表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
アンダーグラウンドの聖域  作者: 水前寺鯉太郎


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

3/16

第3話:後部座席の落とし物

第3話:後部座席の落とし物


その日の午後は、まるで世界の終わりを告げるかのように、天の底が抜けたような土砂降りだった。

高田邸の広大なリビング。天井から吊るされたクリスタルのシャンデリアが、鈍い灰色の外光を乱反射させている。その下で、長男・豊にクレヨンの持ち方を教えていた佐藤美咲は、窓を叩く激しい雨音を聞きながら、心臓の鼓動が早まるのを感じていた。

彼女にとって、この家での「仕事」が終わる時間は、単なる退勤時間ではない。地下室という「聖域」への、秘密裏の帰宅時間でもある。弟の健一が、数週間に及ぶ緻密な観察で導き出した、家族の視線が途切れるわずか10分間の空白。その隙を突いて、彼女は「表の講師」から「裏の潜伏者」へと姿を変え、地下への隠し扉へと滑り込む手はずになっていた。

「あら、美咲先生。この雨、当分止みそうにないわよ。駅まで行くのも一苦労ね」

背後から、夫人のかよが優雅な足取りで近づいてきた。その手には、お気に入りのウェッジウッドのカップ。美咲は反射的に完璧な愛想笑いを張り付け、顔に滲み出そうになる焦燥を押し殺した。

「大丈夫です、夫人。これくらい、駅まで走ればすぐですから」

「ダメよ、そんなの。美咲先生に風邪でも引かれたら、明日から豊が悲しむわ」

かよは小首を傾げ、さも当然のことのように付け加えた。

「主人の専属運転手に命じて、お宅まで送らせるわね。……ちょうど車を回させているところだから。遠慮しないで。これも福利厚生の一環だと思ってちょうだい」

美咲の背中に、氷のような冷たい汗がひと筋流れた。

送らせる? どこへ?

佐藤家の本当の住所は、ここから電車で1時間を要する、西成の端にあるようなボロアパートだ。しかし、彼女の本体は今、この豪華な大理石の床からわずか数メートル下に存在している。

「……ありがとうございます。では、お言葉に甘えて。ただ、この後近くのコンビニで友人と待ち合わせているので、そこの角で降ろしていただければ十分です」

咄嗟に吐いた嘘は、雨音の中に溶けて消えた。美咲は豪邸の重厚な車寄せに横付けされた漆黒のセダン、レクサスLSへと乗り込んだ。


車内は、外界の豪雨が嘘のような静寂に包まれていた。

運転席に座る山岡は、バックミラー越しに視線を合わせることも、会釈をすることもない。ただ、機械のように正確にハンドルを握る、職人気質の無口な男だった。美咲はその沈黙に、かえって威圧感を覚えた。

(早く降りなきゃ。一刻も早く……)

美咲は後部座席の深いレザーに身を沈めながら、膝の上のバッグを整理しようとした。地下室の限られた設備でこっそり洗濯し、乾燥機で乾かしたばかりの家族の衣類が、小さなカバンに無理やり詰め込まれていた。その中には、母のもの、自分のもの、そして健一の替えのシャツまでが、幾何学的なパズルのように押し込まれている。

その時、レクサスが突風に煽られ、大きく車体を揺らした。

「……っ!」

不意の衝撃で、バッグのジッパーが滑り落ちる。中身が、音もなくシートの上へ雪崩れ落ちた。美咲は悲鳴を上げそうになる口を抑え、暗い車内で必死に荷物を拾い集めた。

雨雲のせいで車内は夕方のように暗い。山岡に気づかれないよう、ルームライトを点けるわけにはいかない。手探りで、布の感触を頼りに荷物をカバンへ戻していく。

「お客様、お足元は大丈夫ですか?」

山岡が平坦な声で尋ねた。

「あ、はい! 全然、なんでもありません!」

美咲の声が上ずった。彼女は気づかなかった。荷物をかき集めた際、一番奥に押し込んでいた予備の「白い布」が、座席のクッションとフロアマットの隙間、ちょうど助手席のシートレールの奥深くへと、滑り落ちていたことに。

それは、繊細なレースがあしらわれた、彼女自身の予備の下着パンツだった。

車が目的地に近づく。美咲はパニックに近い状態で、自分の足元を爪先で探った。しかし、指先に触れたのは冷たい金属のレールだけだった。

「佐藤先生、コンビニ前です。そちらの角でよろしいですか?」

山岡の声。美咲は飛び上がった。

「はい! そこで、そこで結構です! ありがとうございました!」

彼女は逃げるように車を降りた。傘も差さずに雨の中を駆け抜け、コンビニの角を曲がる。数分後、全身をずぶ濡れにしながら、高田邸の死角にある通用口から地下室へと「帰還」した美咲は、自分の失態の大きさにまだ気づいていなかった。

(明日……明日、豊君の授業に来た時に、何かの拍子に車を見せてもらうふりをして回収すればいい。山岡さんは潔癖そうだし、仕事が終わればすぐにガレージに入れるはず……)

その楽観が、致命的な亀裂を生むことになった。


翌朝。美咲の淡い期待は、高田家の主人・雷斗の突然の気まぐれによって、無残に打ち砕かれた。

「山岡、今日は私が後ろに乗る。昨夜送られてきたコンペの資料を、車内で確認したい。ゴルフ場への出発を30分早めろ」

雷斗は、一分一秒の無駄も許さない合理主義者であり、同時に異常なまでの潔癖症だった。彼にとって、レクサスの後部座席は移動する書斎であり、塵一つ落ちていることを許さない「聖域」だった。

雷斗は車に乗り込み、膝の上にタブレットを広げた。老眼鏡をかけようとして、ふと視線を落とした先——助手席のシートレールの隙間に、場違いな「白」が挟まっているのが目に入った。

雷斗は眉をひそめ、タブレットを置いた。彼は、自分の設計する建築物においても、建材の継ぎ目にミリ単位のズレがあるだけで激昂する男だ。

彼は二本の指をピンセットのように使い、その物体をゆっくりとつまみ上げた。

それは、昨夜美咲が落とした、白いレースの下着だった。

車内の温度が、一瞬で氷点下まで下がった。雷斗の顔から血の気が引き、次に内側から沸騰するような怒りが、その端正な顔を歪めた。

「……山岡。車を止めろ」

地を這うような冷徹な声。山岡は怪訝そうに、路肩に車を停車させた。

「旦那様、何かございましたか?」

「これは何だ。説明しろ」

雷斗は、指先からぶら下がる「証拠」を、山岡の鼻先に突きつけた。山岡は絶句した。バックミラーに映る自分の顔が、一瞬で青褪めるのがわかった。

「……い、いえ。私には、全く心当たりがございません」

「心当たりがない? この車は、私の許可なく他人が乗ることを禁じているはずだ。それとも何だ、お前は私の留守中、この聖域をラブホテル代わりに使ったのか? あるいは、私の妻が、こんな……下品な遺失物に関わっているとでも言いたいのか!」

雷斗の怒りは、単なる不潔さへの嫌悪ではなかった。それは「自分の支配下にある空間を汚された」という、独裁者特有のプライドへの侵害に対する激昂だった。

「いえ! 滅相もございません! 昨夜、奥様のご指示で、豊様の講師である佐藤先生をお送りした以外は、誰一人として——」

「佐藤先生だと?」

雷斗の目が鋭く光った。

「あの子は、私が自ら面接し、その知性と品性を認めて採用した女性だ。そんな彼女が、車内に下着を忘れていくなどという、三流ドラマのような嘘が通用すると思っているのか! 自分の不始末を、あのような潔癖な女性になすりつけるとは……山岡、お前には失望した」

雷斗にとって、美咲は「自分の眼力が正しいことの証明」であった。それゆえに、彼女を疑うことは自分自身を否定することになる。逆に、格下の使用人である山岡が「嘘をついている」と決めつける方が、彼にとっての論理ロジックは美しく完結した。

「クビだ、山岡。今すぐ車を降りろ。二度とその汚らわしい顔を見せるな」

「旦那様、誤解です! 私は本当に、天地神明に誓って——!」

「黙れ! 私の空間から出て行け!」

豪雨の後の湿った空気の中、山岡はレクサスの傍らに放り出された。


その修羅場を、地下室のモニター越しに凝視している男がいた。

佐藤健一だ。

彼は、雷斗が設置した最新の防犯カメラシステムを数日かけてハッキングし、家中の映像と音声を地下の端末で共有することに成功していた。

「……姉ちゃん、なんてことをしてくれたんだ」

健一は震える声で呟いた。隣で、美咲が顔を両手で覆い、ガタガタと震えている。

「ごめん、健一。本当にごめん……。あんなところに落ちるなんて。でも、まさか雷斗さんがあんなに怒るなんて思わなかったの」

しかし、健一はそれ以上、姉を責めることはしなかった。

彼の映像記憶の中で、先ほどの「怒鳴り合い」のシーンが、スローモーションで再生される。雷斗の表情の歪み。山岡の絶望。そして、雷斗が下着を忌々しそうにゴミ箱へ捨て、消毒スプレーを座席に大量に噴射する姿。

健一の瞳に、鋭い、狂気じみた計算の光が宿った。

「……いや、いいかもしれない。これは、チャンスだ」

健一は、使い古された大学ノートを開き、猛烈な勢いでペンを走らせた。

「山岡さんは、高田家の秘密の多くを握る口の堅い運転手だった。その彼が消えれば、高田家は回らなくなる。雷斗さんは今、極度の人間不信に陥っている。他人は信じられない。だが、自分の身元管理が必要な運転手は、絶対に必要だ」

健一は地下室の奥、ボロボロのパイプ椅子に座って古い新聞を読んでいた父・誠を振り返った。

誠は、かつて大手タクシー会社で20年間無事故無違反を貫いた「運転のプロ」だった。しかし、不況の煽りと、知人の連帯保証人になった不運が重なり、職を失い、自尊心を失い、この地下に潜むしかなくなった男だ。

「父さん。アイロンをかけた、一番いい白シャツを着て。……明日、僕の紹介で『ベテランの運転手』として、雷斗さんの前に立ってもらう」

「健一、何を言ってるんだ。俺がそんな……あんな恐ろしい人の前に……」

「大丈夫だ、父さん。雷斗さんは今、他人を信じられない状態にある。だからこそ、『身元がはっきりした、信頼している家庭教師の父親』という属性を持つ人間なら、彼は疑うことさえしない。むしろ、幸運だと思い込むはずだ」

健一はモニターに映る、怒りで肩を震わせる雷斗の姿を指差し、不敵に微笑んだ。

「姉ちゃんが落としたパンツ一枚で、僕たちの寄生先は地下室から『運転席』まで広がったんだ。父さん、この家のハンドルを握ってくれ。ハンドルを握るということは、彼らの『行く先』と『秘密』を、すべて僕たちの手に収めるということだ」

窓のない地下室には、外の晴天は届かない。

しかし、佐藤健一の脳内には、高田邸という「城」の心臓部へと深く根を伸ばしていく、佐藤家の漆黒の系図が鮮明に描き出されていた。

物語の第2章。地下の寄生虫は、今、一族を連れて地上の「運転席」へと這い上がり始めた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ