8話 猫な僕は夢を渡る
はぁ、と。
いまだ目覚める気配のない真名実の傍らに座り込んで、こうやって溜息をつくのは何回目になるだろうか。
ハゲメガネが去り、部屋の外のおかっぱ男が気配を絶って静寂が戻った部屋の中で、そんな後ろ暗いことを考えてしまう。
無意味だと判っていても、ついやってしまうのは、自分の無力を痛感しているからだった。
あれから……この「医務室」に来てから、もう3日が経っている。
真名実は目を覚まさない。ずっと、そのままだった。
そして猫な自分もだ。
そんな自分に何が出来るというのか。
こうやってベッドのようなものの隅っこで、ご主人様の目覚めを待ち続ける子猫をやるぐらいしかない。
間近にある真名実の顔をじっと見つめる。
安らかな寝顔には、やつれたような暗い陰りはない。あくまで眠っているだけに見える。血の巡りが悪いのか、若干肌の色が白いようではあるけれど、それ以外には普段と変わった様子もない。
こうやってじっと見続けているせいで、気づいていない変化が起きている可能性も否めない。そうだとしたら、僕ではどうしようもない。
苦しそうにしているよりは遙かにマシだろう、と言うのはただの気休めなのは判っている。何か安心出来るものがひとつでも多く欲しいだけだ。
ぴくっと耳が反応する。猫な耳が、新たに近づく足音を察知していた。
ヒールが床を叩く乾いた音。それに紛れてアクセサリ類が鳴らす音も伝わってくる。
誰なのかはすぐに判った。あのおかっぱ男が再度立ち上がる音が続いて聞こえて、僕はまわれ右をしてドアへと向き直っておく。
「様子は……そうですの。あの子猫ちゃんは……? ずっとそのままなんですの?」
相変わらず声だけ一方通行の会話のようだったけれど、そのやりとりがあってから、ドアが開く。
思った通りアリサさんの登場だった。大きな帽子と露出過多な格好は相変わらずで、今は両手で銀色のトレイを持っていた。
「こんにちわぁ。ちょっとお邪魔いたしますわ」
そのままアリサさんは躊躇う様子もなく、部屋に入ってくる。
一方で、あのおかっぱ男はその場に立ち止まっていた。ただドアは開けっ放しで、鋭い視線を僕らへと飛ばしてくる。僕らがおかしな行動をしないよう威嚇のつもりだろうし、実際に変な素振りをしようものなら直ちに飛び込んできそうな雰囲気だった。腰に穿いた刀の柄に手がかかっている。
「あらあらあら、また、飲んではくれませんのね」
ベッド脇にある銀色のスープ皿の前で屈み込んで、アリサさんが残念そうに呟いていた。その皿に注がれたミルクは、そこに置かれたままで全く減っていない。
そのミルクは真名実の傍で待ち続けている猫な僕のために、アリサさんが用意してくれたものだった。けど、僕にはそこに近づいてすらいない。
アリサさんの様子を見る限りは、厚意で用意してくれたものだとは思うけれど……
「とってもご主人様が心配なんですのね。でも、それで子猫ちゃんまで倒れてしまっては、ご主人様もきっと悲しいと思いますのに」
新たに持ってきたミルク皿と交換をしながら、諭すような口調でもってアリサさんが言ってくる。まるで人を相手にしているようにして。
僕が猫だということを、本人は気にしていないのか。その辺りが良く判らない。
或いは……猫の中身が僕ということに感づいているのだろうか。確かめようもないけれど。
皿の交換を終え、トレイを一度置いたアリサさんが、ゆっくりと僕に近づいてくる。いや、僕と言うよりは、ベッドもどきにか。
そのままアリサさんは、猫な僕のすぐ横から真名実の横顔を覗き込む。僕の髭がアリサさんの剥き出しの肩に触れた。
ふわり、と猫の鼻腔をくすぐる芳香があった。いい匂いかどうかは、猫的には判らない。真名実からのとは全然違う。ちょっと甘いかな、と思えた。
「それにしても、キミのご主人様は、ずっと眠っていますわね。顔色は悪くないようですのに、どうしてしまったのでしょうね」
それは誰よりも僕が一番知りたいことだ。
見上げた先で、アリサさんは目をそっと伏せてみせた。
「ソニアちゃんの診たところだと、精神的な何かが原因じゃないかと言ってましたわ。でもそうなってしまうと、ここの設備では何も出来ませんの。ごめんなさい、お役に立てませんわ」
気落ちした声音で言われては、僕としては何とも答えようがない。それでなくても猫な身ではどうにもならないけれど。
「子猫ちゃんも、ご主人様がとても心配なのは判りますけど、お食事もそうですし、少しはおやすみしないと身体を悪くしてしまいますわよ。ずっとご主人様の傍から動いていないと、エドから聞きましたわよ」
アリサさんはそう言いながら、ベッド縁の上で腕を組んで、それを枕に僕へと顔を向けてくる。真っ正面から見つめられる格好になる。
どこか眠そうな眼差しなのに、見つめてくる視線は真っ直ぐで、僕も彼女から目が離せなくなってしまう。
アリサさんの言う通り、僕は確かにやすんでいない。
言葉そのままの意味だ。この3日間、僕は寝てすらいなかった。
睡眠なしで3日間ぶっ続けなんて、自分のことながら、おかしなものだと思う。けれど、実際にそうなわけで、なのに身体が不調を訴えてこないのも確かなことだった。
心情的に寝ていられないというのもあるんだろうけど、全く眠気がやってこないのだ。そして、それで平気だった。
この猫はそういうふうに出来ている。そう考えるしかない。
僕の身体を盗って行ったアイツが言っていたように、「手を加えられた」結果のひとつなのだろう。
結論として、僕は猫ですらない、と言うしかない。猫の姿をした何かだ。
とは言え、正直なところ、そんなことはどうでも良くもあった。重要なのは、目の前で眠り続けている真名実だ。
「まあ、子猫ちゃんがずっと動いていないって判ってしまうエドも、大概ではありますけど」
姿勢はそのままで、顔だけをドアの方へと向けるアリサさん。
開きっぱなしのドアの向こうには、少し不機嫌そうに眉を寄せて突っ立っているおかっぱ男の姿がある。
そう言えば、あのハゲメガネも彼をエドと呼んでいたのを思い出す。それが名前なのか愛称的なものかは判らないけれど。
「そんな怖い顔をしないで下さいませ。職務にまじめに取り組んでいるって褒めているつもりでしたのよ」
緩やかにウェーブするブロンドの髪を小さく震わせるアリサさん。笑ったんだろう。一方でエドさんは不機嫌顔をいっそう強めただけだった。
「ふふふ」
どこか満足そうに含み笑いをこぼした後、アリサさんは静かに身を起こした。
ベッドもどきの縁に両手をついて、やや前傾姿勢になって真名実の全身を俯瞰する。大部分を剥き出しにしている彼女の胸が、両腕に挟まれて窮屈そうに潰れるのを目の当たりにさせられ、僕は慌てて目を逸らさなければならなくなった。
猫の前だからと言え、少しは気にかけてほしいところだけど……無茶な要求なのは判っていた。むしろ猫の前だから、だろうから無防備なのだろう。いちいち気にしてしまう自分自身こそが恥ずかしく思えてくる。
エドさんが部屋に入ってきてくれていたら、アリサさんの行動も少しは違っていたかも知れない、かも。
「本当にただ眠っているだけに見えますわね。何か夢を見ているのでしょうか」
僕は今のこの状況が夢であってほしいと、思っているわけですが。
さすがにこれがもう夢じゃないなと、そう思うからこそ。
「綺麗な髪ですわね。とても手入れがされているのが判りますわ。それにとても珍しい生地のお召し物ですし。ふふふ、起きて下さいましたら、その辺りもお話したいところですわね」
アリサさんはそっとベッドから手を離して、背筋を伸ばした。
「街に到着しましたら、こうした施療の出来る方を手配する予定ですのよ。だから、大丈夫ですわ。子猫ちゃんのご主人様は、ちゃんと目覚めて下さいますわ」
そこまで言ってから、ふと、アリサさんは目を細めてみせた。唇を震わせるようにして、後の言葉を小さく呟く。
猫な僕に気を遣って、か、本当に小さな声で。
「……それとも、目覚めたくない、のでしょうか?」
アリサさんの言葉はすぐさま消えてしまったけれど。
急に部屋の静けさが戻ってきたような気がして、僕は感じた寒さに身震いするのを止められなかった。
ドアが閉まって、アリサさんが離れて行き、そしてエドが座って気配を絶ったのを感じながら。
僕は食い入るようにして真名実の横顔を見つめていた。
目覚めの気配は全く無い。アリサさんはどんな夢を見ているのでしょう、とか言っていたけれど、これだけ眠りが深いのを考えると、夢すら見ていない可能性が高いように思う。
(町で診てもらって、それで目が覚めるって言ってたけれど……)
勿論、何の保証もない。それ以前に信用出来るかも怪しいところだ。そしてそれはアリサさん達にも言えることでもある。良くしてくれているけれど、彼女たちの意図が判らない以上、警戒はすべきだろう。
第一、この後にどこに連れて行かれるのかすら判らないのだ。町に向かっているというのも、あくまで彼らの言い分だ。猫の前でまで嘘をつく理由も無いかも知れないけれど、それでも安心出来るような材料のほうが圧倒的に少ないのは確かだ。
それに、アリサさんの言っていることに嘘偽りが無かったとしても……それで真名実がまだ見ぬ何者かに触られるような状況を考えてしまうと。
(それは……なんか、イヤだな)
落ち着かない。いや、そうじゃない。
はっきりと、不愉快だった。
かといってただの猫もどきでしかない僕に、医者の真似事など出来るはずもない。
出来ることと言えば……
考えてみて、ふと気づく。
(いや。出来なくはない、のか?)
あの僕泥棒がやってみせてくれた魔法。アイツは猫な僕にもあれが出来ると言っていた。
真名実の精神が今どうなっているのか。それが判れば何とかなるような気がする。身体的な異常が無いのなら、あとは精神面で何か起きているんだろう、という程度のことでしかないけれど。
ふと、ひとつのイメージが頭の中に浮かび上がった。
あるひとつの図形。あるいは構成と言うべきだろうか。ともかく、僕がしたいと思ったことを表現するならば、そうなるだろうというひとつのかたちが、それだった。
あのアノンがやったように、それをここで描き出せば魔法となって発動する。それも判った。
ただ、問題がひとつ。
(……足りないな)
魔力……アノンがそう言っていた、あの図形を描き出すための妙な気配を持った何か。それが不足している。
猫な自分の小さな身体の中から感じる魔力を総動員したところで、一部しか描画出来そうにない。それでは無意味だった。
(どうする?)
意味もなく周囲を見回してしまう。
いや、意味は、あったかも知れない。
目に止まったのは、真名実が横たわるベッドもどきの四隅に埋め込まれた淡く光る球体だった。
魔力結晶体。それもアノンが説明していたものだったけれど、その球体がそういうものだというのも判る。完全な球体と言うのが普通なのか珍しいのかまでは判らない。あの魔獣から直接取り出したものしか僕は見た事がないし。
(細かいこと考えていてもしょうがないか。今は……)
無為な思考を止め、僕は一番近くにある球体の上に座り込んでみる。
真名実の寝ているベッドもどきが浮いているのは、ベッドの内側に描かれている図面が、この四隅にある魔動結晶体からの魔力の供給を受けて発動し続けているからだ。
(これも泥棒になってしまうんだろうか?)
そんなことを思いつつ、けれど止めるつもりもなかったけれど。
僕は真名実の横顔を見つめつつ、意識を集中させる。
猫な自分の尻尾へと。
僕の意志に応えて、僕の身体よりも長い尻尾が最初はゆっくりとした動きで動いた。
その尻尾の先がなぞった空間に、魔力による線が描かれるのを感覚で捉える。
それが出来たということには、それほど気持ちが動かなかった。むしろ出来て当然だと感じてしまうのは、僕がこの猫な身に慣れつつあるからだろうか。
こんなことが出来る猫というのが、普通ではないだろうと思いつつも。
球体の上で動ける範囲で描くため、最初に思い浮かんだものに変更を加えながら、どんどん描画を進めていく。ほどなくして、猫な僕の身体は、半球状に展開された図形に取り囲まれるような状態になってしまう。その半分も描かない内に僕自身の魔力は殆ど尽きてしまっていて、それからは足下の結晶体から抜き出した魔力によっての描画となった。
描きながら感じたのは、この猫な身体が空間への描画なんてものにとても慣れているということだった。最初の描き出しがスムーズだったのも、そのおかげだろう。僕自身が何か特別に意識することも無く描画出来たというのは、正直なところ助かっていた。
魔法として発動させたいこと……やりたいと思ったことが、すぐさま描画する図形としてイメージ出来てしまうこの感覚は、どうにも気持ち悪さはある、とは言え。
尻尾の動きを止めて、僕は息をついた。
そうして完成した図面を、一度ぐるりと見回して見る。
僕を完全に取り囲む図面は、実際に見えているわけじゃない。ここに、もし誰かがいたところで気づくことも無いだろう。猫が変な動きをしていたぐらいにしか見えなかったはずだ。
いたのがアリサさんだったら、喜んでいたかも知れないけど。
(あとは、これを発動させるだけ)
図形に間違いはない。発動させれば、確実に効果を発揮する。
あとはベッドもどきの魔力が尽きるまでは機能し続けるはずだ。
もし、今の僕がちゃんと人間だったとしたら、ごくりと唾でも飲み込んでいたかも知れない。でも今は猫だから気構えも何も無い、というわけにはいかないものの、猫的に身体が勝手に何かをすることも無かった。
それが幸か不幸か、判りようもない。
描いた図形はかなり精緻で複雑。自分でやっておいて何だけれど、猫の尻尾の先で描いたものだとは思えないような出来映えだった。
でも、そこに描かれた意味は実に単純なものだった。
真名実の精神への限定的な共有化。つまり、真名実の夢の中へ行く。ただそれだけの意味だ。
そうやって言葉にしてしまうと、気持ちに抵抗を感じてしまう。と言うか気恥ずかしさが半端ない。
そして、罪悪感もある。これはまさしく、覗きでしかないのだから。
その相手が幼なじみだろうと関係ない。プライバシーの侵害だと言われれば、全く反論出来ない。
けど、この妙な昂揚感は何だろうか。
魔法なんてものを初めて使おうとしているから、だろうか。
そういうことにしておくべきだろうか。深く考えたら駄目な気がしてくる。妙な事を意識してしまいそうだから。
猫な僕は自分の姿勢を確認する。魔法を発動させると、どうしても「こちら側」が疎かになってしまう。滑り落ちてしまいでもしたら、いろいろとマズい。
結局、球体の上に覆いかぶさるような姿勢という少々間抜けな絵図になってしまったけど、これはどうしようもないだろう。
この場にアリサさんがいたら、それはそれで喜ばれそうな気もするけれど。
展開した魔力構成越しに真名実を見つめる。この図形を維持するだけなら魔力は消費されないとは言え、まごついているのも無意味だ。
躊躇している自分にそう言い聞かせる。この期に及んで他の方法を模索しようとしている自分が、なんだか情けない。これは度胸が無いのか、意気地無しなのか……どちらも同じような意味ではあったけど。
何がきっかけだったか、そもそもそんなものもなかっただろうけど。
経過したのは数秒か、あるいは数分か。
意を決して、僕は展開した魔力の図形に意志を込めた。起動を念じる。
魔法が発動する。僅かな間もなく、素直に。当たり前に。
僕の意識は、真名実の意識へと、潜り込んだ。
◇◆◇◆◇
他人の意識に干渉して、精神状況がどうなっているのかを知る。
それをイメージするのがうまくいかなかった僕は、他人の夢の世界に入り込むのをイメージすることにした。僕が描いたのは、それが出来るような図面だった。そしてそれは確かに発動した。
その結果、僕が……僕の意識がたどり着いたのは、色とりどりの淡い光に満たされた世界。
そんな世界に、僕はひとり、立っていた。
意識の世界。それも他人の意識の世界の中で、僕は自分の姿を確認してみる。
猫ではなく、人の姿だった。見慣れた制服を着ている。見え方も同じ。自分の容姿を確認は出来ないけれど、僕は僕の姿をしているはずだった。
一色結人としての自分。この意識の世界では、自分が自分としてイメージする姿が反映されているはずだから。
僕自身の意識の端っことでも言うか、片隅には猫な自分のイメージも感じる。魔力結晶体に寝そべる自分がそれだ。妙な感覚なのはどうにもならない。そもそも他人との意識の一部共有なんて事態からしてすでに異常でなわけで。
周りを見回して、綺麗な世界だなと思った。それがちょっと嬉しい気分になった。
とは言え、ぼんやりしていても仕方がない。
真名実を捜す。いや、この世界そのものが真名実の意識なのだから、捜すも何もない。意識したなら、応答があるはずだ。
案の定、目を向けた先に真名実はいた。
……眠っていたけれど。
夢の世界の中でまで眠っている幼なじみ。でも、僕はそれを笑えなかった。そう言う状況ではなかったから。
外界と同じようにして眠っている真名実。
その身体が、黒い何かに雁字搦めにされていた。