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第3話:後部座席の落とし物

第3話:後部座席の落とし物


その日の午後は、天の底が抜けたような土砂降りだった。

高田邸の広大なリビングで、長男・豊にクレヨンの持ち方を教えていた佐藤美咲は、窓を叩く激しい雨音を聞きながら、焦燥感に駆られていた。

彼女にとって、この家での「仕事」が終わる時間は、地下室という「聖域」への帰宅時間でもある。弟の健一が計算し尽くした、家族が顔を合わせないわずか10分の空白時間を突いて、彼女は地下へ滑り込む手はずになっていた。

「あら、美咲先生。この雨じゃタクシーも捕まらないわよ」

夫人のかよが、心配そうに声をかけてきた。美咲は愛想笑いを浮かべ、「大丈夫です、駅まで走りますから」と固辞したが、夫人は首を振った。

「ダメよ、風邪でも引かれたら豊が悲しむわ。主人の専属運転手に命じて、お宅まで送らせるわね。……遠慮しないで」

美咲の背中に冷たい汗が流れた。

送らせる? どこへ?

本当の住所は、ここから電車で1時間のボロアパートだ。しかし、彼女は今、この家の真下に住んでいる。

「……すみません、ありがとうございます。では、近くのコンビニまでお願いできますか。そこで友人と待ち合わせているので」

咄嗟に嘘を吐き、美咲は豪邸の車寄せに横付けされた漆黒のセダン、レクサスLSへと乗り込んだ。


車内は静寂に包まれていた。運転手の山岡は、バックミラー越しに視線を合わせることもない、職人気質の無口な男だった。

美咲は後部座席の深いレザーに身を沈めながら、バッグの中を整理しようとした。地下室で洗濯したばかりの衣類が、小さなカバンに無理やり詰め込まれていた。

その時、車が激しい雨風に煽られて大きく揺れた。

カバンの口が開き、中身が雪崩れ落ちる。美咲は慌てて拾い集めたが、暗い車内では何がどこへ飛んだか判別がつかない。手探りで荷物を戻したその時、指先に薄い布の感触が触れた。

(あ……)

それは、予備として持ち歩いていた自分の下着パンツだった。

羞恥心と恐怖が同時にこみ上げる。今、これを拾い上げるところを山岡に見られたら? あるいは、ルームライトを点けて探す姿を不審に思われたら?

「佐藤先生、もうすぐコンビニですが、そちらの角でよろしいですか?」

山岡の声に、美咲は飛び上がった。

「あ、はい! そこで、そこで降ろしてください!」

パニックに陥った美咲は、足元に落ちた布きれを、無意識にフロアマットのさらに奥、助手席のシートレールとの隙間へと爪先で蹴り込んだ。

(明日……明日、豊君の授業に来た時に、何かの拍子に車を見せてもらうふりをして回収すればいい。山岡さんは潔癖そうだし、夜に車を掃除したりしないはず……)

彼女は自分に言い聞かせ、逃げるように雨の街角へと消えた。もちろん、コンビニの裏を回って、数分後には高田邸の裏口から地下室へと「帰宅」した。


翌朝。美咲の目論見は、高田家の主人・雷斗の気まぐれによって無残に打ち砕かれた。

予定していたゴルフの会食が早まり、雷斗は山岡を早朝に呼び出したのだ。

「山岡、今日は私が後ろに乗る。資料を確認したい」

「かしこまりました、旦那様」

雷斗は後部座席に乗り込み、膝の上にタブレットを広げた。ふと、彼は足元に違和感を覚えた。シートレールの隙間に、場違いな「白」が挟まっていたのだ。

雷斗は潔癖症だった。自分の城である建築物も、愛車も、髪の毛一本落ちていることを許さない。

彼は眉をひそめ、その白い物体を指先でつまみ上げた。

それは、繊細なレースがあしらわれた、明らかに若い女性の下着だった。

雷斗の顔から血の気が引き、次に沸騰するような怒りがこみ上げた。

「……山岡。車を止めろ」

冷徹な声が車内に響く。山岡は怪訝そうに路肩に停車させた。

「何かございましたか?」

雷斗は、指先からぶら下がる「証拠」を、山岡の目の前に突きつけた。

「これは何だ。説明しろ」


山岡は目を見開いた。

「……い、いえ。私には、全く心当たりが……」

「心当たりがない? 私の許可なく、この聖域に女を連れ込んだということか。それとも、私の妻がこんな趣味をしているとでも言うつもりか!」

雷斗の怒りは、単なる不潔さへの嫌悪ではなく、「自分の所有物が汚された」という支配欲への侵害に向けられていた。

「いえ! 滅相もございません! 昨夜、奥様のご指示で佐藤先生をお送りした以外は、どなたも乗せておりません!」

山岡は必死で訴えた。しかし、その言葉が火に油を注いだ。

「佐藤先生だと? あの真面目な講師が、車内に下着を忘れていくなどと、本気で思っているのか。彼女を侮辱するのも大概にしろ!」

雷斗にとって、美咲は「自分が選んだ優秀な人材」だった。その彼女を疑うことは、自分の眼力を疑うことと同義だった。逆に、使用人である山岡が嘘をつき、美咲に罪をなすりつけようとしている——そう確信したのだ。

ガレージに戻った後も、怒鳴り合いは続いた。

「クビだ、山岡! 今すぐ出て行け。二度とその顔を見せるな!」

「旦那様、誤解です! 私は潔白です!」


その様子を、地下室のモニター越しに凝視している男がいた。

主人公、健一だ。

彼は、雷斗が設置した防犯カメラの回線をハッキングし、家中の映像を地下で共有していた。

「……姉ちゃん、なんてことをしてくれたんだ」

健一は震える声で呟いた。隣で美咲が、顔を真っ青にして座り込んでいる。

「ごめん、健一。あんなところに忘れるなんて……でも、まさか雷斗さんがあんなに早く車に乗るなんて思わなかったの」

しかし、健一の瞳には、絶望ではなく、鋭い計算の光が宿っていた。

映像の中では、山岡が泣き崩れながら荷物をまとめている。雷斗は忌々しそうに、手袋をはめた手で下着をゴミ箱へ捨てた。

「……いや、いいかもしれない。これはチャンスだ」

健一はノートを開き、猛烈な勢いでペンを走らせた。

「運転手が不在になれば、高田家は回らなくなる。雷斗さんは新しい、信頼できる『口の堅い男』を求めているはずだ」

健一は地下室の奥で、古い新聞を読んでいた父の方を振り返った。

父はかつて、大手タクシー会社で20年間無事故無違反を貫いた「運転のプロ」だ。しかし今は、借金と不況で職を失い、地下に潜んでいる。

「父さん。アイロンをかけた一番いいシャツを着て。……明日、僕の紹介で『ベテランの運転手』として、雷斗さんの前に立ってもらう」

「健一、何を言ってるんだ。俺がそんな……」

「大丈夫だ。雷斗さんは今、他人を信じられない状態にある。だからこそ、『家庭教師の父親』という身元が確かな人間なら、疑いもせず飛びつくはずだ」

健一はモニターに映る雷斗の怒った顔を指差し、不敵に微笑んだ。

「姉ちゃんが落としたパンツ一枚で、僕たちの寄生先は地下から『運転席』まで広がったんだ。……次は父さんに、この家の心臓部を握ってもらうよ」

窓の外では、昨夜の雨が嘘のように晴れ渡っていた。

しかし、高田邸の足元に広がる闇は、さらに深く、確実にその根を広げ始めていた。

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