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第8話:記録の残像、忘却の侵入者

第8話:記録の残像、忘却の侵入者


佐藤健一の脳は、彼自身の意思とは無関係に、外界のすべてを0.1ミリの狂いもなくスキャンし続ける。

高田邸の玄関のタイルの目地、雷斗が愛用するモンブランの万年筆の傷、るかが隠した模試の結果のシワ――。それらは健一の脳内で鮮明な画像イメージとして保存され、色褪せることはない。

しかし、健一にとって、それらの膨大なデータは「脳内にあるだけ」では不完全だった。

彼は毎日、深夜にボロアパートへ戻ると、まるで聖典を書き写す修道士のように、その日の映像を文字へと変換する。サヴァン症候群特有の、対象に没没しすぎる危うい集中力。ペンが紙を削る音だけが響く四畳半で、彼は高田家のすべてをノートという物理的な実体に定着させていく。

「これで、僕がこの家を支配できる」

机の上に積み上がったノートは、一冊ごとに高田家の「攻略本」となっていた。

姉の美咲はそのノートを読み込み、家の構造を「佐藤家のための迷宮」へと作り替え、父・誠は雷斗の弱点を、母・よし江はかよ夫人の孤独を、そのノートから学び取って利用した。

佐藤家にとって、このノートは「寄生の聖書」だったのだ。


ある夜、異変は起きた。

健一は、半年前の記録を確認しようと、押し入れの段ボール箱からノートの束を取り出した。

一冊、二冊……。指先で背表紙を数えていく健一の動きが、唐突に止まる。

「……ない」

14冊目。

半年前、高梨彰人(たかなしあきと)が留学に立つ直前の、最も重要な一ヶ月間を記録したノートが、忽然と消えていた。

健一の脳内には、そのノートの表紙の傷、使ったペンのインクの滲み、すべてが映像として残っている。だからこそ、今目の前にある空間の「欠落」が、彼には耐え難い空白として襲いかかった。

「姉ちゃん、14冊目を知らないか? 茶色の表紙で、角が少し潰れたやつだ」

リビングで模型を弄っていた美咲が、怪訝そうに振り返った。

「知らないわよ。あんたのノートなんて、誰も触りたがらないわ。……でも、そういえば、お母さんが言ってたわね。最近、アパートの廊下に見慣れない男が立っていた気がするって」

健一の背筋に、冷たい氷の柱が差し込まれたような感覚が走った。

このボロアパートに、誰かが入った。

鍵を壊した形跡はない。だが、侵入者は健一が最も大切にしていた「記録アイデンティティ」を、一冊だけ正確に抜き取っていったのだ。


その時、健一のスマートフォンが震えた。

表示された名前は**「高梨彰人」**。

留学先のアメリカにいるはずの、かつての親友。そして、自分をこの高田邸へ誘い込んだ張本人。

『健一、久しぶり。ノート、興味深く読ませてもらったよ』

受話器の向こうから聞こえる高梨の声は、ノイズが混じり、ひどく遠くに感じられた。

「……高梨、お前なのか。僕の部屋に入ったのは」

『入ったのは僕じゃない。でも、中身は知っている。君の記憶力は相変わらず素晴らしいね。……でもね、健一。サヴァンの脳は完璧に見えて、実は脆いんだ。君のノートの145ページ。あの日、地下室の扉を開けたのは、僕じゃないって書いたかな?』

健一の脳内で、記憶の映像が激しくフラッシュバックした。

半年前。高梨が留学の挨拶に来た日。地下室の扉がわずかに開き、高梨がその取っ手に手をかけていた……はずだった。

しかし、高梨にそう指摘された瞬間、健一の脳内の映像が「砂嵐」のように乱れ始めた。

(違う。高梨はあの時、庭にいたはずだ。……いや、待て。扉の前にいたのは、誰だ?)

記録を絶対的な真実としてきた健一にとって、記憶の矛盾は「世界の崩壊」と同義だった。

もし、自分の「記録」が、誰かの手によって書き換えられた偽物だとしたら。

自分たちが進めてきた「寄生」という完璧なシナリオ自体が、最初から何者かの掌の上で踊らされていたものだとしたら。


翌日、健一は動揺を隠して高田邸へ向かった。

映像記憶を駆使して、家の中のわずかな変化を探す。

雷斗は父・誠が運転する車でゴルフへ向かい、かよ夫人は母・よし江が淹れたハーブティーを飲みながら、美咲が変えた照明の下で虚ろな瞳をしている。

表面上は、佐藤家の支配は完璧に見えた。

しかし、健一は気づいてしまった。

リビングの隅、るかがいつも座るソファの裏。

そこに、自分たちが仕掛けたものとは違う、**「超小型の録音機」**が設置されている。

それは、健一の記憶にある昨日のデータには存在しなかったものだ。

「先生、何か探し物?」

背後から、るかの冷ややかな声がした。

彼女は健一のノートを真似たような、小さな手帳を手にしていた。

「パパの会社の人かな。最近、変な男が家の周りをうろついてるんだよね。……あ、そういえば山岡さん。クビになった後、すごく怒ってたみたいだよ」

クビになったドライバー、山岡。

あるいは、腰を痛めて辞めた家政婦、近藤さん。

自分たちが追い出した者たちが、外側で手を組み、逆襲を始めているのか?


その日の夜、健一は独りで地下室のさらに奥、美咲が改造した壁の隙間へと潜り込んだ。

そこは高田邸の図面にはない、佐藤家だけのプライベート空間のはずだった。

しかし、その暗闇の中で、健一は「あるもの」を見つける。

それは、盗まれたはずの14冊目のノートだった。

なぜ、ここにあるのか。アパートから盗まれたノートが、なぜ高田邸の隠し通路に置かれているのか。

震える手でノートを開く。

そこには、健一自身の筆跡ではない文字で、追記がなされていた。

『佐藤健一へ。この家には、君たち家族以外に、もう一家族、住んでいる。』

健一の映像記憶が、高田邸の「余白」を再スキャンし始める。

美咲が広げた通気口、父が掌握した車庫の奥、母が管理するパントリーの裏。

自分たちが広げた「侵入経路」は、同時に、**別の誰かがこの家に入り込むための「回廊」**になっていたのだ。

佐藤家という「寄生虫」は、自分たちが宿主だと思っていた高田家の中に、別の寄生虫が存在していることに、ようやく気づいた。

そしてその「第三の家族」を招き入れたのは、他ならぬ、健一が記録を過信し、美咲が空間を歪めた結果だった。

「……姉ちゃん。この家、僕たちのものじゃない」

暗闇の中で健一が呟いた時、頭上の通気口から、誰かの忍び笑いが聞こえた。

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