私が好きな冒険者の話
冒険者なんて、ろくな仕事じゃない。
ドゥガおじさんは、酒臭い息を吐きながら、会うたびにそう言っていた。
ドゥガおじさんは、革と酒の匂いがした。
馬の匂い。
焚き火の煙。
雨に濡れた革鎧。
季節が変わる頃、その匂いが村にやって来る。
山道を越えてやってくる荷馬車には、塩、小麦、干し肉、薬草、布なんかが積まれていた。
山と畑しかないこの村にとって、行商隊は外の世界そのものだった。
春の雪解け。
夏前の湿った風。
葡萄の収穫が終わる頃。
冬支度を始める冷たい季節。
季節が巡るたび、私は村の入口を見に行った。
そして荷馬車より先に、護衛の男を探した。
「ドゥガおじさん!」
村の入口まで駆けていくと、馬の手綱を引いていた大男が顔をしかめる。
「うるせえなミーナ。耳元で叫ぶな」
「なんか面白いもの持ってきた?」
「挨拶より先にそれかよ」
ドゥガおじさんは呆れた顔をしながら、腰袋を漁る。
出てきたのは、干からびた赤い果実だった。
「うわ、なにこれ」
「南のほうの果物だ。辛えぞ」
「果物なのに?」
「食ってみろ」
恐る恐る齧った瞬間、私は飛び上がった。
「からっ!? 痛っ!? なにこれ!?」
「ははっ、馬鹿だなお前」
ドゥガおじさんは腹を揺らして笑った。
潰れた鼻。
無精髭。
分厚い革鎧。
右手には古い火傷の痕。
革鎧には、獣の爪みたいな傷が何本も走っていた。
強そうというより、くたびれたおじさんだった。
しかも酒癖が悪い。
酔うとすぐ同じ話をするし、機嫌が悪い日は返事も適当だった。
「またその話?」
「いいんだよ。二回目のほうが面白ぇから」
「前も聞いた」
「じゃあ三回目だな」
そんな適当なおじさんだった。
でも私は、ドゥガおじさんが好きだった。
次の行商隊が来るまでの間、私はずっと外の世界を想像していた。
山の向こう。
知らない街。
知らない匂い。
知らない空。
この村で見る空より、もっと広い空がどこかにあるのだと思っていた。
季節が変わる頃になると、落ち着かなくなる。
村の入口を見に行っては、まだか、と空を見上げた。
仕事終わり、葡萄酒蔵の裏で話を聞く時間が好きだった。
樽の隙間に座り込み、葡萄を潰して紫になった手を拭きながら、私は何度も質問した。
「ねえ、海って本当に端が見えないの?」
「見えねえな」
「嘘だ」
「ほんとだよ。水が馬鹿みてえに続いてる」
「何が面白いのそれ」
「見りゃわかる」
そう言う時のおじさんは、少しだけ楽しそうだった。
私は、あの顔が好きだった。
魔物の話も好きだった。
角の生えた熊。
人間を真似して笑う化け物。
夜中に森を歩く巨大な鹿。
「で、その熊ってどれくらい大きかった?」
「お前三人分」
「嘘だ」
「盛った」
「なんだそれ!」
くだらない話で笑っている時間が、たまらなく好きだった。
けれど、ドゥガおじさんは時々途中で黙り込んだ。
「それで、その魔物どうしたの?」
焚き火の向こうで、おじさんは酒瓶を傾ける。
「……倒したよ」
「強かった?」
「まあな」
「怪我した?」
ドゥガおじさんは、しばらく黙っていた。
焚き火が、ぱちりと鳴る。
「……昔の話だ」
その声は、少しだけ疲れていた。
もっと聞きたかった。
もっと外の世界を知りたかった。
私は、多分。
おじさんが思っていたより、ずっと前から冒険者になりたかった。
村は嫌いじゃなかった。
でも、好きでもなかった。
毎日同じ景色で。
同じ顔ぶれで。
大人になれば畑を耕して、結婚して、年を取っていく。
その先が、全部見えてしまう気がしていた。
だから。
ドゥガおじさんの話だけが、世界の匂いがした。
だから何度も言った。
「私、大人になったら冒険者になる」
するとドゥガおじさんは、決まって嫌そうな顔をする。
「やめとけ」
「なんでさ」
「ろくな仕事じゃねえ」
「でもおじさん、冒険者じゃん」
ドゥガおじさんは、しばらく黙っていた。
焚き火が、ぱちりと鳴る。
「……まあな」
低い声だった。
「そんなに嫌なら、やめればいいのに」
おじさんは、一瞬だけ変な顔をした。
笑ったような。
困ったような。
「ガキにはわかんねえよ」
そう言って酒を飲む。
そして珍しく、ぽつりと呟いた。
「歳食ったらさ。暖かい街で、昼から酒飲んで暮らしたい」
「なにそれ」
「最高だろ」
「だらけてるだけじゃん」
「それがいいんだよ」
その時のおじさんは、本当に少しだけ嬉しそうだった。
その意味を、あの頃の私は考えもしなかった。
どうせまた適当なことを言ってるのだと思っていた。
次の瞬間には、おじさんはいつもの調子に戻る。
「お前は村で葡萄踏んでるほうが向いてる」
「やだよ」
「じゃあ嫁にでも行け」
「もっとやだ」
「わがままなガキだな」
そう言って、おじさんは乱暴に私の頭を撫でた。
その手は、大きくて硬かった。
荷馬車が村を出る日、私はいつも見送りに行った。
遠ざかる背中を見るたび、胸の奥が苦しくなった。
ドゥガおじさんは、その世界を知っている。
それがたまらなく羨ましかった。
ある冬前の別れ際。
吐く息が白くなる寒さの中、おじさんは馬の手綱を握っていた。
「次来る頃には、お前も酒飲める歳か」
「もう飲んでるし」
「違法だろ、それ」
「ちょっとだけだもん」
おじさんは呆れたように笑ったあと、不意に目を細めた。
「……まあ、元気ならそれでいい」
「?」
「なんでもねえよ」
冷たい風が吹く。
馬と革の匂いが、冬の空気に混ざっていた。
荷馬車の幌が、ばさりと鳴った。
その時の顔を、少しだけ不思議に思った。
でも、すぐ忘れた。
雪が溶ける頃には、また会えると思っていたから。
――そして、私は大人になった。
成人祝いの日。
村では朝から酒樽が開けられ、広場には肉の焼ける匂いが漂っていた。
浮かれる村人たちを横目に、私は村の入口を見続けていた。
昼過ぎになって、ようやく行商隊が現れる。
だが。
馬車の横に、ドゥガおじさんの姿はなかった。
胸の奥が、妙に冷えた。
駆け出す。
「ドゥガおじさんは?」
行商人のおじさんは、すぐには答えなかった。
代わりに、小さな包みを差し出す。
嫌な予感がした。
包みの中には、短剣が入っていた。
擦り切れた革の柄。
無数の傷がついた鞘。
見間違えるはずがない。
いつもドゥガおじさんが腰に下げていた短剣だった。
その下に、一通の手紙。
震える指で封を切る。
『ミーナへ』
見慣れた、乱暴な字だった。
成人祝いの言葉が少し。
酒はほどほどにしろ、とか。
無茶するな、とか。
らしくもないことが並んでいた。
そして、そのあとに。
一人の冒険者の話が書かれていた。
吹雪の山村へ向かった時には、もう全部終わっていたこと。
崩れた家の梁の下から、小さな手だけが見えていたこと。
遺跡の崩落で、仲間の声が途中で聞こえなくなったこと。
助けると約束した子供に、間に合わなかったこと。
冒険者は、多くの場所へ行った。
多くの人と出会った。
けれど。
何一つ、救えなかった。
最後のほうは、文字が少し乱れていた。
『だから、お前は冒険者になるな』
そこまで読んで。
ようやく理解した。
おじさんが聞かせてくれた冒険譚は、英雄の話じゃなかった。
救えなかった人たちの話だったのだ。
焚き火を見ながら黙り込んでいた理由も。
あのため息も。
「冒険者になるな」という言葉も。
全部、本気だった。
ふと、最後に交わした会話を思い出す。
『……まあ、元気ならそれでいい』
あの時のおじさんは、何を思っていたのだろう。
もう帰ってこないつもりだったのか。
それとも。
帰れない気がしていたのか。
手紙を持つ指に力が入る。
もう二度と、あの大きな手で頭を撫でられることはない。
そう思った瞬間。
急に息が苦しくなった。
なんで短剣なんか寄越すんだ。
本人が持って帰ってくればよかっただろ。
村では、まだ誰かが笑っていた。
祝宴の音が遠く聞こえる。
けれど、その場から動けなかった。
「……馬鹿だなあ」
思わず、そんな言葉が漏れた。
嫌だ嫌だって、あんなに言っていたくせに。
冒険者なんて、ろくな仕事じゃないって。
それなのに。
おじさんは、話をする時だけ、少し楽しそうだった。
きっと好きだったのだ。
苦しくても。
後悔していても。
それでも旅を続けてしまうくらいには。
暖かい街で昼から酒を飲む。
そんな小さな夢さえ、叶わないくらいには。
『お前は、多分なるんだろうな』
手紙の最後には、小さくそう書き足されていた。
ずるい、と思った。
止めるなら。
最後まで止めてくれればよかったのに。
手紙を握り締めたまま、私はしばらく泣いた。
本当に、ろくな仕事じゃなかった。
私はきっと、まだ何もわかっていない。
それでも。
あの人が見た景色を、見てみたかった。
今日は、私が冒険者になった日だ。




