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恐怖の根源

 放棄された建物が連なる小路を、淡々と踏破していく中、春子は一人身震いした。

 寒さによるものでも、ましてや武者震いでもない。それはおそらく、本能的な恐怖によるものだ。だが、暗闇やお化けを怖がるような精神は持ち合わせていない。今春子の中に巣食う恐怖は、もっと別の要因によるものだ。

 不意に、前を歩く怜が振り向いた。何の心構えも無く目が合い、春子は一層恐怖を深め、戦慄する。その目に宿った、残虐なまでの殺意に。全身から発せられる怒りに。

「……大丈夫か?」

「……へ?」

「さっきからぼんやりしてるだろ。置いてくぞ」

「あ……ええ、大丈夫よ。行きましょう」

「ならいいんだけどな」

 素っ気無い態度で、怜が歩みを再開する。その後ろ、数歩下がって着いて行きながら、春子はそっと嘆息した。

 夏樹や永汰と別れて進み出したときから、怜は隠すことを止めたように、その体から湧き出る怒りや殺気を垂れ流し始めた。特にそんな訓練をしていない春子でも、気配を探れそうなほどに。それが春子に向けられていない事は理解しているが、それでどうにかなるようなレベルではない。周囲の空気すら触れれば斬れてしまいそうな気がしてならないのだ。今でこれなら、ゾディアックを前にしたとき、どうなってしまうのだろうか。最悪の場合は永汰や夏樹が止めに入るだろうが、もしも、間に合わなければ。

 まだ十六歳である怜にそれを背負わせる事は、何としてでも避けたい。

 そう、春子は心に刻んだ。

 その考えが、すぐに間違っていたと悟らされるとは知らずに。


 「……遅い」

俺たちがAに到着し、偵察を終え、杏さんに報告してから既に五分が経過しようとしていた。杏さんが連絡を終えていれば、そろそろ課長が現れてもおかしくない。なのに、三人の誰も、現れる気配は無かった。

 一刻も早く五十鈴を助けたい。助けなくてはならない。ゾディアックを殺したい。その邪魔をするものすべて、それがたとえエスパー課の誰かであろうと俺は躊躇無く斬るだろう。ゾディアックは、奴だけは俺の手で殺してやる。五十鈴に手を出した罪は、法廷でも、閻魔でもなく、俺が裁く。刑なんて最初から決まっている。死を持って、罪を償わせるんだ。地獄の底で後悔させなきゃ、気が済まない。

 俺がそんな思考に気を取られている間黙り込んでいた春子さんが、唐突に口を開いた

「三人の、誰とも連絡が取れないらしいわ。もう少し待機して。今監視カメラでの確認を急いでいるから」

「……後、どのくらいだ」

「分からないわ。ただ、十分以上は見た方がいいわね」

奥歯を噛み締める。そんなに、待ってなんかいられるか。

 十分以上?その間に、五十鈴はどれだけの苦しみに苛まれるんだ。一刻も早く助けないとならないのに。悠長に待ってなんて、いられるか。

「……これ以上、待てない」

五十鈴を助けるのを。奴の首を掻き切るのを。もう、我慢の限界だ。

「え?」

「俺は行く。命令違反で捕まろうが、なんだろうが」

「ダメよ!一人では危険すぎるわ!」

「そんなこと、百も承知だろ。言ったはずだ。俺は自己責任で突っ込む、って」

言葉を失い立ち尽くす春子さんに背を向けて、待機していた廃屋から飛び出す。制止はない。無言は肯定、許可の証だ。だったら、もう我慢なんて必要ない。


 「……くくく、さあ、ショータイムだ。彼は一体、どんな顔をするだろうかね?」

愉悦に歪んだ顔を引っさげて、階下から現れたゾディアックは、五十鈴が入れられた檻の前で立ち止まった。そのまま、五十鈴の姿を眺め回す。

「……何」

「大分憔悴しているようだね。だがまあ、この物語の終幕はもう少しだ。さて、君の疑問に答えようか。君がどこにいるのか分からないままでは、彼も戦い甲斐が無いだろう?だからね、面白い出し物をしてもらおう」

ゾディアックが指を鳴らすと、屈強な男が数人がかりで何かを運んでくる。今日の午前中に設置されていた土台にそれを差し込み、釘とネジで固定すると、それはすぐに完成した。

「……悪趣味」

「手厳しいね。しかし、いい余興だろう?君の役目、囚われのお姫様にピッタリだ」

ゾディアックが、完成したそれを振り返る。吹き抜けのすぐ脇に立てられたそれは、大きな十字架だった。横に広がった金属に二点、土台付近に一点、拘束具が付いている。十中八九、五十鈴を磔にするつもりなのだ。

 設置された十字架をためつすがめつしていたゾディアックが、唐突に五十鈴の方を向く。そのままつかつかと歩み寄り、右手首を軽く解すような動作を見せる。

 「さて。戦いの間、お姫様は眠っていると相場は決まっているんだ。君にも、少し眠ってもらうよ」


 百メートル程を一息で駆け抜け、廃工場の扉に手をかける。分厚い金属で造られたそれは、錆が浮いてぼろぼろの癖に重さと鍵だけは現役らしい。

 だが。鍵がかかって開かないなら、根元から切ってやればいい。

 体の底から湧き上がる焦燥に背中を押され、両腕でバツを描くように振る。すべての指を揃えて、全力で。

 コンマ数秒のタイムラグを経て、扉の破片四つが轟音を立てて崩れ落ちる。もうもうと立ち昇る砂埃による視界の封鎖がなくなったとき、最初に目に入ったのは――――

 表情を驚愕に染めて俺を見る数十人と、その奥、二階に立てられた十字架にぶら下がる、五十鈴だった。

 怒りが白熱し、脳神経が焼ききれるような感覚が襲う。殺意も憎悪も臨界点を超え、今にも体を食い破って吹き出そうだ。灼熱を孕んだマグマのように、俺の体内で煮え滾り、内臓を蒸発させていく。俺の体内で暴れる蛇に呑み込まれたとき俺は、人ではいられないだろう。修羅か、鬼か、そんなものに堕ちるのだ。

 燃え盛る視神経を介して、人影を認識する。十字架の横で俺を見下ろす、ゾディアックに。その目に挑むような、試すような光を見た気がした。

 俺の中で、一つの思いが生まれる。この体に絡みつく蛇に身を任せ、血の海に沈むのもいいだろう。それで五十鈴が助かるなら。奴を殺せるなら。

 「……コイツ……何しやがったァ!」

我に返った用心棒の一人が叫ぶ。が、どうでもいい。俺はアイツを殺せればいい。

「やあ。ジャック君。気分はどうだい?君とは三日ぶりになるかな?さて。君が私の元までたどり着き、私を倒す事ができれば、君の愛する少女は解放しよう。さあ、どうする?」

三日前から変わらない、飄々とした態度。それは今、俺の怒りに油を注ぐだけでしかない。

「……殺してやるッ!」

「ほほう、威勢のいいことだ」

「こんなガキがぁ?寝言は寝てから言いやがれ!」

下卑た笑いが頭に響く。うるさい奴らだ。

 俺はアイツを殺したい。五十鈴を助けたい。そのためなら、悪魔にだって魂を売ろう。

 殺してやる。殺してやる殺してやる殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す……コロシテヤル。

 ――――――キリタイカ?

 ――――――――――斬りたいッ!

 半年前、体に入り込んでからずっと感じ続けていた気配が、どくん、と大きく鼓動したような気がした。


 扉を切り裂き、唐突に乱入してきた少年。その小さな人影を見ながら、ゾディアックこと小谷弘樹は待ちに待った瞬間が近づいている事に胸を弾ませた。彼の思惑通り、単身乗り込んできた少年、怜は大いに怒っている。それも、我を忘れるほどに。その証拠に、入口から離れた二階の吹き抜け近くに立っていても、怒気と殺意が小谷を包み込んでいる。それを肌で感じながら、小谷は気分が高揚していくのを感じていた。

 小さい頃から、生物が動かなくなっていく過程が好きだった。恐怖に暴れ、もがき苦しみ、絶望していく。それを見ることで、『生きている』という優越感を覚えたのだ。

 人を襲うようになった今も、その優越感は変わらない。ただ、昔より少なくはなっていた。代わりに、絶望して死んでいくその表情に、愉悦を感じてはいるが。

 だから、求めたのだ。自分と同じくらいの力量を持った相手を。その顔に絶望が浮かぶのを見たいと、自らの手でそれをしたいと、渇望したのだ。

 そして、見つけた。自らと同じ由来のあだ名を持ち、一歩間違えれば――小谷に言わせれば正解だが――大量虐殺だってできてしまう能力を、正義と言う曖昧で不完全なものに使う少年を。

 それから、裏の世界で情報を集め、満を持して接触し、今、全力を持って戦う夢が果たされようとしている。その興奮に、心が震える。最高の演奏を聴いたときのように。

 が、小谷のそんな陶酔は、長くは続かなかった。

「やあ。ジャック君。気分はどうだい?君とは三日ぶりになるかな?さて。君が私の元までたどり着き、私を倒す事ができれば、君の愛する少女は解放しよう。さあ、どうする?」

「……殺してやるッ!」

「……ほほう、威勢のいいことだ」

「こんなガキがぁ?寝言は寝てから言いやがれ!」

噛み付くように叫んだ怜を、雇った男たちのうち、手元に残した四十人がせせら笑う。しかし、小谷は笑う気にはなれなかった。

(奴らは気づいていないのか?)

怜の言葉は、少年が怒りに任せて叫んだだけの言葉ではないことに。

(なんで、あんな奴が普通に高校生をしている?あれは、あの目は、平和に日々を生きてきた者の目ではない……)

背筋を寒気が這い上がる。怜の目に宿っていたのは怒りの炎ではない。氷のような殺意だ。

(……こちら側にいるべき、人殺しの目だ)

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