6-3 賭けの結果
「目は閉じた方がいいな」
「え、え?」
少しでも離れるのが惜しいというように、再び深迦に口づけられる。
沙蓮は夢中で深迦の背中にしがみついた。
でないと、彼の気持ちに溺れてしまいそうで。
「俺は身を引いた方がいいのかと、ずっと悩んでいた」
「……引いたりしないで」
「それはどういう意味だ?」
「えっと、その。深迦じゃなくちゃいやなの。風邪をうつすのは」
「風邪をうつすだけか?」
沙蓮は睫毛を伏せて、頬を染めた。
深迦は意地悪だ。今もまだ沙蓮の返答を待っている。沈黙が降りた舟の隠れ処に、水に浮いた舟がこつん、こつんとぶつかる音だけが響いている。
「なにもかも、深迦でなくちゃだめなの」
ようやく発した言葉に、深迦は花が咲いたような笑顔を浮かべ、沙蓮を強く抱きしめた。
「そのような表情もできるのですね」
珍しくアシアが、目を丸くした。
「とりあえず一件落着ってとこかしらね」
いつの間に現れたのか、洛花がアシアの隣に立っていた。
たしか王宮の花畑にいたはず、いやむしろなぜ藍国にいるのだろうか。
「江の身柄は図書庁で預からせてもらうわ。アシア、悪いけどこいつを砂京まで運びたいの。馬を待たせてあるから、担いで行ってもらってもいいかしら?」
「引きずることもできますが」
「うーん。それは勘弁ね」
洛花は、困ったように笑った。
「洛花さん、どうしてここに?」
「見張りよ、江のね。砂京図書館に行ったときに、深迦に頼まれたの。江、あんたね、この忙しいあたしが直々に監視してあげてたんだから。ありがたく思いなさい」
「……誰が、感謝なんか」
意識の戻った江が、縄で縛られたまま悪態をつく。洛花は笑顔のままで、江の頬をつねった。
「いててて……」
「しつけがなってないわね」
「なにすんだよ!」
「不正は勘づいてたわよ。あんた、勉強は不十分だったし。砂人優遇措置を考えても、絶対に合格基準には達していないはずだったのよ。なのに、なーんで合格しちゃうのかしら」
「ぼくは知らない。伯父さんが勝手にやったことだ」
江は口をとがらせた。
「あっそ。どっちでもいいけどね。図書庁の伯父さんがすべて吐いたのよ。さ、砂京に戻るわよ……っと、その前に」
来い来いと洛花は、沙蓮を手招きした。
沙蓮は彼女の方に進もうとしたが、深迦が腕を解いてくれない。
「あの、深迦?」
とまどいがちに問いかけると、さらに沙蓮を抱きしめる力が強くなる。
「洛花が来ればいいんだ」
「なっまいきー。深迦って、そういうところがあるわよね」
「生意気さでは、洛花には勝てない」
なんで二人は、こんな軽口をたたいているんだろう。学芸司書という同じ立場だとしても、親しさを通りこして乱暴すぎる。
「藍国が滅びて放浪していたわたくし達に、砂国で家と仕事を与えてくれたのが、図書庁の越長官だったのです」
アシアが教えてくれた。
「越長官?」
「洛花さんの父君です。歴史の浅い砂国が、この地で存続するためには、藍国の知識が必要だったのです。ですが亡国の子どもなど、いつ裏切るかしれたものではない、と越長官の目を盗んで、藍人が合格せぬように試験の基準が変更されたのです」
「じゃあ……じゃあ、深迦が寝言で洛花さんに許してほしいと言っていたのは」
「子どもの頃の夢でも見てらしたんでしょう。うちに遊びに来ていた洛花さんによく賭けで負けて、いろいろ巻き上げられていましたから。主に彼が市場で吟味に吟味を重ねて選んだスモモを奪われたことが、痛手だったようです」
「……そうだったんだ」
確かにスモモに対する執念は、普通じゃなかった。
深迦との言い合いに飽きたのか、洛花は沙蓮の元へとやってきた。
「ほら、手を出して」
言われるままに応じると、洛花は沙蓮のてのひらに硬いものを載せた。
見れば、失くしたと思っていた水晶の花の髪飾りだ。
「どこにあったんですか?」
「川の増水の時に、橋に落ちていたのよ」
「ありがとうございます。ずっと捜していたんです。よかったぁ」
「そうね。とても大事な髪飾りだわ」
ほっと息をつく沙蓮を見る、洛花の眼差しは優しい。
「沙蓮、賭けはあなたの勝ちよ。藍語の写本だけでなく、乾荒原送りも乗り越えたものね」
「でも……わたし一人の力じゃないです」
「それが分かってるなら、問題ないわよ。そうそう、スモモ酒はちゃんとおごるのよ。あの日、深迦はちゃんと来たでしょ」
「はい」
「さて、前代未聞だけど合否の判定が覆るわね。宋江は資格を剥奪。三人目の学芸司書は、天青沙蓮。あー、これは周りへの説明が大変だわ」
「ま、待ってください。わたし、この『紅水河生水』は提出できません。藍人が守り抜いた文献を、利用したくないんです」
必死に訴えると、洛花は沙蓮の頬を指で小突いた。
「それは、あんた達が保管しなさい。ちょうどアシアもいるから、防犯上も問題ないでしょ」
さぁ、行くわよ。と江を足で小突いて、洛花は歩きだした。
(ここに図書庁のお偉方がいるわけでもないのに。洛花さんが勝手に決めてしまっていいのかな)
訝しみながらも、沙蓮は彼女の後を追った。
外に出ると、辺りには光が満ちていた。
白い柱が朝日に眩しく照らされ、一面の青い花に宿った雫も煌めいている。
甘い香りを伴った風が吹く。
「きれいな国ね。騎馬民族の子孫であるわたしが言うのもおかしいけれど、共存してほしかったわ。人は南夷なんて呼ぶけど、蛮族は砂人の方よ」
洛花はかがみこんで、数本の花を摘んだ。
石の土台に澄んだ色の花を置き、祈りの形に手を組んだ。
(ああ、そうか。砂人のすべてが悪人なわけではないから。だから深迦は砂国で生きることを決意したんだわ)
自分の持つ知識、藍語を理解していること、それらが生きるための武器となったのだ。
「家族を、先生を失ったことを忘れたわけではない。けれど先生の教えは、生き延びた者を縛りつけないための思いやりだ。恨みにとらわれず、幸せに生きてほしいという先生の願いを、大事にしたかった」
深迦が沙蓮の手をとった。
指と指を絡め、しっかりと握りしめられる。
「この国で暮らしていた時を思えば、涙が出るほどに懐かしくなる。あんなにも退屈な毎日だと思っていたのが嘘のように、いつまでも光り輝いているんだ」
今、深迦の瞳に映っているのは、美しかった藍国だ。
空の色を写しとった街並み、風に揺れる葡萄長廊、清らかな紅水河の流れ。
沙蓮は当時のことをほとんど覚えていないけれど。
ここが故郷、この地で確かに暮らしていたのだ。
「藍国の史料を手放すことに、ためらいはあったでしょ?」
「ああ。だから書を分けた。風俗関連は砂京図書館へ。工学や土木の書物は俺の部屋へ。ただ王族が守り抜こうとした『紅水河生水』だけは、どうしても元あった場所から動かしたくはなかった」
あの天井まで届く壁一面の本棚と、床に積み上げられた本が、そうなのか。
けれどあんなにも管理が雑で、盗まれたりしないのだろうか。
「大丈夫ですよ。わたくしが守っておりますから」
沙蓮の心配を察したのか、アシアが声をかけてきた。
「でも、今みたいに不在のことも多いじゃない」
「あちこちに罠を張ってございます」
「罠?」
「現在、罠は出入り口や窓だけですが、今後は庭にも大きいネズミを捕獲するよう細工を施しておきますので。ご安心を」
アシアの肩に担がれた江が「誰がネズミだ!」と、わめいている。
「誰一人として逃しませんし、生かして帰しません。命が惜しくないのなら、再び挑むのですね」
凄みをきかせた声に、江は震えあがった。
我が家の真実を知らぬままに、暮らしていたなんて。恐ろしいことだ。
「平気ですよ。たとえ真夜中に深迦が沙蓮の部屋に忍び込んでも、悲鳴を上げてくだされば、すぐに駆けつけますから」
駆けつけなくていい、と深迦が渋い表情を浮かべた。
「でも本当に、何を提出すればいいのかしら」
「文献なら、俺の部屋にいくらでもあるぞ。『なんと三日で太腿が痩せる』と『秘伝、これであなたもモテモテです』がお勧めだ」
「質より量ね」
うなずきあう二人。
「図書庁としては、却下したくなる内容ね」
次に渋い表情を浮かべたのは洛花だった。




