第45話:【終末の楽園】唯一の神、唯一の光
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物語はいよいよ第5章**【終末の楽園編】**の核心へと切り込んでいきます。
聖女としての光を失い、ゼノスという「唯一の神」に塗り潰されていくエルサ。
外界の崩壊と反比例するように純化していく二人の狂愛を、どうぞ最後まで見届けていただければ幸いです。
離宮の窓から見える世界は、もはやかつての極彩色を失っていた。
地脈の深淵から溢れ出した黒い泥は、粘りつくような音を立てて大地を這い回り、かつて聖女エルサが慈しみ、守り抜こうとした豊かな村々を、音を立てて咀嚼し、異形へと作り変えていく。
かつて麦の穂が黄金色に輝いていた丘は、今や腐敗した肉塊のような湿地に成り果て、そこから立ち上る瘴気が空をどす黒く染め上げていた。
空は常に灰色の澱みに覆われ、太陽の光さえも地上に届く前に腐り落ちる。
万物を育むはずの陽光は、この地表に到達する頃には生命を拒絶する毒々しい淡光へと変質し、地上のあらゆる希望を塗り潰していた。
しかし、この離宮の寝室だけは違った。
「エルサ、こちらにおいで。窓の近くは、まだ外の穢れた風が入り込む。君の清らかな肺を、あんな死臭で汚したくはないんだ」
ゼノスの声が、甘く、重く、エルサの鼓膜を震わせる。その声は、絶望に満ちた外の世界の喧騒を遮断する、絶対的な結界のようでもあった。
エルサは吸い寄せられるように、主の元へと歩み寄った。
彼女の歩みはかつてのように軽やかではなく、どこか操り人形のような危うさを孕んでいる。
その瞳には、かつて宿っていた神への敬虔な慈愛も、世界を救おうとした高潔な意志も、もはや欠片すら残っていない。
今の彼女の網膜が捉えるのは、目の前に君臨し、自分に「生存」を許している唯一の存在――皇帝ゼノスの姿だけだ。
ゼノスが細く白い指先で彼女の頬をなぞる。
その指先からは、彼が魔術によって精密に構築した、偽りの「光」と「熱」が発せられていた。
本物の太陽よりも密度が濃く、それでいて肌を焼くような不快感の一切ない、エルサを安らぎへと導くためだけに計算され尽くした温もり。
エルサはその熱に、陶酔したように目を細めた。
彼女にとって、外界の太陽はもはや記憶の中の淡い残像に過ぎない。
今、彼女の肌を震わせ、命を感じさせてくれるのは、ゼノスの指先から注がれるこの熱量だけだった。
「……はい、ゼノス様。私の、私の唯一の神様」
彼女の唇から溢れるのは、かつて民を癒やし、地脈を鎮めるために捧げられた神聖な祈りの言葉ではない。
自分を支配し、飼い殺す男に対する、魂の底からの絶対的な服従と依存の誓いだ。
かつて、彼女のために命を賭して剣を振るった騎士レナードの記憶。彼女を聖女と仰ぎ、泥まみれの手を伸ばして救いを求めていた名もなき民たちの泣き声。
それらはすべて、ゼノスという巨大な質量を持った愛によって上書きされ、消去されていた。
エルサにとって、ゼノスが許可しない記憶はゴミ同義であり、ゼノスが与えない感覚は「存在しない」のと等しかった。
「外では、愚かな民たちがまた『新しい聖女』を祭り上げたそうだ。君という真実を失い、絶望に耐えかねた彼らが、ゴミの中から拾い上げた代わりの偶像を求めて、滑稽に踊っているよ」
ゼノスは嘲笑を浮かべ、エルサの腰を抱き寄せながら天蓋付きのベッドへと誘う。シルクのシーツさえも、彼の魔力によってエルサが最も心地よいと感じる温度に調整されていた。
「見たいかい? 彼らが、自分たちの生み出した偽りの希望とともに、泥の中で無様に果てていく様を」
ゼノスが彼女の顎をクイと持ち上げ、視線を窓の外へと向けさせる。
そこには、泥に埋もれかけた広場に集まり、白い布を纏った少女を囲んで祈りを捧げる民たちの群れが見えた。
少女は必死に手を掲げているが、彼女からは何の奇跡も発せられない。
地を這う黒い泥は、意志を持った大蛇のように跳ね上がり、逃げ惑う人々を一人、また一人と呑み込んでいく。
そして、偽聖女の華奢な身体が、鋭利に尖った泥の棘によって容易く貫かれた。
凄惨な絶望の光景。血と泥が混ざり合い、民の叫びが、呪詛が、離宮の強固な魔力障壁を叩き続ける。
しかし、エルサの胸に去来する感情は、もはや「無」だった。
以前の彼女なら、自らの命を削ってでも窓を突き破り、彼らを助けに走っただろう。
だが今の彼女は、目の前で蹂躙されるかつての同胞たちを、まるで道端に転がる石ころを見るかのように、冷淡に見下ろしていた。
それどころか、自分をゼノスから引き離そうとした「汚らわしいノイズ」として、微かな嫌悪感さえ抱いていた。
「……あんなにも醜く、汚らしいもの。見る価値もございませんわ。私に必要なのは、今ここにある貴方様の香り……貴方様がくださる、この清らかな熱だけです」
エルサはゼノスの胸に深く顔を埋めた。
そこからは、かつてのような鉄の匂いはせず、彼女を安心させるためだけに調合された、甘い香油の香りが漂ってくる。
「良い子だ、エルサ。外の世界はもう終わる。君を苦しめる他人も、君を縛る責務も、すべて泥が飲み込んでくれる。残るのは私と君、そしてこの永遠の楽園だけだ」
ゼノスの腕が、エルサの華奢な腰を折れんばかりに強く抱きしめる。
もはやエルサに、逃げる場所などどこにもなかった。
いや、逃げるという意志そのものが、ゼノスの甘い毒によって溶かされ、吸い尽くされていた。
外界で響き渡る民たちの末期の悲鳴は、この部屋の静寂に届く頃には、二人の愛を祝福する心地よい子守唄へと変質していた。
エルサは、自分を壊し、世界を壊した男の腕の中で、かつて経験したことのないほどの深い安らぎと悦びに浸りながら、ゆっくりと、幸福そうに瞳を閉じた。
ここにはもう、救うべき世界など存在しない。ただ、絶対的な主と、その狂った愛に飼い慣らされ、魂まで染め上げられた一人の女がいるだけだった。
第45話をお読みいただき、ありがとうございました。
かつて世界を救おうとした聖女が、自分を壊した男の腕の中で「安らぎ」を感じてしまう。その背徳感と絶望をお届けできていれば幸いです。
外の世界では偽聖女が蹂躙され、地脈の腐敗は止まることを知りません。
離宮という名の檻の中で、ゼノスがエルサに与える「模造された光」だけが彼女の真実となっていく過程は、ここからさらに加速していきます。
「救うべき世界など、もうどこにもない」
そんな終末の足音が聞こえる第5章、次話ではさらに深まる二人の歪な関係を描く予定です。
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次回の更新も、どうぞお楽しみに。




