第12話:迷いの森と、生命の気配
旅立ちの日の朝、ライナス男爵家の空気は、静かな緊張感に包まれていた。
ギデオンは孫を送り出す祖父のように、アークの背嚢にあれもこれもと詰め込んでいる。母は、自身が彫ったという木彫りの鳥のお守りをアークの首にかけてくれた。兄のアルフォンスは、心配を隠すように「絶対に死ぬんじゃねーぞ」とアークの頭をかき混ぜる。そして父は、美しい小刀を「護身用だ」と無言で手渡した。
村のはずれでは、セーラが焼きたてのイモパンを、ダグが特注の手斧を、そしてフィンが涙ながらに「必ず帰ってきて」という約束を、アークに託してくれた。
母が彫った鳥のお守りを胸に、父の小刀を腰に、ダグが作った手斧を背嚢に。仲間たちから託された一つ一つの道具が、ずっしりと重い。だがそれは、不快な重さではない。信じてくれる人々の、温かい信頼の重みだった。アークはその重みを噛み締め、ローランと共に村の先へと歩みを進める。
やがて、目の前に、巨大な壁のように、古の森が姿を現した。
「行くぞ、アーク坊主。ここから先は、神の領域だ」
ローランの言葉に、アークはこくりと頷き、固唾を飲んでその闇へと一歩を踏み出した。
森の中は、外の世界とは完全に隔絶されていた。
分厚い天蓋に遮られ、真昼だというのに薄暗い。湿った土と、朽ちた葉の匂いが立ち込め、鳥の声すら聞こえない不気味な静寂が支配していた。
ローランが、元王国騎士としての経験を活かし、獣の痕跡や毒キノコについて、実践的な教えを授けてくれる。
だが、アークにも、この森でしか使えない特別な感覚があった。
木魔法の使い手である彼は、この森に満ちる膨大な生命の「気配」を、肌で感じ取ることができたのだ。
(すごい……なんて魔力の密度だ。森の全てが、僕に話しかけてくる)
言葉ではない、純粋な感覚の奔流。乾ききった樫の木が訴える**「渇き」**。僅かな光を浴びる若木が放つ**「歓喜」**。そして、獣が縄張りの印をつけた大木の、微かな**「痛み」**と**「警戒」**。森全体が、一つの巨大な生命体として、アークにその状態を伝えてきていた。
そして、森の奥へ進むにつれて、アークは奇妙な感覚に気づき始めていた。
それは、森全体の生命力の合唱の中に響く、たった一つの不協和音。か細く、今にも消えてしまいそうでありながら、決して合唱に混ざることのない、澄み切った悲鳴のような、聖なる痛みの気配だった。
「ローランさん。なんだか……森の奥の方で、何かが苦しんでいるような気がするんだ」
「苦しんでいる?」
ローランは訝しげに眉をひそめたが、「己の直感は信じろ」とアークの感覚を否定しなかった。
翌日、二人はさらに森の奥深くへと分け入った。フロストウルフの真新しい足跡に緊張が走る。
その時だった。
ザシュッ!
アークのすぐ横の茂みから、緑色の蔓が、まるで蛇のようにアークの腕をめがけて襲いかかってきた。
「アーク坊主!」
ローランの剣が一閃し、蔓を寸断する。だが、その一瞬早く、別の細い蔓の先端が、アークの腕を僅かに掠めた。チクリとした痛みと共に、腕に赤い筋が走り、その周囲がじんわりと痺れ始める。
「ポイズン・ヴァインか! しまった!」
ローランはすぐに薬草で手当てを始める。幸い、傷は浅く、毒も微量だったため、痺れはすぐに引いていった。
アークは、切り落とされた蔓の切れ端を、こっそり鞄にしまった。
そして、アークはハッとして顔を上げた。
ポイズン・ヴァインが潜んでいた、さらに奥の茂み。
昨日から感じていた、あの「聖なる痛み」の気配が、今、すぐそこから、より強く、より必死に、アークを呼んでいる。
アークは、なぜか確信していた。
母を救うための希望と、この森が発する痛みの根源は、同じ場所にある、と。
「ローランさん……」
アークは、茂みの奥の暗闇を真っ直ぐに見つめて言った。
「僕、行かなきゃいけない。あそこに、僕を呼んでる何かがあるんだ」
ローランはごくりと喉を鳴らした。長年の戦士としての勘が、茂みの奥に潜む「何か」に警鐘を鳴らしている。だが、それ以上に、目の前の少年の瞳が放つ、預言者にも似た絶対的な確信から目が離せない。
彼は意を決した。己の経験則よりも、この不思議な少年の直感を信じる、と。ローランは鞘に収めた剣の柄を、覚悟と共に強く握りしめた。
***
最後までお読みいただき、ありがとうございます。面白いと思っていただけましたら、ブックマークや評価、フォローをいただけますと、執筆の励みになります。




