず一度は「本当にいいんですか」と釘を刺す。
その代わり、一度父が決めたら、黙って従う。そういう男だった。
「あんたも、いつかシノに、操縦教えてやってくれよ」
父がそう言うと、ロイドは苦笑いしながら頷いていた。
「旦那の教え方だと、シノお嬢、
いつか本当に星の海に放り出されますよ。
あたしがちゃんと、基礎から仕込みますから」
その言葉通り、あたしが物心ついてから、
操縦の基礎、航法の理屈、荷の積み方一つに至るまで、
根気強く教えてくれたのはロイドだった。
父は、感覚と度胸の人間だった。
ロイドは、理屈と手順の人間だった。
その二人の間で育ったから、あたしは今も、
無茶をする時ほど、頭の中でロイドの声が聞こえる。
「本当にいいんですか」と。
3. 商人の矜持
十二の頃だったと思う。
とある星系の中継ステーションで、荷の積み下ろしを待っていた時、
テラ側の検査官が父の船に難癖をつけてきたことがあった。
「この積荷、規格書と品目が一致しない。積み直しだ」
検査官の声には、明らかに小遣い稼ぎの匂いがあった。
品目のわずかな表記違い――誰が見ても些末な話だった。
「規格書と違う、ねえ」
父は、怒るでも媚びるでもなく、ただ穏やかに笑って、
書類を検査官の前に広げた。
「じゃあ、どこがどう違うか、一つ一つ、
丁寧に教えてもらえますかね。あたしも勉強したいんで」
検査官は、しどろもどろになりながら、
それらしい理由を並べ立てようとしたが、父は静かに、
しかし一つも逃さず、その矛盾を指摘していった。
声を荒げることは一度もなかった。
ただ、退く気配も一度もなかった。
最終的に、検査官は舌打ちして立ち去った。
「なあ、シノ」
父は、書類を畳みながら、あたしに言った。
「舐められたら終わりだ。
でもな、怒鳴り返しても、それはただの喧嘩だ。
あたしらの商売は、筋を通して、
相手より賢く立ち回ってなんぼなんだよ」
「怖くなかったの、あの人」
「怖かったさ。向こうは、その気になりゃ、
荷を全部没収する力を持ってる。でもな」
父は、あたしの頭を軽く小突いた。
「自由商人ってのは、誰の下にもつかねえ代わりに、
誰も守っちゃくれねえ生き方だ。
だったら、自分で自分を守れるようにならなきゃ、
話にならねえだろ」
その時のあたしには、まだ半分も理解できていなかった。
ただ父の背中が、
いつもよりずっと大きく見えたことだけは覚えている。
4. 教えてやること
ある夜、二人で星系間の長い航路を漂っていた時、
父がふと、真面目な声で言った。
「俺たちの商売、ただの運び屋じゃねえんだ。
表の顔と、裏の顔、両方持ってる」
「裏の顔?」
「ああ。今は、まだ、詳しくは言わねえ。
だが、いつか――お前が、ヴォルテックス航路を
一人で任されるようになったら、ちゃんと教えてやる。
俺たちの商売の、本当のところをな」
その時の父の目は、いつもの飄々とした調子とは違って、
少しだけ、真剣だった。
子供心にそれが特別な約束だということだけは分かった。
「一人で任されたら?」
「ああ。
それまでは、ロイドの言うこと、ちゃんと聞いとけ。
基礎ができてねえ奴に、裏の話なんかしても、宝の持ち腐れだ」
あたしは、その約束の中身が何なのか、
ずっと分からないまま、大人になっていった。
ただ、いつか父が教えてくれる「本当のところ」を
楽しみにしていたことだけは、はっきり覚えている。
5. 宇宙商業高校へ
十五になる年、あたしは宇宙商業高校への進学を決めた。
父の跡を継ぐなら、感覚と度胸だけじゃなく、
ちゃんとした知識と資格もいる。
父もロイドも、それに賛成してくれた。
「勉強なんか、俺は大嫌いだったけどな」
父は笑いながらそう言ったが、
入学の日、誰よりも嬉しそうな顔をしていたのを、
あたしは覚えている。
寮生活は、正直、性に合わなかった。
座学の授業――星系間法規や貿易条約の暗記なんかは、
聞いてるだけで眠くなる。
隣の席の生徒が、几帳面にノートを取っているのを横目に、
あたしはいつも窓の外、発着する練習船を眺めていた。
「ウラガさん、また上の空ですか」
教官に呆れられるのも、一度や二度じゃなかった。
だが、実技になると、話は別だった。
操縦シミュレーターでは、誰よりも早く課題をこなし、
複雑な航法計算の実習でも、頭で理屈をこねる前に、
手と勘が先に動いた。
ロイドに叩き込まれた基礎が、
こんな形で身についていたのかと、自分でも驚いたくらいだった。
「理屈は苦手そうなのに、
なんで実技だけそんなに飛び抜けてるんだよ」
同室の生徒に、半ば呆れたように聞かれたことがある。
「さあね。船の上で育ったから、体が覚えてんじゃねえの」
適当に笑って誤魔化したが、
内心では、父とロイド、二人分の教えが、
自分の中でちゃんと根を張っているのだと、
少し誇らしかった。
休みのたびに船に戻ると、父は必ず新しい航路の話や、
どこそこの星系で美味かった飯の話を聞かせてくれた。
ロイドは相変わらず、帳簿のつけ方や、
荷主との交渉の呼吸を、根気強く教え続けてくれた。
「お前が卒業する頃には、ヴォルテックス航路、
本格的に任せてやるからな」
その言葉をあたしはずっと当たり前のことのように聞いていた。
まさか、その約束の先に、あんな結末が待っているなんて、
この頃はまだ、欠片も想像していなかった。




