(真愛その五)安い女と薄幸の女
「あ、あの、久遠さん?」
ある日、仕事が終わると間郁子に声をかけられた。
「ああ、間さん。お疲れ様です」
私が更衣室で着替えをしていると、隣に小さな手帳をもった郁子が立っていた。専門学校で栄養士や調理師資格を取得し、卒業後この会社に入社。十五日間の研修を経て私と同じ店舗へ配属になった正社員候補の女。幸が薄そうな女という分類説明が図鑑にあるとしたら、その例として掲載されるのではないか。その連想の影響なのかはわからないが、愛想の良さも、笑い方もどこかぎこちなく感じるその二十歳の女に、私はどうしたの? と、聞く代わりに首を横に傾けた。
「あ、あの私、いつもメモをとってるんですが、どうも要領が悪くて、自分で書いたメモが何に関するものだったか、所々わからない箇所が出てきちゃって、それで、あの、栄マネージャーに聞いたら」
忙しいから久遠さんに聞いてくれない、と言われたらしい。彼女は完璧に記憶しているから、と。
ここで働くものは、食材、産地、調理法、燃料、使用陶器の歴史、料理とその器の相性、取り扱う日本酒や焼酎のプロフィール、その他給仕をすることにまつわる様々な決まりと作法を覚えなければならない。強制的に義務付けられたものばかりではないが、日々の勤めの中でそれらを身につけていかなければならない。
私は失敗の多い接客係ではあるが、必要知識を記憶する能力だけは認められている。栄は以前、私に言った。「あなたほど覚えているキャストはいないわ」と。それを言われた日、私はココアパウダーのかかったカマンベールチーズのタルトを買って食べた。何か良いことがない限りそれは食べてはならない。
「あ、はい。わからないのはどれですか?」
私がそう聞くと、郁子は肩をすぼめた。
「ええ・・・、と、まずこれと、それから・・・」
小さなその手帳は、白い部分が見えない。と、いうほどにどのページも文字で黒く塗りつぶされていた。単色、小さ過ぎる文字、そして改行という概念もない。
「これは・・・」
私はそれだけ言って沈黙するしかなかった。これだけ白いページを黒く埋める労力とその根気。だか後からこれを読み返す者への配慮は一切ない。おそらく彼女はメモを書かないといられないのだろう。いつもの薬を飲みわすれただけで不安になり、一時間かけてきた道を引き返してしまう人のように。
「も、もし、良かったらお茶でも飲みながらにしませんか。間さんも、今日はもう終わりでしょう?」
ニ、三質問してみると迷宮入りしている箇所が多数ある。とても立話で救済できるレベルではないと判断した私は郁子にそう言った。すると暗かった郁子の表情が瞬時にあかるくなり「ありがとうございますっ!」と勢い良く頭を下げた。
彼女が着替え終わるのを待って、私たちは店前の通りを挟んだ向かいのファーストフード店に入った。
「ほんとに、すごいんですね久遠さん。たくさん勉強したんですか?」
主要な部分だけを解読するのにも小一時間かかった。何かの暗号かのように綴られているメモを一つずつ解読していくと、郁子は都度「すごい」といって息を止めた。そして何か尊いものでも崇めるような眼差しで私を見上げた。こちらが恥ずかしくなるほど大袈裟に。
「久遠さん、これだけできるのにどうして契約なんですか? 店舗じゃなくて、本部の社員でもおかしくないくらいだと思うんですけど。栄マネージャーにも薦められたりしないんですか?」
私は急いで首を振る。
「とんでもないです、私なんて。仕事ができない典型的な例だもの。首にならないよう、せめて勉強しただけで。他の事はまるでダメ」
そういうと、郁子は細い目を大きくした。
「そんな! 風には全然見えないですけど。謙遜されてるんですか?」
「ううん。一緒に働くようになればわかるわ」
やがて、謙遜ではないことが、彼女にもわかるだろう。それは仕方のないことだ。が、できることなら尊敬される先輩のままでいたい。そう思う自分も確かに在った。
それが縁で、郁子とは良くお茶を飲みにいった。社員候補として入店してきた彼女は、まず調理場の研修に就いた。接客の研修に入る前に調理場で数日間手伝いをする。仕事の流れを把握させる目的で。
調理場で数日過ごした郁子は、その後接客の研修に入り、私と共に仕事をすることになった。初めは緊張からか失敗を繰り返した彼女も、少しずつではあるが着実に仕事を覚えていった。時折ドジな失敗をする私との差が縮まっていく。やはり尊敬され続ける先輩ではいられそうになかった。だが共に働くようになっても二人の仲は変わらなかった。不思議と郁子は私に苛立ちを覚えたりしない女だった。
それに最大派閥の「一美さんたち」というグループも、郁子に対してはまったく無関心だった。一美は、影で「あのメガネ」という呼び方をして、郁子の名前さえ覚えようとしない。
「来週の月曜日? ああ、うん。特に予定ないわ。一日寝てたりして」
「え、そうなんですか? じゃあ、あの東京駅に新しくできた日本料理のお店、い、一緒にいってもらえませんか? あの、べ、別に迷惑でなかったら」
ある日の帰り道。郁子は私を食事に誘った。彼女はとても勉強熱心だった。和食に関しては、他店にも良く足を運んでいる。私たちの働く店は栄が店長を務める今のフロア以外、つまり他のフロアでは、みな一様に従業員が和服を着ている。私のいるフロアーだけが創作料理、という概念があり和装をしない。だが、郁子は正社員候補だ。その為、いつかはマネージャーと呼ばれる店長になる。本社勤務になる可能性もある。他のフロアでの接客や調理も避けては通れない。彼女は着付け教室にも月に一度通っている。
「ああ、うん。会席膳のお店とか? は無理かな。あ、でもランチならお付き合いするわ」
「嬉しい。本当に良いんですか? わあ、感激です。ありがとうございます」
郁子は常に大袈裟な反応をする女だった。こういう時も目を輝かせて私をみる。
「間さんも、薄々知ってると思うけど一美さんのグループと、七海さんのグループしかないの。でも圧倒的に一美さんたちの派閥が大きくて、私はそのグループから無視されてるの。知ってた?」
「ええ! そうなんですか? 信じられません。じゃ、じゃあ、久遠さんは七海さんのグループなんですか?」
休日に、私たちは待ち合わせをして日本料理の店で食事した。その後、喫茶店に入り、アイスティーを飲んだ。新緑が気持良い半屋外のテーブルで。
「ううん。七海さんたちは、私なんか視界に入ってないわ。あそこは少数精鋭だから」
「ええ! そんな、嘘みたいです。そ、それじゃあ」
「うん、そう。私は仲間はずれの女です。見ててわからなかった?」
郁子はしばらく呆然としていた。
「意外ですね・・・」
そういって、彼女はいつもと違う表情をした。寒い日の朝、玄関のドアを開ける前のような少しだけ眉間にしわの入った顔。
「わたし、高校までは、いじめられっ子だったんです。ほら、こんな顔でしょ? それに当時はメガネも髪型も、なんかすごくださかったので」
「ええ、そうなの? 友達とかは?」
「いなかったわけじゃ、ないですよ。高校に入ってから、最初に入ったグループは、太ってるか、暗いか、髪の毛がパサパサか、はんたいに脂ぎった髪の子。そういうグループにいました。そこで最初の半年くらいは平穏に生活してたんです。でもあることがきっかけで、私がいじめをうけるようになったら、そのグループからもハブにされて」
「きっかけって体育の授業とか? それとも遠足とかの班分け?」
「そうそう! 体育のバレーボールがきっかけです。なんでわかるんですか?」
「あ、やっぱり。始めの頃って、みんな気をつかってるからうまく平衡が保たれるのだけど、体育で球技とかチーム戦をすると思わぬところでそれが崩れたりするじゃない? わたしもハブられるのは常連だったから、学生時代」
「えっ! 久遠さんも? やだ。うそ、ですよね?」
「ほんと。わたしなんて中学の頃、たたり、なんてあだ名付けられちゃって」
「わあ、うそ! 信じられない。でもでもわたしなんて中学の最初のあだ名が隙間ですよ。その後、隙間が発展して、糸ようじとか。他にも空間とか、間っていう苗字と合わせたあだ名つけられて。高校の頃のはひどくて言えませんけど」
それから、互いの学生時代の悲惨な話に花が咲いた。
不思議だった。排他的に扱われていることを、自分から彼女に話した事もそうだ。防衛本能か、そうでなければ郁子とわかり合えるのでは、という希望的観測。どちらが促した言動にせよ、まだそれほど知らない女に対して思い切ったものだ。不思議と彼女の前ではお喋りになってしまう。
「ええ! そうなんですか。ひどいなあ。でも、わたしは逆に、もう少しおとなしくしてれば良かったのかな、っとか思いましたよ。それで、専門学校で実践してみたんです。そしたら、いじめられたりはしなかったんですけど、今度は目立たな過ぎたみたいで・・・。卒業式の寄せ書きを書いてもらおうとしたら同じクラスの女子に、誰だっけ? とか、いわれちゃって。その時周りにいた、その子と仲の良い女の子たちもそれ聞いて爆笑しちゃって・・・。それでわたしも笑ってごまかして、その場から逃げたんですけど」
少しだけ、寒くなってきた昼下がり。郁子は二杯目のフレンチコーヒーを飲みながら淡々と話していた。表情のない声だが、顔は笑っている。緑を日が明るく照らしているが、外気は然程暖かくない。
「でも、誰だっけ? とか笑われて、それは悔しかっただろうけど、できることならそういう子たちのグループに入ってみたかったでしょう?」
自分の本音を質問にして聞いてみた。
「ああ、はい。そうですね。高校の頃、遊んでる女の子達のグループが羨ましかったですから。わたしがもうすこし、面が良くて、天然パーマじゃなくて、下半身デブじゃなくて、笑い方がきもい、とか言われる女じゃなかったらなあ、って。そしたらコンタクトに変えて、真っ直ぐの髪を肩より下まで長くして、スカート短くして、あの子達と仲良くなって、とか。そうできたら楽しいんだろうなあ、って。誰にも気持悪がられたり、いじめられたりしないだろうなあ、て思ってました」
郁子は私と同じような考え方をしていた。仲間外れにされる女としては少数派のそれかもしれないが。
私と郁子は、それからもう一杯ずつ飲み物をお代わりした。気がつくと最後には孝一の話までしていた。古戦場で共に戦ってきた戦友と再会したのではないか、というくらいに私たちは互いのことを語り合った。いつしか別れるのが寂しいと思うほどに。
「なんか、長くなっちゃったね。でも、楽しかった。わたし蚊帳の外の女だけど、これからも仲良くしてくれますか?」
ここまでの言いまわしを他人にしたのは、後にも先にもこの時だけだろう。郁子は相好を崩して私の手を握ってきた。
「何いってるんですか、久遠さん。私だって空気みたいな存在ですもの」
郁子にそう言われ、私たちは両手を握り合った。
この日は人生で何度目かの味方が登場した記念日だ。
(今度の人は間違いない。うん間違いない)
そう繰り返している自分がいた。
帰り道、駅前の商店街を歩きながら私は思い出していた。先日、一美が間違った振りをしてわざと私のまかないのおかずを捨てたことを。これから私への嫌がらせは弥増すばかりだろう。だが、今までの私とは違う。一人ではなくなったのだ。郁子がいる。そして調理場に孝一がいる。
(ああ・・・、辞めないで良かったわ)
商店街に敷き詰められたレンガを、まるで温感のない夕日が赤く照らしていた。私はその上を歩いて家に帰った。
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