表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
アンダーグラウンドの聖域  作者: 水前寺鯉太郎


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

2/16

第2話:招かれざる「共生者」

第2話:招かれざる「共生者」


「佐藤先生、ちょっといいかしら」

るかとの指導を終え、いつものように控えめな一礼をして辞去しようとした健一を、夫人のかよが呼び止めた。

リビングに足を踏み入れると、天井高5メートルを超える開放的な空間が健一を迎える。イタリア製の最高級ソファに深く腰掛けた彼女は、どこか手持ち無沙汰そうに、カップの中で揺れる琥珀色のハーブティーを眺めていた。

「実はね、下の息子の豊のことなんだけど。あの子、最近絵を描くことに夢中なの。でも、私が教えるわけにもいかないし、変な絵画教室に入れて、あの子の奔放な感性を型にはめられたくもないのよ。……どなたか、お知り合いに美大生か何かで、子供に絵を教えてくれるような方はいないかしら? 礼儀正しくて、佐藤先生みたいに信頼できる方なら最高なんだけど」

かよの言葉は、まるで「自分と同じレベルの人間」を探しているような響きを持っていた。彼女にとって、家庭教師である健一はすでに「高田家という城」の景観を乱さない、良質な調度品の一部として認められつつあったのだ。

その瞬間、健一の脳裏に、湿ったボロアパートの片隅で、狭いスペースを恨めしそうに見つめながら筆を走らせる姉・美咲の姿が浮かんだ。彼女の卓越した描写力、色彩感覚。そして何より、彼女が抱えている「外の世界」への飢餓感。

(これだ……!)

健一の思考は一瞬で未来をシミュレートした。地下室に家族を潜伏させるだけでは、万が一の際の脱出路や、地上との情報共有が途絶えるリスクがある。しかし、家族の一員を「表」の人間としてこの家に送り込むことができれば、それは最強の「斥候」となる。

「……ちょうど、僕の姉がデザイン学校に通っております。非常に真面目な性格で、以前から子供たちに教える仕事に興味を持っておりました。姉も僕と同じく、控えめな性格ですので、豊君の個性を尊重しながら、良きパートナーになれるかと思います。もしよろしければ、一度お会いになりますか?」

「あら、佐藤先生のお姉様なら安心だわ! ぜひお願いしたいわね」

かよ夫人の快諾を得た健一は、内心で快哉を叫んだ。これで「数学の家庭教師の弟」と「芸術の講師の姉」という二重のパイプが構築される。家への出入りが正当化されれば、不自然な荷物の搬入も、家族の移動も、すべて「仕事」という隠れ蓑の下で行えるようになる。


その夜、健一は自宅のアパートで、両親と姉に計画の「修正案」を提示した。

「姉ちゃんは、豊くんの絵の先生としてこの家に入る。つまり、昼間は堂々とリビングにいていいんだ。家の隅々まで観察し、夫人やるかさんの動向をリアルタイムで地下に伝える役目だ」

「でも、父さんと母さんはどうするの? ずっと地下に隠れているなんて……息が詰まるわ」

不安げな母・よし江に対し、健一は高田家の詳細な記録ノートを開いて見せた。そこには、数分刻みで記録された家族の行動パターンが、幾何学的な図形のように並んでいる。

「母さん、今の生活を見てよ。隣人の物音に怯え、パート先の店長に頭を下げ、スーパーの特売品を奪い合う。地下室には、このアパートの10倍の広さと、最高の空調がある。誰にも邪魔されず、最高のキッチンで料理ができるんだ。ただ、そこに『気配を消して存在する』だけで、僕たちは自由になれる」

タクシーの深夜勤務で疲れ果て、顔に深い皺を刻んだ父・誠が、重い口を開いた。

「……そんなことが、本当に可能なのか? 泥棒と同じじゃないか。俺は、ハンドルを握って生きてきた男だ。そんなコソコソした真似は……」

「泥棒じゃない。これは『空間の最適化』だよ、父さん」

健一の言葉には、取り憑かれたような説得力があった。

「高田雷斗は、あの豪華な地下室を一度も使わずに、ただのプライドとして所有しているだけだ。一方で僕たちは、人間らしい生活を送る場所を切実に必要としている。これは、余っている富を必要な場所に移動させるだけのことなんだ。誰にも迷惑はかけない。ただ、彼らの『不在』という隙間に、僕たちが静かに滑り込むだけなんだよ」

映像記憶によって再現される「黄金色に輝く地下室」のビジョン。その甘美な誘惑に、長年の貧しさに喘ぎ、尊厳を削り取られてきた家族の心は、ゆっくりと、しかし確実に侵食されていった。


そして訪れた、雷斗の出張初日の夜。

高級住宅街の静寂を、父・誠が運転する個人タクシーが音もなく滑るように進む。タクシーという存在は、この界隈ではもっとも目立たない風景の一つだ。後部座席には、必要最低限の荷物をまとめた母と美咲が、息を潜めて座っていた。

「監視カメラの死角は、門から左に3メートル。センサーの首振りの周期は12秒。僕がスマホから家庭用Wi-Fiを一時的に妨害して、センサーの反応を遅延させる。その30秒の間に、通用口へ滑り込んで」

健一の指示は、軍事作戦のように正確だった。彼はすでに、高田邸の防犯システムの脆弱性を、数週間の観察ですべてノートに書き出していた。

暗闇に紛れ、四人は高田邸の敷地内へと吸い込んだ。健一の手には、美咲がデザイン学校の工具を駆使して自作した「特殊な鍵」が握られている。それは、以前健一が数秒だけ手にしたマスターキーの形状を、完璧な映像記憶から再現したものだった。

カチリ、という小さな音と共に、あの重厚なオーク材の扉が開いた。

一行を包み込んだのは、冷たく、しかし凛として清潔な空気だった。アパートの、あの重く湿ったカビの匂いとは正反対の、乾いた「富」の匂い。

足元には毛足の長いペルシャ絨毯。壁にはル・コルビュジエを彷彿とさせる洗練されたライン。最新式のキッチンには、触れるだけで温度が変わるIHヒーター。

「……ここが、私たちの新しい家?」

母・よし江が震える声で呟き、夢遊病者のように大理石のカウンターに触れた。

「ああ。今日からここが、僕たちの聖域だ」

健一は、家族を地下室に落ち着かせると、深い安堵の溜息をついた。

計画は完璧だった。雷斗は地方、かよ夫人は京都。家には、受験勉強で自室に引きこもるるかと、子供部屋で眠る豊。そして、地下に潜む佐藤家の四人。地上と地下、物理的にはわずか数十センチの隔たりしかない二つの家族が、交わることなく共生する「奇妙な秩序」が完成したはずだった。


しかし。

健一の、あらゆる音を聞き分ける鋭い耳が、階上の廊下から響く「異音」を捉えた。

トントン、トントン……。

階段を下りてくる、小さく軽い足音。

健一は心臓が口から飛び出しそうな衝撃を受け、家族に猛烈な勢いで「静かに!」とジェスチャーを送った。母は口を抑え、父は身を硬くして影に潜む。

扉の隙間から、細い光が差し込む。

そこには、パジャマ姿で古いテディベアを抱えた豊が立っていた。彼は、普段は決して開くことのない地下への扉が、わずかに開いていることに、子供特有の鋭敏な感覚で気づいたようだった。

「……だれか、いるの?」

豊の無垢な声が、地下室の静寂を無慈悲に切り裂いた。

健一は暗闇の中で息を止めた。脳内の記録ノートを高速でめくる。

(計算外だ。豊君は一度眠れば朝まで起きないはずだ。なぜ? 今日がキャンプ気分で興奮していたからか? それとも……)

「ねえ、お姉ちゃん? 絵のせんせい……?」

豊の足音が、一段、また一段と地下へ向かって下りてくる。暗闇に目が慣れていない豊にはまだ家族の姿は見えていない。だが、あと五段下りれば、そこには佐藤誠とよし江が立ち尽くしている。

その時、さらに絶望的な音が重なった。二階の廊下から、るかの気配が近づいてきたのだ。

「豊? こんな夜中にどこ行ってるの? パパの隠れ家は入っちゃダメって言われてるでしょ」

るかが持つスマートフォンのライトが、サーチライトのように廊下を照らし、地下への階段を舐めるように動いた。

逃げ場のない地下室。背後には、恐怖で凍りついた家族。

目の前には、好奇心に満ちた幼い瞳。

そして背後からは、すべてを暴き出す少女の光。

健一は、激しく脈打つ鼓動を鎮め、狂ったように思考の海へ潜った。

(豊君に姿を見られた瞬間に終わる。るかさんに気づかれた瞬間に破滅する。どうする? どんな『物語』を提示すれば、この状況を上書きできる?)

健一は、闇の中で一歩前へ踏み出した。彼の映像記憶の中にある、るかと豊の「ある共通の弱点」を突くための、もっとも大胆で、もっとも危険な賭けに出るために。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ