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(健之その五)うわのそらの浮かぶもの

 真愛とパートナーになり、次に開けた扉の先には誰もいなかった。

 様々ものが置かれ、そのどれもどこか僅かに歪んでいる。目の錯覚を利用したもので実際には部屋自体が傾いている為、それに気がつかなければ斜め後方(正しくは真上)から落下してくる吊り天井によって圧死する。

 だが常にあたりを注意深く観察する臆病な僕らは、無事押し潰されることなく部屋を出た。

 その次の部屋はみかたの番人(これは推定だが)、がただ座っている狭い部屋だった。進路は一つ、奥に扉があるきりだ。その為会話することは避け、ただ会釈だけを交わして素通りした。

 そして次の部屋。 ここまでに分岐はない。

 薄汚れた壁紙に包まれた暗い部屋。無人。いくつかの液晶モニターが様々な角度で壁に貼られている。中央に大きな机。その前にタイヤのついた椅子がニ脚。机上はノートパソコンとマウス。

 それだけ。他になにもない。つまり出口もない。行き止まりの部屋。

「と、とりあえず、座ってみる?」

 それ以外何も思いつかなかった。真愛は黙って頷き、僕に続いて椅子に座った。イスにもたれると冷えた汗が背中にあたった。

「確認時間 残り 三百秒」

 腰掛けるとほぼ同時、抑揚のない女性のアナウンスが上からふってきて、目の前のモニターに映像が浮かぶ。

 画面は三分割されていて、それぞれ長細い部屋の中が映し出されている。画面の右と左は動かない何かが置かれ、画面中央はカメラに背を向けた人間が座っている。頭部に何かを被っているのか、または頭部が異常な形をした人間。いや、番人か。

「あれなにかしら。右側の部屋にある銀色のやつ。扇風機? しっぽのようなものがついていますね」

 真愛が上ずった声でそう言った。

「しっぽじゃなくてレールかもしれない。どうやって空中に浮いてるのかはわからないけど。たぶんあのレールの上を、あのシルバーの扇風機みたいな機械が走行するんじゃないかな。で、羽の部分が回転して」

 きりつけてくる・・・、ようにしか見えない。それも素早く走行されては避けようがない。レールは所々で上下左右に軌道が変化し、またはねじれている。その為避けるには伏せる、飛び上がる、壁に張りつくなどの判断が必要だ。まあそういった趣味の悪いものでないことを祈りたい。

 もう一つの部屋には人間の形をした像が二体立っている。寺院などで見かけるような、そうでないような。

「ねえ星川さん見て? それぞれの部屋に名前が書いてありますよ」

 真愛に言われて見ると、ごく小さな文字でそれぞれ部屋ごとにタイトルが貼られている。二体の像が立つ部屋は神々(かみがみ)の部。中央の人間がいる部屋は塩水えんすいの部。右側の扇風機の部屋はそらの部。

「うわ!」

 背をむけていた塩水の部屋の番人が、振り返って数秒だけこちらをみた。偶然ではなく、故意にこちらをみたかのように。

「か、かおみえました?」

「え、顔までは良くわからなかったけど」

「顔がね・・・、顔っていうか、頭全部が魚になってるっていうか。体は人間なの。でも首から上は魚。あっ、あれ!」

 そういって真愛が僕達の頭上に貼り付けられているモニターを指差した。モニターには塩水の部屋を上から撮った映像が新たに送られてきていた。男は鉈のようなものを砥いでいた。

 その他のモニターにも、それぞれ映像が届き始めていた。僕のすぐ近くの壁には全ての部屋を上から映した画面があった。上から見ると三つの部屋は、一つの場所から三又に分かれてのびている。

「久遠さん。あれ、なんてかいてあるの? 分岐点の中心にある黄色のまる、とか赤いまるの中」

 映像が粗いのか、乱視のせいなのか僕には画面が見えづらいが、真愛には見えているようだった。

「分岐の中心に一つだけある黄色まるが安全地帯、です。それでそれぞれの進路の途中、鉄格子の手前にある赤色サークルが始発地点? ってかいてあります。それとどの部屋にも扉がありますね」

 各三つの部屋には、どれも出口と思われる扉が用意されていた。だがどの扉に進む場合もその手前に何かがある。番人がいる場所も、花の形をした扇風機の設置ポイントも、二体の像が立っている場所も全て扉の手前だった。どの部屋も障害を越えていなかければ扉には辿りつかない、という配置になっている。だがどの部屋も一様に、さらにその手前を鉄格子が塞いでいる。

「星川さん、ここに私たちがいく? のでしょうか」

「ああ、うん。たぶんそういうことだと思う。三つの中から一つを選ぶ。鉄格子が上がるのに合わせて、赤色サークルの中からスタート。扉まで走る。距離はどのくらいだろう」

「百メートルくらい、かしら」

 おおよそ想像はつく。そのスタートラインから百メートルの距離を走るのだろう、しかしその途中にある(いる)障害物をどうやって躱すかが問題だ。ただ素通りさせてくれればなんの問題もないが。

 僕らのその想像を追い掛けるようにして、頭上から降ってきたアナウンスがそう告げた。それは僕らの想像を概ね肯定する内容だった。続いて補足。

「選択できる部は三つの中から一つの部のみ。制限時間が終われば、部の移動は不可能になる。時間内に選択した部の始発地点サークル内に進むこと。スタート時間と同時に鉄格子が上がる」

唇と喉の乾燥が増す。

「今の説明って、鉄格子があがったらその先に進んで奥の扉をあける、っていうことですよね」

 真愛にそう言われて僕は頷いた。仮に番人がいる部を選択した場合、鉈を持った男の横をすり抜けて扉までたどり着かなければならない。番人は今はゆっくりとした動きで鉈を研いでいるが、実際はもっと俊敏であるかもしれない。

「こ、こわいです。ここは危険すぎませんか? 元来た道を戻ったほうが」

「ああ、うん。そうか」

 真愛に言われて戻る選択もある、と気がついた。確かにここまで分岐はなかった。しかしそれでも白闇の場所まで戻れれば、また違う進路を探すことができるかもしれない。もしそれが叶えばこちらの進路よりは安全に違いない。そう思いつくと僕はすぐにイスから立ち上がっていた。

「ブーゥ、ブーゥ、ブーゥ」

 立ち上がるとすぐに警告音のような音がなり、あわてて座るとその音は止んだ。もう一度立ち上がってもやはり同じ音がして、元来た扉を開けようとすると「警告はこの一度だけです」という声も降ってきた。怖くなってイスに座ると声も警告音とともに消えた。

「に、逃げられないみたいだ・・・。あ、あきらめてこっちに集中しよう」

 逃げ道はない、という事実を知っても覚悟のようなものは生じなかった。それどころか心臓を揉まれているような圧迫感が増す。反対に真愛は青い顔をしている割に、僕より冷静に状況を確認していた。

「でも星川さん、あれですよね。あのもし、魚あたまの人があやめる番人じゃなくて、実はうそつく番人、ということもありますよね。もしそうなら鉈はただのカモフラージュで、私たちに危害を加えることができない。ということになりませんか」

 その場合はこの真ん中の部屋が最も安全なルート、ということになる。

 その通りだ・・・。発想も悪くない。頼もしくさえ思える。だがその程度の根拠で、ああそうかもねと容易に選択できるほど半魚人とその刃物の威圧感は安くない。背を丸めているがその筋肉質な上半身からは、男が長身であることも想像できる。

 とはいえ他の二ヶ所も気味の悪さでは引けを取らない。

「進路を全て棄権しポイント乞食となる場合、衣服以外の持物、残ポイント全て破棄すること。ただし乞食部屋の空室数に応じた人数以上は乞食になることはできない。

 乞食部屋へ移動したものは、新たにこの部屋に入ってくる人間の死亡パターンを予想し、的中させることで加点。獲得した加点が九十九万ポイントに達した場合、そのポイント全てを支払って元の人間に戻り、更に安全な進路へ進むことができる。だが最初に破棄したポイント及びその持物は戻らない。乞食部屋は常時三部屋。なお満室の場合このアナウンスは流れない」

 音声が終わると、乞食部屋と思われる画像が新たに別のモニターに届いた。こちらも三つの部屋が上から映し出されており、モニターの端に「在2・空1」と記載があった。一人は入れる、ということだ。そして在、と書かれた場所には人間、と思われる者がそれぞれ床に座っていた。長い間髪を洗っていないのだろうか髪の毛が原形を留めていない。いや、あるいは汚れてひどく傷んだモップのようなものを頭にかぶっているのかもしれない。いずれにしても餓死はないが風呂もない、といったところか。更に言えば清潔を保てない、ということは病にかかっても処置されない、ということに近い。

「し、死亡パターンを予想・・・って」

 青い顔の真愛が呟いた。人がどうやって死ぬかを予測しろという。乞食部屋という安全地帯の中にあって、それを的中させていくことで自らの命が保証される。

 バスで会った女の番人もそうだった。この回廊は単に人を殺める、という以上のことを要求してくる。個人の尊厳を黒く塗りつぶしてからミンチにしていくような。そして自身の醜さを引き出すことができた者のみ身の安全を保障する、というやり口。

 あの時もそうだが、この回廊は人を行き止まりに追い込んでから選択をつきつけてくる。追い込まれた人間は、仮にそれが殺人であっても正当化してしまう。バスの車内にいた時の僕や、あの傘田という男のように。だが、あの時と今では一つだけ大きく異なることがある。

「し、死ぬか殺されるパターンをあてる? ってことですよね。だとすると、ここの部屋は生存できる確率のほうが低い、ということでしょうか」

 青みがかった横顔で真愛がそういった。そう。バスの時とは違う。今の僕は不安や恐怖と独りで対峙しているわけではない。隣にパートナーがいる。

「わからない。けど九十九万ポイントを貯めるまで乞食が生存できるのか、っていう問題もある。 だって実弾の入った拳銃が四千五百ポイントだよ?」

 そう。そして白闇を走るバスから飛び降りて得たのが三万だ。切った張ったのやり取りをしないで済むのなら、真愛を出し抜いてでも僕だけが乞食部屋最後の一つ枠に入りたい、という卑怯な考えは当然ある。しかしその部屋に入ること事態のリスクも同等ではないのか。

 毎回実に狡猾な選択肢だ。正義感や道徳心の入った引き出しというのは、自身が安全な場所にあってこそ見つけられるし、使うこともできる。しかし命の危険が伴うような状況下では、その場所がわからなくなる。あせって目に付いた引き出しを引っぱってしまえば、空洞の深い闇がこちらを覗く。

「選択時間残り二百秒」

「ど、どうしますか星川さん、選択しないとならないみたいです」

 真愛が僕に呼び掛けた。不確定な情報が多すぎて的を絞れない。制限時間が焦燥感を煽る。

(確か、真愛をバスから突き落そうとしていた時の腕輪の表記は、一万分のゼロ。だったはず)

 つまりそれが実行犯として人を一人殺め、無事ミッションを成功させて得られるポイントだった、とする。強引ではあるが今僕にある判断基準はそれぐらいだ。だとすると乞食が人の死にようを当てて九十九万を得るのはいったい何百人後の正解なのか。

乞食部屋という安全地帯の中でただ予測するだけ、という結果報酬と、あの白闇のバス車内で自身の命をかけて行う成功報酬とを、百歩譲って同じ程度と仮定する。それでも九十九回目の正解時だ・・・。外に出られるのは。

 その末に安全な進路が約束されるというが、乞食になる選択肢そのものが安全性を欠いているのではないか。窓もない部屋で、あるのは机とモニターだけだ。僕が確認したその部屋には他になにもなかった。寝具は? 足を伸ばして寝ることは? 食事はあるのだろうけど、何もないということは箸もない、ということではないのか。モニターの死角になっているところにトイレくらいはあるかもしれないが水洗なのか。風邪を引いたらどうする。熱が引くまでひたすらコンクリートの上で震え続けるだけではないのか。

 次々に乞食になるリスクが浮かんで、僕は途中で思案をやめ未練を断ち切ることにした。

「僕は乞食部屋にはすすまない。久遠さんはどうする?」

 僕は汗ばむ手を握りながらそういった。すると青い顔の真愛が「わ、わたしも」と上ずった声で同調した。そしてメインモニターに表示された部の選択、という枠にそれぞれタッチした。

 するとゴオオ、という音をたてて壁が動きスライドした。壁の向こうはさっきまでモニターで見ていた風景と同じだった。同時に腕輪が振動した。みると五万分のゼロという表示。

バス停の時でさえ三万・・・。それもその得点三万は・・・、

「標的である人間(真愛)を庇い、突き落とすことなく勇敢に行動し、その結果奇跡的に番人の銃弾から逃れ生還することができたから得られたポイント」だ。

と・・・、これは本来の一万点というクリアポイントに、回廊がその経緯と結果についてさらに二万点加点するにいたったであろう見解だ。しかしこれは見た目から判断された見解であって中身は違う。実際のところは、

「他人を出し抜く勇気さえ出ず、ただ腰抜けが腰抜け故に逃避した結果、まぐれでそういった類の高得点行動と合致しただけ」である。そのまぐれ当たりが三万ポイントだ。

 その上を行く難易度をこの場所は示している。強がって乞食部屋を選択しなかった自分をはやくも悔やむ。

「選択時間残り千秒」

 先程までの女性の声がそう告げた。目の前にある三つの進路から、どれか一つを選択しなければならない。

 右はシルバーの花びらがある部屋。中央は半魚人。左は石像の部屋だ。どこを選べばいいか、何も思いつかないわけだが、心理的に中央だけはどうしても選びずらい。理由は魚の頭を持つ男が鉈を研いでいて恐ろしい。

「ただしき部を考え、三つの部の内より一つのみを選び、そして行動せよ。それは人の想像でうかぶものではない。理解の中にもない。ただうわのそらに浮かぶもの。それこそがただしき道へ誘う」

 それまでのアナウンスや残り時間を告げる音声は人間の女性のものだったが、そのヒントを告げている、と思われる今回の音声のみ機械的だった。


「ヒント? なのかな。うわのそら、ってところがポイントみたいですけど。難しく考えてもわからないから、なんとなく六感のようなものを使って選べば良い、というような意味ですかね」

 真愛の言う通り、おそらくはヒントなのだろうが、それが何かの意味を持つようには思えなかった。しかしスピーカーには回廊の印が入っている。つまり意味のない言葉を発することはない。

「ぎぃ、ぎぃ、ぎぃ」

塩の部屋から鉈を研ぐ音が聞こえる。 三又に分かれた進路はどこも薄暗く、重厚な鉄の内壁が冷ややかな表情を湛えている。それが鉈を研ぐ音と交互にやってきて静寂さを際立たせた。三つの部の内、二つは人間を殺傷するためのもの、と仮定して間違いないだろう。

 なんということはない。回廊を通る人間で敗者復活戦を行います、といえば聞こえはいいが実際のところは戦場に放り込まれたようなものだ。ここにルールはあっても、法や治安はない・・・。僕らが生まれながらに有していたその権利が。

 もっともそれは当たり前にそこにあったわけではない。歴史上の多くの犠牲の上に人が手にした権利だ。戦地のような場所に放り込まれて、僕は今更そのあたりまえを思い知らされている。


「どうしよう、星川さん? 鉈、研ぎ終わったみたいです」

 真愛の水色の瞳が、不安をもてるだけ抱え込んでこちらを見つめている。

 魚頭の男が鉈を研ぎ終えると、辺りから音が消えた。静けさが重りのように耳にのしかかる。うわのそらで頭の中にうかぶもの、そんなものをイメージできる雰囲気ではない。今この場所に立つ重圧に、平常心を保って対峙するだけで精一杯。そこに収容能力のほとんどを動員させているといって良い。

 そんなぎりぎりの僕を嘲笑するように、今度は扇風機 ーのようなものー がその羽を回転させ始めた。ゆっくりと回転したり、速く回転したり。まるでウォーミングアップ。その羽の動きに加え、本体は赤い光の点滅を始めた。ゆっくりとしたその点滅は航空障害灯のようで、高速回転する際に出る駆動音は、チェーンソーの刃のそれのよう。

「星川さん、あの羽にあたったら」

 現物を見て扇風機の用途に気がついた真愛は、今にも泣き出しそうな悲痛の色を浮かべた。だが一緒になってハの字眉毛を作っている場合ではない。何か手掛かりを探さなくてはならない。と、そう思うほど、頭の中は冷静さを欠いていく。

(どうしよう。何も思いつかない)

 思わず口に出そうになり、慌てて口を閉じる。僕は仕方なく習った通り、基本に戻ることにした。オレンジの受付で言われたこと。

「どうしたって心臓は平常運転してくれないし、あせれば人は余計混乱してしまう。ですのでまずは状況整理。置かれている状況を客観的に並べていくの。なるべく憶測、推理は入れずに事実だけを順序よく並べるのがコツね。それを頭の中でやると、バランスが少し取り戻せるわ。理由は自身のおおよそ置かれた状況と問題が浮かびあがるから。すると人って考えるのね、自然と。そうなれば恐怖や焦りに囚われていた脳が、思考側に移行されてくる。

 そこで第二段階。質問するわけね。まあ、これは回答してくれる対象があれば、の話だけどとても大事なの」


 と、いうご丁寧な七三女の説明を思い出し、言われた通りにやってみる。

 左は石像。中央は魚男。右が扇風機。

 この三つのルートから一つを選択し、時間までにスタート地点に入る。時間になったら選んだルートの先にある扉に向かって進むこと。その奥に位置する扉が僕たちの目標だ。

 各ルートに入る手前に鉄格子がある。もちろん魚男や扇風機はその格子の奥に位置する。

 格子の手前に各ルートとも始発地点、と床にかかれたサークル。さらにその手前までくると分岐路で、今僕が立っている安全地帯と書かれたサークルだ。そして僕たちの後方には一本道があるのみで、その突き当りに乞食部屋と書かれたドア。こちらに向かって少しだけ開いている。

 ヒントと思われる言葉は「ただうわの空に浮かぶもの」、つまり深く考えるな。


 整理するとここまでが今与えられた状況だ。

 深く考えるな、というヒント通り選ぶなら石像 ー 左のルート ー だろう。中央と右のルートは露骨に僕らを殺傷しよう、というやる気が滲み出ているからだ。

 ここまでのことを頭の中で再確認をしてみると、オレンジ受付の女が教えてくれた通り少しだけ精神面のバランスが取り戻せた。依然として手の汗がにじむ状況ではあるが、先程までのように焦燥感に支配されてはいない。

(よし。ではいくぞ)

 第二段階。

「久遠さん、とにかく質問してみよう。良い?」

 青い血管が所々浮いているパートナーが、雪より白い顔をして頷いた。

「じゃあ、まず。正面の番人? からだね」

 そういって二人同時に安全地帯のサークルを出た。途中にある始発地点、というサークルを過ぎて鉄格子の側までくると足音は大げさな程床に吸い込まれた。冷たく感じていた周囲の空気も、そこまでいくと然程でもなくなった。格子の向こう側、四、五メートル先に魚頭の男が床に座っていた。

「そ、その鉈は何に使うものですか」

 僕がそう言うと、背を向けて座っていた男はゆっくりと立ち上がった。そしてこちらに向きを変えた。男の足元に錆びた燭台が並んでいる。傍らにはナイフとフォーク。だが皿はない。身体に鱗やえらがある、というのが半魚人のイメージだが、この番人にはそういうものがない。

「おまえはタールがまとわりついている、食べるなら奥の髪が長いほうだ」

 そういって男は真愛の体を下から上まで見た。二メートル近くあろうかという上背。逆三角形に引き締まった肉体。鼻が長い。

「食べる? 僕たちをか」

「とても空腹だ。邪魔をしなければ臭うほうは生かす。髪の長いほうを食す。殺して肉が不味くならないよう、生きた状態で食べる。鉈は皮を削ぎ落とすのに使う」

 そういうと男は丸い瞳で真愛を見つめたまま、突然鉄格子に向かって鉈を振り上げた。

「きゃぁぁっ」

 金属通しが衝突する音と同時に、真愛の悲鳴が天井を抜く勢いで響いた。男は非常にスローではあるものの、とても重みのある一振りを格子に振り下ろした。その場で格子を貫いた鉈がこちらにまで届いても不思議ではないほどの迫力があり、なにより僕にもそれはすぐわかった。これが殺意というものだろうと。その動作があまりに衝撃的だったため僕にだけスローに見えたのか、それとも本当に老人のように遅い動きなのかはわからない。こうやって間近でみると愛嬌のない丸い瞳は異常に不気味であり、その場で座り込んで戦慄いている彼女も決して大袈裟な反応ではない。僕も足が震えていた。

 男は再び格子の奥に戻って座った。贅肉のないその身体は、おそらく俊敏に動くのだろう。わざと老人のような動きをしているのは、こちらを油断させるためか。恐怖心を煽るためか。

「久遠さん、ここはもう良い。ほかの二箇所を見に行こう」

 そういって僕は床に尻餅をついている真愛に手を差し出した。だが彼女は首を縦に振っているものの、僕が差し出した手をつかもうとしない。仕方なく脇に手を入れると今度は首を横に振った。

「ご、ごめんなさい」

 辛うじて聞き取れる声で真愛がいった。どうやら震えて立ち上がれないらしい。だが僕も震えて力がはいらない。彼女を背負ったりはできそうにない。

「うん、じゃあ少し座ってて。僕が他の部屋をみてくるから」

 自身の足の震えを悟られぬように立ち上がり、目だけで盗み見た真愛の横顔も震えていた。それをみた瞬間、脳裏に白闇のバス車内が逆行再現された。震える彼女を蹴り落とそうとした僕と、その震えた足。

 慌ててその回想を記憶のすみに押し込む。下を向いてかぶりを振る。あの時とは違う。いまは彼女を守る側だ。僕は背面に向きを直した。

(まずは左の部屋。神々の部へ行こう)

 気を取り直し、安全地帯と書かれた分岐点に戻った。深呼吸。三たび。

 足の震えはまだおさまらない。仕方なく床に座り込んだ。大したことはしていないのに、寝ずに働いた朝のような体の重み。来た道を振り返ると、塩水の部では男がこちらに背を向けて座り、また何かをしているようだった。鉈を研いでいる時のような音がするが、鉈自体は男の傍に置かれていた。真愛はうずくまったままだ。

「選択時間残り八百秒」

 容赦ないアナウンスを聴いて、僕はすぐに立ち上がった。足の震えはおさまりきらないが、神々の部へ向かって歩を出す。

 先程のような生温い空気に代わり、まとわりつくような水蒸気が一歩ごとに体を包む。真愛の鼻水をすする音が、こちら側へ来ると聞こえなくなった。パートナーが視界にいない、というより独りでいる、というだけでこんなに余裕がなくなるものなのか。

(あの像に質問しても無駄だろう。様子だけ確認してすぐ戻ろう)

 僕は格子の少し手前まで来て止まった。あたりは静まり返っているものの、時折隙間風のような音が過ぎる。風神と雷神。僕の記憶の範囲で、そういう呼称であったはずの二体の神。その像が格子の向こうに立ってこちらを見ていた。

 石を彫ってつくられた像であろう。しかし瞳だけが光沢を持って前を見つめているようにも思える。もしも像のふりをして静止している番人であったら。背筋に嫌な寒さが走る。

(と、とにかく不自然なところがないか、それだけ確認して戻ろう)

 辺りは異常な水蒸気に満ち、隣の部屋とこうも湿度が違うのだろうか。そして神の像。それが二体。他には何もない。僕が知っている通り、太鼓や風袋を持っている。

 基本に戻りまずは質問から。と、いうのは遭遇しているのが像ではなく番人の場合だ。とはいえ特殊メイクを駆使して像になりすましている番人、であるかもしれない。その有り得ない可能性を考慮し、念のため声だけは掛けておこう、という我ながら見上げた臆病者加減。

「風神、雷神像。で、ですよね?」

 何も反応がないことに安堵する。が、調子に乗ってもう一言。

「そ、そちらをこのあと僕らが通っても構わないですか」

 その瞬間爆発音が轟いた。驚いた僕は尻餅をつく。同時に隣室からパートナーの悲鳴。

 横を見ると、今立っていたすぐ左数十センチの距離。その壁から硝煙が上っている。事態が飲み込めないが、音がする直前、一瞬だけ雷神の目が光ったような気がする。その直後、左側面からものすごい音と爆風があり僕は床に尻をつき、そして心臓のあたりを手で押さえている。

 いま、いったい何が起こったのか、について推測の断片がすごい速度で脳内を飛び回る。

(もしかして、いかづち・・・、が飛んできた・・・、ということなのか)

 だがバスで出会った番人が持っていたような、もはや反則技というに等しい銃が存在したことを考慮すればあり得なくはない。仮に雷神が何かをした、という演出の爆破装置だったとすればまだ救いがある。僕が発した声か何かが、起爆装置に触れたという種類のものなら。

 だが雷神がいかづちを放った、という事態だとすると相手は像でも置物でもなくもはや神そのもの。

(神が威嚇してきた、ということなのか)

 次は当てるぞ、という意味の。

 さっきまで壁だった場所が、穴、に変わっていた。先程までの静寂に代わり、穴から吹く風の音がヒューと音をたてている。理由のわからない胸の重たさと、二射目がくるかもしれないという恐怖。少しずつ立ち上がると、物音をたてぬよう忍び足で安全地帯に向け歩き出した。すると壁の向こうから真愛の声がした。

「ほ、星川さん! 大丈夫ですか」

 その声に反応するかのように第二射が光った。

 背後から放たれたいかずちは僕をかすめて目の前の壁に命中。バーンッ。衝撃音を追いかけてパートナーの悲鳴が再度あがる。壁からまた硝煙がのぼった。第一射の時とは違い、今度は尻もちをつかず走り出していた。明らかに僕を狙って放たれた閃光。かすめただけ、とはいえ側頭部が痛む。物音をたてて走っては、第三射が放たれるかもしれない、という不安も入り込む余地がない程夢中で走っていた。そして全速力で安全地帯に駆け込んだ。

「星川さん! けがは? けがはないんですか」

 安全地帯に戻ってみると、真愛は先程の位置から動いていなかった。同じ位置にお尻をつけたまま、首から上だけを僕の方へ向けていた。

「うん。だいじょうぶ」

 頭部に手をあててみると流血はしていないものの、僅かにただれているかのような傷みと、抜け落ちた髪の毛が手のひらに付着した。それはつまり壁の仕掛けがセンサーなどで勝手に爆発したわけではない、ということを示唆していた。僕を狙って放たれた何かが、僕をかすめて壁に命中した、ということになる。

 目に見えない速さに加え、砲撃というほどの威力。例の光るピストルよりも強力ではないか。あの鉈がイージーに思えてくるほど。

「星川さん、なにが、あったんですか」

「うん。た、たいしたことじゃない。壁がば、爆発したんだ。それより久遠さんは? 立てそうもない?」

 真愛が首をふると、頭上からアナウンスが降ってきた。

「選択時間残り四百秒」

ただ残時間を告げられただけでも呼吸は乱れる。

「ごめんなさい。もう少しで立てると思います」

「うん。まだ時間はあるから、そこでじっとしていて。これから右の部屋をみてくるから」

 そういって再び安全地帯のサークルを出る。僕が一人きりであったなら、彼女のように怯えてうずくまってしまったかもしれない。しかし実際の僕はうずくまっていない。バスの車内でもこれと似たような経験をした。それは震える彼女の姿を見る、という行為がまるで僕を落ち着かせているかのようだった。

「ご、ごめんなさい。足を引っ張ってばかりで」

 背中越しに真愛の声がした。足を引っ張るという表現をされても、彼女に苛立ちを覚えたりしなかった。それどころかこれは役割分担、なのではないかと考えている自分がいた。彼女が前面で緊張や恐怖を多く受ける。そのぶん身軽な後面の僕が行動や、判断を引き受ける。このつまり均等に仲良く分け合っていたなら共倒れせざるを得ない緊張や恐怖を、極端な比率に分けて担うことでそれを防いでいるのではないかと。それも野生的危機感が介入して。

「ウィーッ、ウィーン」

 僕が部屋の格子に近づくと扇風機は今まで見せたことのない速度で前後に走行した。それは ー僕が近づいたことを感知できるー という向こうの優位性を、こちらに伝えるための動作にもみえた。だがこちらはあのいかずちを放たれた後なのだ。どうという事はない。

 宙の部と書かれた部屋。レールは縦横入り組んで配置されている。だがそれはレールの軌道上にいなければ扇風機の羽を回避できる、ということでもある。常に追跡されるかたちで襲われるとしても、レールから本体が降りる、という展開がなければ攻略法はある。

(問題はあの部分だな)

  一部腰の高さで八の字の輪を描いているレールがあり、そこだけは攻略法が見当たらない。

・壁際は横向きにならないとすり抜けられず、素早い通りぬけが不可能。

・しかし奥行きもあるため、一度に跳び越えることも困難。そのためハードルの要領で輪の中にいったん着地する必要がある。やはり通過するには減速が伴う。

・ならば、と這いつくばってレールの下をくぐることもできるが、そこがこの八の字の肝、といえる。このレールは途中で扇風機の羽向きが変わるよう敢えてメビウスの輪のような軌道をしている。故に下にもぐられても、きりつけることができる。

 対策としては羽が上を向くタイミングで勢い良くスライディングして向こう側へ出るしかない。

 その他にもこの部屋には問題点がある。所々狭窄箇所があり、二人同時には渡れないこと。一人ずつ、となると僕が彼女を手助けすることができない。それともう一つ。時間までに真愛が走れる状態にもどるかだ。

 ここまでを勘定にいれてしまうと、どの部屋をどう攻略するか、ということではなく正解の部屋を割り出す。という道しかない。二人が共に生存してここから抜け出すには。

 正しき道へと誘う、とアナウンスが告げた ーうわのそらで浮かぶものー にたどり着くしかない。

 うわのそら、というキーワードに関連付けて考えてみると、まず思い浮かぶのは魚頭の男だ。両サイドの部屋の難易度に比べてしまうと、消去法でこの部屋、ということになる。もっともそれは男があやめる番人ではなかったら、という前提においてだが。

 この部屋に絞らないまでも、消去法でいけば雷神の部屋以外だ。あそこには近づけない。うっかり覗くだけでも命を落とす危険性がある。

「選択時間残り三百秒」

再び残り時間を告げるアナウンスが響いたその時、全く予期せぬ事態が起きた。そして心臓が跳ね上がるようなインパクト。

「グガガガガガカ」

 いま目の前で鉄格子が上がり始めていた。

「なっ! おいっ、ちょっとまって!」

 話が違う。最初の説明では、選択時間が終わるまでは安全のはずだ。だが鉄格子が上がってしまっては無効だ。

「キャッー」

 真愛の悲鳴。慌てて安全地帯に駈けもどる。鉄格子は三方全て同時に上がっていた。

(ど、どうすれば良い)

 まだ何の考えもまとまっていない。鉄格子が無くなれば、あの魚の男と僕達を隔てるものが何もなくなる。いま僕だけは安全地帯と記されたサークルにいるが、真愛はその先の始発地点よりさらに先、鉄格子のすぐ側で動けないでいるのだ。

「久遠さん、起き上がってこっちに来て! ここまで走って。安全地帯に避難しなきゃ。はやく!」

 彼女は上体を起こし、両手を足の代わりにしてこちらにむかっていた。悲鳴を引きずるように一歩ずつ。鉄格子はゆっくりとではあるものの、地響きのような音をたてて上に進んでいる。

「どうした! 立って走って!」

「だめなのっ! 足が、、手にもうまく力が入らない」

(無理だ、とても間に合わない)

 動きが遅すぎる。手をかしてあげたいが、それには僕がこの安全地帯を出なければならない。それは出来ない・・・。

 脳裏に真愛が殺される瞬間が過ぎる。怖くなって目を閉じた。

(・・・)

 目を閉じると瞼の裏を横書きの文字が右から左にすごい勢いで通り過ぎる。

ここで一人になる。

死体を置いて逃げる。

この先、分け合っていた恐怖も一人で背負う。

ここからは孤独。

あの時も突き落とそうとして

今度は見殺しにしようとする。

これからは死ぬまでずっと一人。

死ぬときも。

・・・

・・・

「くそ!」

 僕は頭を強く振ってサークルを飛び出した。

「だめ! あなたがそこを出てしまったら! あなたまで殺されてしまう!」

 僕は思わず足を止める。彼女の言葉の意味がよくわからなかった。だが視界の奥で素早く立ち上がる魚男の姿を捉えると、それがスイッチとなってまた走りだした。

 鉄格子に向かっておとこが走ってくる。その動作は機敏で先程までと比較にならない。やはりわざとノロマな動きをしていたのだ。

 間に合う気がしない。だが迷いもない。全力で駆け寄り、そして真愛を両腕で抱え上げ安全地帯に向けて踵を返す。

(おもい)

 抱き上げてみると彼女は予想よりも重かった。こんな場面で筋力をつけてこなかった過去の自分を悔やむ。だがそれでも迷わなかった。僕にしては上出来だ。

 恐怖のあまり必死だったのだろう。鉄格子の上がる音が止んでいることに気がついたのは、安全地帯のサークル内に入ってからだった。振りかえると格子は途中で止まっていた。魚の男は途中で止まった格子の前に立っていた。それをみて僕はすぐに膝を折る。その頭上からアナウンス。

「選択時間残り二百秒」

 真愛を床に降ろすと、彼女は置かれたままの格好でそこに座った。腰が抜ける、という状態を聞いて知ってはいるものの、実際にはみたことがない。こういう状態を指すのだろうか。真愛は震えが止まらず、顔を上に向けることもできない。この状態でスタート時間までに走れるようになるとは思えない。動けない彼女と共に行動するとなると、ルート選びが自身の生死にかかわる。

 三択。しかしどの道を選んでも生還できる気がしない。どこへ行っても殺されるのではないか。

 それではどうすれば良い。何も思いつかない。だが何も思いあたらない時、なぜ人は周囲を見渡すのだろう。僕は周囲の壁に目をやったあと、後ろを向いていた。そしてうわのそらで思い浮かんだ。

 第四のルート。わずかに開いている乞食部屋の扉。扉の奥は暗闇で何も見えないが、あの向こう側を確かめてはいない。アナウンスは三つの部の中から一つを選ぶことを指示している。だがその三つが必ずしも三箇所の鉄格子の向こう、とは限らないのではないか。あの始発地点のサークルから、合図とともに乞食部屋の扉に向かって走る。という選択もあるいは。

 しかしそれでは三つのルート、とはあとどれとどれを指すのか。その疑問を頭に浮かべたまま、僕は無邪気なほど無防備に首をかしげていた。そして首を斜めに傾けたことと、その視線が乞食部屋の扉の奥の暗闇へ向かっていたこと、そしてその暗闇の隙間からこちらを覗き、僕の死亡パターンを予測しようとしている人間がそこに居たという偶然が重なった。


サトリ


ー 対象が極めて重要と認識した、最も新しい迷いを表示します ー


ーーーチョウザメの部屋を選ぶーーー

ーーー花の部屋を選ぶーーー

ーーー風神、雷神を選ぶ可能性はあるだろうか、、、ーーー


『以上です。詳細情報をご覧になる場合は、対象語句をタッチ操作するか、または対象語句を二秒間見つめることで詳細情報の閲覧が可能です』


 それは乞食部屋にいる人間の迷いをサトリが映したものだった。驚いている暇も、無駄使いだと後悔している暇も僕にはなかった。三択は残念ながら鉄格子のある三つの部屋を指していて、第四の選択肢などなかった。つまりこの内の一つが必ず正解、ということを指している。

 僕は続けて詳細語句検索を行った。まずはチョウザメ。

『※あくまで対象者の認識として ーーここでいうチョウザメとは ーー 人間を生きたまま食べる、長身の番人、中央の鉄格子の向こう側に立っ

「星川さん!」

 真愛が大きな声で叫び、現実に引き戻されてみると再び鉄格子が上昇し始めていた。

「そんな! まだ選択時間のはずだ」

 先程と同じくゆっくりとではあるが、格子が天井にむかって上がっていく。ぎりぎりのところでまた停止するはずだ。と、頭では予想しているものの、目線は必死に上昇する格子に注がれていた。

 やがて予想通り格子が止まると、安堵とともに僕は重大な過失に気づかされる。サトリの詳細検索は一度画面を閉じると二度と閲覧することができない。チョウザメについての記述を肝心なところで消してしまった。

 だがサトリは男のことを明確に番人、と定義付けた。ーー 人間を生きたまま食べる、長身の番人 ーー と、番人の名称で文が終わっていることから、これはあやめる番人と断定して良いだろう。 もしあやめる番人以外なら、ーー 人間を生きたまま食べる、という設定のうそつく番人 ーー などと続くはずだ。

 それにもう一つ、もはや頼もしいとさえ感じる、この精神補助の副効力。少し大袈裟な表現をすれば、脳内は波紋のない水面のように静寂な状態で維持され始めた。

「チョウザメ・・・、だったのか」

 なぜ半魚人ではないのか。それも頭だけがチョウザメ。どう猛な動物をモチーフにするならピラニアやシャチ、ホホジロザメなどだろう。それともあの長い鼻と無機質な目が不気味さを演出するのに適当なのか。どうもそうは思えないが。

 ただ僕の記憶の範囲ではチョウザメには歯がないか、または鋭利な歯を持たないはずだ。歯がない番人が肉を削ぐための鉈であり、それを食べるためのナイフとフォークなのか、と合点はいく。しかしならば人間の姿でいいだろう。チョウザメである必要がない。

「チョウザメ? ですか? あのキャビアの」

 思わず口に出した僕の呟きについて、真愛が聞き返した。

「うん。どうもそうらしい」

 何の功もなく虚しく浪費したかのように思えたサトリだが、一つだけ大きな手がかりを生み出していた。

「え? キャビアって」

「チョウザメの卵の塩漬けです。たしかカスピ海とかアムール川とか」

 真愛の声はまだ震えている。

「ガー、ガー、ウィーン」

 右の部屋で扇風機の走行が再び始まり駆動音が聞こえる。

「カスピ海か!」

 自分でも予期しないひらめきに思わず大きい声が出る。真愛が驚いてこちらに顔を向けた。

「裏の海、と書いてりかいと読むんだ。内海のことをそう呼ぶ」

 理解の中にもない、とは裏海の中にもない、という字があてはまる。初めに音声で聞いたため、僕は自然と、りかいを「理解」と変換していた。

「だから裏海の中にもない、というのはカスピ海の中には正解がない、という風に置き換えられるんだ。きっと」

「え? あ! すごいです星川さん」

 調子に乗って僕は続ける。

「人の想像、っていう部分はわからないけど、うわのそらに浮かぶもの、というのは宙の部をさしているんじゃないかな。うわの宙に浮かぶもの」

「あ、なるほど。ということは」

「そう。うわの宙に浮かぶもの。ここが正解の道、ってことだよ」

 サトリが示した三つの迷いの中で、唯一神々の部屋についてのみ ー 選ぶ可能性はあるだろうか ー と付言されていた。正解を知っている人間からみても、この部屋を僕たちが選択するとは思えない、ということだろう。

「これで心配ないはずだよ」

 僕は歩けない真愛を抱え、宙の部の始発地点に移動した。スタート前にまた鉄格子が上がってサメの男に襲われる怖さはあるが、サトリの回答を見る限りこれは確実に三択の問題なのだ。もしこれからの進行がアナウンス通りでなく、スタート前に強襲される等サバイバル要素の強いものであったなら、サトリはもっと別の迷いを映したはずだ。故に三つの中から正解を選ぶことによって安全が保証されるとみて間違いない。

「星川さんすごいです。本当にありがとうございます」

「礼はまだ早いよ。少しだけ時間があるから、念の為 ー 人の想像でうかぶもの ー について考えてみようよ」

 そういって僕は真愛を抱えたまま、最後に残った不可解な部分について考えた。

 サトリの副効力は効果絶大だった。さすがは六万四千スティアーポイント。最初に使った時にまして、今は精神状態に余裕があるといえた。

「選択時間残り五十秒」

「人の創造で浮かぶ、とかは? どうかな」

 宙の部の始発地点はとても静かだった。中央の塩水の部も、その向こうの神々の部も物音一つしない。

「人の創造でうかぶ。人のそうぞう。想像と創造。うかぶ。うーん浮かぶ? 人が創造して浮かぶ。創造して浮かんだもの。人が創った浮かぶもの。風船、飛行機、人工衛星、宇宙船、気球? あとなにがあるんだっけ」

「人工衛星って?」

「ビーッ、ビーッ、ビーッ。スタート十秒前」

 天井の赤いサイレンが光り、警報ブザーがあたりに響き始めた。チョウザメの強襲を恐れ扇風機に背をむけたままの僕の上に、カウントダウンが降ってくる。ここが安全な場所、とわかっていても心臓は回転数をあげる。

「九秒前」

 カウントダウンは通常の十秒より長いらしい。

「人口の星だよ、気象衛星だとか、GPSだとか、用途別に種類があって、日本のだとひまわりとか、さくら、あやめ、とか花の名前をしてるやつを聞いたことない?」

 唇を震わせた真愛が、僕の後ろを指差した。振り返って彼女が指差した方角をみると、花の形をした機械的な造りで、いかにも宇宙に浮かんでいそうな人口の星がみえた。その衛星は気味悪く光って、目に見えない高速回転を始めている。宙とは、それ一字で宇宙という意をもつ。

 人の創造で浮かぶものではない。つまりここも不正解、ということだ。再び嫌な冷気が背中を襲う。

「五秒前」

 部屋の鉄格子がすごい速度で上に上昇を始める。

 僕は、真愛を抱えながら必死で神々の部に向かって走る。ウワノソラ、とは上の空、ということか! 風神と雷神は雲の上! 上空に浮かぶとは、雲のことか。

「くっ!」

 おもいきりコンクリートの床を蹴る。

「キィーエーッ!」

 不快な雄叫びとともにチョウザメの男が、鉈を振り上げて走りよってくる。距離から計るに間合いが短すぎる。間に合いそうにない。

「きゃあああ」

 僕の首に両腕をまわした真愛も負けない声で叫ぶ。恐怖で足がいうことをきかない。うまく回転しない。そして僕は躓いた。

「うわっ」

「ゼロ、スタート」

 僕は背中を切りつけられた。だが、躓かずに走っていたら、僕の側頭部には鉈が半分ぐらい食い込んでいただろう。これがステータスの示す強運なのだろうか。魚頭の男が、右手で鉈を振る挙動に入っていたことが幸いした。僕は地面へと倒れ込む最中に、頭上で空を切る鉈の風圧を感じた。そして体制を立て直しながら小さな動作で再度鉈を振った魚頭の男に、僕は背中を切りつけられた。

 だか僕らは躓いた事により、時間切れ直前で真愛だけが始発地点のサークル内に放り込まれた。正しくは彼女の伸ばした腕だけがサークルに入った。そして反対の手で僕の右腕をつかんでいた。彼女の反射的行動。それら全てがうまく連携しあった幸運だった。

 始発地点から白い雲に似た物質が湧き出て、真愛と真愛に繋がった僕の体に合わせ、かたどった雲となり僕らを浮かばせた。浮かび上がる際に、再び右腕を切りつけられた。強烈な痛みが伝わったが、血は垂れるのみで噴出さなかった。浮かび上がった雲は風神が起こした風袋の風に押し出されるように、雷神が開けた壁の穴に向かって流れた。そして僕達は部屋の外に運び出された。

 外界は一面の雲の上。その中にぽつんと一つだけ扉があった。

 僕達は無言のままその扉に誘導され、そして中に入った。

◇◇◇

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