特別編:『聖女の亡骸、楽園の産声』――エルサによる回顧録
本編第45話までのご愛読、ありがとうございます。
今回は、エルサの精神が完全に変質した今だからこそ描ける、彼女自身の視点による「回顧録」をお届けします。
かつての聖女としての矜持が、いかにしてゼノスへの狂愛に屈服したのか。その独白をお楽しみください。
空中離宮を包む空気は、外界の腐敗臭を一切通さないほどに磨き上げられ、静止した時間の中で甘い沈香の香りを漂わせている。
窓の外、雲海の下に広がる地上では、今この瞬間も「黒い泥」が地脈を喰らい、数多の生命が悲鳴を上げているはずだった。
だが、ここにはそれらの雑音は届かない。
離宮の静寂の中で、私は時折、遠い昔の自分を思い出す。
それは、今の私から見れば、泥の中に咲こうとして窒息した、救いようのないほど無知で愚かな「少女」の残像だ。
かつての私は、この世界を救うべきだと信じて疑わなかった。
汚泥にまみれた民の、ひび割れた手を握り、自らの魂を削るようにして魔力を分け与え、濁った地脈を浄化し続けていた。
夜も眠らず、膝の痛みに耐えながら冷たい石床に跪き、ただひたすらに神への祈りを捧げていたあの日々。
「聖女」という名の、目に見えない光り輝く鎖。
私はその重みに誇りを感じ、自分の命が、情緒が、そして人間としての尊厳が摩耗していくことさえ、尊い犠牲なのだと、美しき錯覚に酔いしれていた。
自己犠牲という名の甘い毒を、私は自ら進んで啜っていたのだ。
だが、ゼノス様にすべてを奪われ、与えられた今なら、はっきりと理解できる。
私が救おうとしていた者たちは、一体何だったのか。私がその身を挺して守ろうとした世界は、どれほど空虚で醜いものだったのか。
彼らは、私が無尽蔵の光を、奇跡を、恵みを与え続けている間だけ、縋るような卑しい笑みを浮かべていた。
だが、いざ私の光が、過酷な献身によって陰りを見せ始めれば、彼らの笑みはたちまち不安と猜疑心へと変貌した。
「なぜ祈らない」「なぜ前のように奇跡を起こさない」と。
彼らは私という血の通った一個の人間など見ていなかった。
ただ、自らの不遇を解消し、怠惰を肯定してくれる都合の良い「奇跡の装置」を、その機能を求めていただけの、浅ましい亡者の群れに過ぎなかったのだ。
かつての仲間――帝国騎士レナードたちの顔を思い出すたび、今の私は乾いた失笑を禁じ得ない。
あの日、ゼノス様が私の「聖女」としての歴史を壊し、この離宮へと連れ去った時、私は確かに絶望していた。
騎士団の剣が、彼らの掲げる正義が、いつか私をこの檻から救い出してくれることを、心のどこかで願っていた。
……なんと滑稽で、愚かな願望だろうか。
彼らが求めていたのは、エルサという女の幸福ではない。
ただ、管理しやすく、便利に世界を浄化してくれる「道具」を取り戻したかっただけ。
私の心がどれほど悲鳴を上げ、ゼノス様が与えてくれるこの背徳的で一方的な安らぎを、魂の底から渇望しているかなど、彼らは想像することさえしなかった。
彼らにとって私は、世界の平和を維持するための「部品」でしかなかったのだ。
ゼノス様は、私のすべてを否定することで私を肯定された。
「エルサ、君を縛るすべての義務から、私が君を解放しよう。世界も、神も、君を搾取するだけのゴミだ。……すべて、俺が壊してやる」
その言葉通り、今、私の世界はゼノス様だけで満たされている。
離宮の外でどれほどの村が泥に沈み、どれほどの民が飢えて同族の肉を喰らおうと、私の知ったことではない。
私の肌を優しく、時には痛いほどに温めるのはゼノス様の濃厚な魔力であり、私の耳を潤すのは、世界でただ一人、私を「私」として求めてくれるゼノス様の囁きだけ。
かつて唱えていた神への祈りの言葉は、もはや唇の形すら思い出せない。
私の唇は、新しい神――ゼノス様の名を呼び、彼に乞うためだけに存在する器官へと作り替えられた。
民に愛され、民に裏切られ、最後には仕えていた神にさえも見放された、あの憐れな「聖女エルサ」は、黒い泥の底に深く埋もれて消えたのだ。
今、ここにいるのは。
滅びゆく世界を見下ろしながら、唯一の愛という名の深淵に溺れることを許された、一人の、ただの幸福な女。
世界が完全に泥に呑まれ、最後の絶叫が途絶え、光も音もこの世から失われるその瞬間まで。
私はこの、世界で最も残酷で美しい「楽園」で、私だけの神様に、この残りの命のすべてを捧げ続けるだろう。
回顧録をお読みいただきありがとうございました。
今のエルサにとって、過去の献身は「無意味な苦行」でしかありません。
彼女をここまで変えてしまったゼノスの独占欲と、それに呼応する彼女の依存心。
次話からは、この「完成された関係」が外界の残党たちをいかに絶望させるかを描いていきます。
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このように、これまでの物語をエルサの視点で「否定・再解釈」することで、読者に今の彼女の異常さをより強く印象付けることができます。




