(健之その六)一時の休息
雲の上の扉を開けると、そこは細い通路だった。木目調のパネルが奥まで壁面を覆っていた。
「ああ・・・」
そこに番人はいなかった。通路の途中に小さい店があり、販売員の女が一人いる。女は胸に名札をしていた。
安堵と共に傷の痛みに気がつく。死にたくないという生の方角へ向いたベクトルが強かったためか、それに気がつかなかった。足下から這い上がって全身を包もうとする恐怖があったことに。
それらは振り落とされることなく僕の足にしがみついていて、今頃になってじわりじわりと這いのぼってくる。少しずつ、だが確実に。
「星川さん! 血がついてる。どこか怪我した?」
真愛が慌てて僕の体を見回して、背中と右腕の傷に気がついた。
「うわっ! ひどい。痛む?」
というなり、彼女は腰につけたバックから消毒薬のようなものを出し、僕に座れと指示をした。「ごめんなさい。しみると思うけど」
そういって彼女は傷口を消毒し、綿布と包帯を宛がってくれた。僕は震え出す体を、彼女に悟られるぬよう堪えていた。
「星川さん。ごめんなさい私のせいでこんなに・・・、怖い思いをさせてたんですね」
震えにきがついた真愛がそう言った。慰めの言葉をかけられると、それが合図になるかのように恐怖は僕をすっぽりと包んだ。
「これから何人も番人がいて、何回も命のやり取りをするんだ。もう無理だよ。今だってぎりぎりだったじゃないか。次はきっと殺される。次は」
真愛を見捨てるかもしれない。そうすれば今度こそ一人だ。
「なぜ死んでまで、こんな思いをさせられるの?」
もう進みたくも、戻りたくもない。
「なにかがおかしいよ。人間の命はさあ、地球ひとつよりも重いんじゃないの? 教科書にそう書いてなかった?
君だっておかしいと思うだろう? 僕達は事故で死んだんだからもっと楽なルートがあるだろう! 地球上で罪を犯してここへ来る人間と、僕達とで区別されていないのか?」
恐怖と被害妄想、言葉の下から湧いては口から漏れる。
真愛は「落ち着いて、今は大丈夫だから」といって僕の背中を擦った。彼女の声が頑丈に空気を振動させる。
「ごめんなさい。私のせいですよね。こわかったですよね」
彼女の言葉を黙殺した。
「背中痛む?」
「見ればわかるだろう! 痛まないわけないだろう」
そうやって語気を荒げて見上げた彼女の顔は、今にも泣き出しそうな苦しみを浮かべていた。だがそれとは対照的に彼女の声は強く振動し続ける。君の痛みから一歩も逃げる気はない、とでもいうかのような。
「うん。そうよね。痛いにきまってるよね。でも消毒したし、だいじょうぶですから。ここには誰もいないですし」
どのくらいの時間、小刻みに体を揺らしていたのだろう。気がつくと体の震えは治まっていた。真愛の膝が赤く擦り剥けていた。店の向かい側にスカイラウンジと書かれた入口があり、そこから微かに音が聴こえてくる。四分の三拍子の閑雅な曲調。
「よかった。落ち着いたみたい」
いつもの明るい顔と明るい声の彼女が言った。
「私がドジだから・・・」
体の震えがなくなり、あたまの中はすっきりと落ち着いていた。だがそういう無色で音のない状況のまま、僕は彼女に返答していた。
「いや。僕のほうこそごめん」
陰鬱でも、快活でもない僕の声がそう言った。
「こんなこといえる立場じゃないのだけど。その・・・元気だしてほしいの。あ、そうだ、これ食べませんか?」
ミルクキャラメルと書かれた箱を真愛は差し出した。僕は黙って首を振った。
「じゃあ、これ飲んで? わたしこのストレートティーが一番好きなの。今そこの売店で買ってきたから」
「ペットボトルは携帯できるから、とっておいて後で飲もう」
露骨に不貞腐れた、投げやりな回答。だが彼女は下がらない。
「あ、そうね。じゃ、そうだ、のど飴もあるの。口の中乾いてないですか?」
「いらない」
「そっか・・・」
「あ、ねえ? これみてください。ただの百円ライターではございません」
どうしようもない僕に反して、彼女の声は弾んでいて動じない。
「このぉ、ボタンを押してみて?」
僕は、そのライターのボタンを押した。すると青く光った。
「あ、違うの。もっと長く押してみて?」
長く押すと、青い光は、赤や紫など、多彩な色に変化した。
「あはっ、なつかしくないですか? 虹色ライター。むかし流行りませんでした。ってこういうのはパチンコ屋さんだけなのかな、扱ってたの。それと携帯灰皿。どっちもそこで買ったの。星川さんに渡そうと思って」
僕はありがとう、といってそれを受け取った。そして煙草を吸うことにした。
「傷、痛いですか?」
僕はくわえた煙草に虹色ライターで火をつけながら、その質問を黙殺した。
(痛いに決まっている。それもさっき同じ会話をしたばかりだ)
そう思いながらも疑問は生じた。彼女はどうしてこんなに明るくしていられるのか。前の部屋では泣き叫んでいたし、立てなくなるほどの恐怖を味わったはずだ。この回廊が決めた数値では、彼女の「忍耐」の項目は平均値を五割以上上回ってはいたが。その程度のことでは説明がつかない。
「あ、そうだ! 売店のおばさんに聞いたのだけど、そこのラウンジで食事できるらしいの。わたし、嬉しくって」
そういって真愛は笑った目を潤ませた。僕は黙殺を続けた。真愛も問いかけを続けた。
「星川さんも、お腹空いてますよね? 立って歩けるようになったら行こうね。栄養とらないと、傷も治らないわ」
また、智茶都のことを思い出していた。彼女も精神力の強い人だった。塞ぎこんだ時、彼女はよく励ましてくれた。僕がどれだけ冷たい反応をしても嫌な顔をせず僕の傍にいてくれた。
僕には過分な女性だったと思う。その智茶都に対する後悔の気持はとても重い。今でもその記憶を引出しからだしてくると、頭の中が鈍く重くなる。なにより痛い。身体のどこが痛いのか良くわかってはいないとしても、その痛みは番人に切りつけられたものとは比較にならない。
「そうそう。お酒も置いてあるみたいなの。ちょっと飲んでいきますか? あ、傷にはよくないか。あ、でも少しくらいなら」
「星川さんは、ビール派なんですか? 智茶都さんと出会った時ビール飲んだっていってたから」
僕が黙っていても、真愛はずっと喋っていた。
気配りのなさ。それは考え得る領域の外だった。この状況で物理的に傷を負っている人間に対し、古傷の話をするとは。しかし・・・、不思議なほど腹が立たなかった。
たぶんそれは、彼女が顔を揺らしてそういったからだ。僕は顔と首をゆっくりと揺らす智茶都のクセまでは彼女に話していない。だがどういうわけか、彼女はそれを再現していた。
デリカシーのなさに溜息をつくようなこの場面で、僕は反対に吸い込まれそうになる偶然を感じていた。
「ジェットコースターみたいなものだと思えば。ね? 始めは怖いけど、終わったら爽快で楽しかった、て思うじゃないですか?」
久遠真愛。どうしてこんなに頑丈なのだろう。
いったい何でできているのか。僕とは構成する細胞素材からして違うのか。錆びない鉄、というステンレスの例えを聞かされた鉄の気持ならこうか。僕は下を向いて苦笑するしかなかった。
「ああ。やっと笑ってくれた」
(この人を見習うべきだ)
それからしばらくして、ようやく僕は感情のバランスを取り戻した。
「久遠さんは強いね、明るいし。なんていうか、そのありがとう」
彼女は俯いたまま、溌剌とした声で答えた。
「そう強いのよ! なんてね。でもお礼を言うのは私のほうです。助けてくれてありがとう」
真愛が照れ臭そうにするのを、僕は初めてみた気がした。
「こちらこそ」
やがて僕達は歩き出した。そして次第に大きくなるワルツの音に誘われて、スカイラウンジの入り口をくぐった。店の店員は売り物かどうかわからない、光る石を磨いていた。
◇◇◇
そこはスカイホテルという施設内のレストランだった。高い天井と円状に広がった室内。内壁はなく代わりに床から天井の高さまである窓ガラスと、交互に配置されたブロックガラスが続く。周囲にゴールドクレストやカラテアの鉢が置かれている。
「いらっしゃいませ。一般席と喫煙可能エリアがございます。ご希望をお伺いいたします。喫煙エリアは全席気流の覆いが配備されていますので、食事中の受動喫煙の心配はございません」
チーム内に喫煙者と禁煙者が混在する場合のコメントなのだろう。ウエイトレスの名札をつけたその回廊の住人には僕らがその組合せだ、ということがわかるらしい。
「はい。喫煙エリアでお願いします」
そう言って振り返った真愛がそれで良いですか、というかわりに少しだけ目を大きくしてみせた。その表情にみとれて返事を忘れる。
「かしこまりました。喫煙は時間制でございます。ご案内するテーブルの角型ランプ点灯時のみ灰皿ボックスが開きますので、十分間喫煙が可能です。消灯時はご遠慮頂きますようお願いいたします」
そう言われ、僕達は窓際席に案内された。空席は約三割程度と賑わっている。客はみな人間だ。この店には回廊施設認可印が入っている。つまり番人は存在しない。
席に座って窓の外をみると、橙にライトアップされた雲がみえた。正確には雲の映像があたかも窓の外の景色のように映っているのかもしれない。だがそんなことは考えるだけ野暮だった。
「すごい! みて星川さんほんとに雲の上」
と、目の前のパートナーは僕などよりずっとヤボったくない。
店内の客は、三人連れが多かった。
(なぜ皆そんなにパートナーがいるのか。四人組までいるではないか。不公平ではないか)
と、いつも通り心中野次が飛び交うが、
ーホールオレンジにはオレンジのメリットがありますから安心してくださいねー
という七三の女の言葉を思い出し、それが何かもわからないというのに、不公平感を飲み込む。
付け加えて、一様にどのテーブルのグループも雰囲気は明るくなかった。うつむいているものが多い。黙って魚の骨を皿の端によけている女。頬杖をつきながらストローを折り曲げている男。肩の出血をハンカチでおさえながら座っている男。六人用のテーブルに一人で座って食べないミートソースをかき混ぜる男。
そういったややくらい客が目につく中、僕の向かいに座るパートナーは笑顔だった。分厚い表紙のついたメニュー表を鼻歌を奏でながら眺めている。その表情をみて、オレンジ受付の女の言う通りかもしれない、と思い直す。
「あ、焼き魚までありますよ」
なるべく生前の日常生活のような・・・、例えば久し振りに会う友人通しの食事、というような。回廊の事を忘れ気安く過ごせる雰囲気をつくれたら。そんな風に考えていた。取り乱し、不貞腐れもした事への償いのつもりで。だが僕が気負ってそんな配慮をするまでもなく、彼女はごく自然にそういった雰囲気をまとってそこに座っていた。これが真愛の気配りだとするなら、その素の精神力にはとても敵わない。以って素敵という。
「魚も良いね。でも僕はやっぱり肉かなあ」
「あ、わたし中華も良いなあ。なんか、迷っちゃいますね」
「久遠さんはどんな料理が好きだったの?」
真愛はメニュー表から顔は動かさず、目だけを僕のほうに向けて返答した。
「星川さん? 過去形になってます」
「ははは。そっか。そうだね。えっと、何が好き?」
真愛は嬉しそうに答えた。
「じゃあ先に星川さんが思い浮かべてください。自分の一番好きな食べ物」
真愛は「せーの、で言ってください? 私があてますから。せーの」
「やきにく」
「すきやき」
「うわぁ、おしいっ」
真愛はそういって笑った。僕も笑って顔をあげる。天窓の向こうに星がみえた。この回廊でこんな風に一息つけるタイミングが訪れるとは思っていなかった。真愛の言う通り。何を食べるか、という選択がとても難しく感じられた。そしてそれについて考えたり迷ったりする時間、というものがこれほどの価値を持っているとは。食べたいものが決まっても、もう一度メニューを最初から読み返してしまう。
「あ、星川さんもう決まったんですか」
そう言って顔を上げた真愛の表情も、気のせいかすこし寂しそうな笑顔にみえた。
「じゃあ、私もこれに決めます」
名残惜しそうにする真愛に遠慮しながらも、僕は注文を済また。そして順番でトイレにいった。
トイレから戻った彼女は顔についた汚れが落ち、髪も整えられ一本に結ばれていた。そして向かい側のイスにふわりと腰掛けると、僕の名前の由来について質問した。
「僕は、単純に次男だから健二。となる予定だったけど、最終的にじいちゃんが出てきて健之にかえてしまったんだ」
「へえ、そうなんですね。話聞いてると星川さんて、ほんとおじいちゃんこね」
「まあそうだね。じいちゃんは好きだったよ。それじゃあ久遠さんの名前の由来も教えて? 真愛ていう」
「私の真愛は、おばあちゃんです。父方のおばあちゃんは嫁ぐまで異性と交際したことがなくて、お嫁にいってからもずっと家を守って、亡くなるまでおじいちゃんに連れ添って生涯を終えたそうです。そのおばあちゃんにちなんで父が名付けてくれました。おばあちゃんのように一途な愛を貫けますように。という意味がこめられているそうです」
彼女は、ドリンクコースターを指でなぞりながらそういった。母をすぐに亡くし、祖父母もいない真愛は七歳でその父さえ失った。きっと懸命に生きたのだろう、だが不慮の事故で命をなくした。こんなに素直な良い子が。
「これから。二度目の世界にいったら、おばあちゃんに負けない純愛をしなくちゃね。と思います」
「純愛?」
「そう。真実の愛よ」
顔を上げて真愛は微笑んだ。彼女の笑顔はとても独特だった。真顔の時は隙のない端正な凛々しさ。それと真反対な、くずした時の幼さと柔らかさ。きっと鏡の前で笑顔の練習をしたことなどないのであろう、と上下の歯茎を惜しみ無く剥き出しにする笑顔がそう感じさせた。
だからこの何の打算もない笑顔で二度目の世界を語られてしまうと、どういうわけか不安が払拭されていく。まるで未来には当然の二度目が待っているかのように。その世界に在るイメージまでが浮かび上がり、そこで真愛が真実の愛を育むことになる相手に嫉妬さえ覚える。
「あ、みてください星川さんあれ私たちの飲み物ですよきっと」
空想の人物に驚くほどリアルな嫉妬をしていた僕に、真愛が小さな声でそういった。すると間もなく目の前のテーブルにミネラルウォーターと、アイスティーが置かれた。生唾を呑む。乾杯をしようとふと前をみると、真愛はすでにグラスを持ち上げていた。そしてすぐにそれを飲んだ。
「こんな幸せな・・・、ことって」
冷えたアイスティーを飲んだ彼女がそういった。僕はグラスの七割くらいまでを満たしていた透明な水を一気に飲み干して、それから彼女の言葉に頷いた。生死の境を乗り越えた後の一杯。それも、もう二度とこんな風に味わうことはできないかもしれない、とどこかで考えてもいる。
「生きててよかったぁ」
「星川さんそれ、名言ね。ほんと生きていて良かったです」
久しぶりに冷たい飲み物が通過した喉が、動物のようにごろごろと鳴っていた。思わずまた顔をあげる。天窓の向こうの静閑。それを集めて光る星。
「星川さん、おかわりしちゃおっか?」
「お! それは名案だね」
僕達は再び飲み物を注文し、二杯目のそれもすぐに飲み干した。やがて運ばれてきた料理も寡黙に食べた。言葉を交わさず、目も合わさず。
「おかわりしないの? そんなのでたりる?」
僕が言葉を発したのは二皿目のライスを食べ終わる頃だった。真愛はナポリタンを一皿食べ終えたところだ。
「お腹いっぱいです。だって大盛りだったもの」
仮に僕は肉汁滴るビーフステーキを三百グラム、ライス二皿。それに比べ彼女はナポリタン一皿食べたのみ。それは弁当の彩りか、または隙間を埋めるために用いられる類のものだ。近所の洋食屋の弁当のプラスチック容器に、いつもそれは少しだけ入っていた。
「ナポリタンってお弁当とかのおまけなのに? って今思ってませんでした?」
「えっ、うん思ってた。よくわかったね」
「あ、やっぱりー。何かそういう顔をしてました。でもおまけではないです。私の大好きなものなんですよ。この料理は」
彼女はそういって顔相を崩した。
「ああ。でもわかるよ。ヤキソバパンの、ヤキソバのかわりにナポリタンいれたやつとかおいしいよね。ナポリタンパンって名前なんだけど」
と言うと彼女は口を尖らせた。
「確かにナポリタンはあまり脚光を浴びないかもしれないですが、でもなにかの料理につけ合わせる為のものでもないし、サービスエリアで小腹を満たす為のメニューでもないですよ。あくまでそういう用途もある、というだけ。これは一つの、完成された、作品なんです」
そういって真愛はナポリ風トマトソーススパゲッティがいかに名作であるかについて、しばし語った。
「まあ、世間では脇役のイメージだけど、でも、私にとっての主演俳優。なんですよ? ナポリタンは」
ナポリタンを語る真愛は、とても自信に満ちていていきいきとしていた。
「それにしても星川さん、耳が赤くなってますけど」
「うん。え? そうなんだ。あ、こんなに食事に幸福を感じたことない、ってくらいに幸せだからかなあ」
「あっはは。そうですね」
真愛は笑ったが、隣の席の男女の大きな笑い声に掻き消された。周囲の客達がその男女をじろじろと見ている。然もありなんここは回廊の中だ。暗い表情ばかりではないとはいえ、楽しそうに過ごしているグループは皆無だ。高笑いしている彼らはとても目立つ。そしてそれが気に入らないのだ。だが他の客とは違って僕は不快ではなかった。なぜなら幸せな食事を終えたばかりだからだ。何よりこれから食後のコーヒーというこの上なく楽しみな時間が待っている。僕の頭の中は今、春野で日を浴びる小川のように光彩が燦爛しているわけだ。隣の男女の高笑いなど気にならない。
「星川さん、お仕事は?」
「えっと、ふつうだよ。会社員・・・」
「久遠さんは? まさか、モデルさん? だったりして」
「え?」
「だって、それだけ顔が小さくて、足も長いし、スタイル良いし・・・」
美人だし、という部分は言葉にできなかったものの、彼女は満足感などなくともそこにいるだけで春野の小川よりも輝いている。
「あ、そんな・・・。全然だよ。仕事は食品の会社よ、契約社員。店舗勤務の」
「そっか」
橙色に照らされた雲はいつのまにかなくなっていた。窓の外には夜の空層がどこまでも続いていく。
「あっ、でも声かけられたことはあるよ、モデル。十代の頃だけど」
「そっか・・・。やっぱりなぁ。すごいね・・・久遠さん」
身近に感じられるようになっていた彼女との距離が、また一歩遠くなる。
「ううん。すごくなんてないの全然。それより会社員って、どんなお仕事ですか?」
「えっと、広告代理店」
勤めていたところは、良い会社だった。だがそこに勤めていた僕本人は然程仕事ができなかった。社会には要領の良いものと悪いものがおり、自分が後者なのだということを思い知らされていた。そして心中例の野次が飛び交い、二の句は言い訳ばかり。会社は僕に向いていないことばかりやらせる、と。
「僕が配属されたのは購買部。ほんとは制作部を希望したんだけどね」
僕は下を向きながらそういった。あたかも制作部にいればもっと輝かしい活躍をしたはずなのに、とでも言うように。
「商社の購買部とは違い雑事も多い部署で、僕がいたのは情報分析課といって購買課に提供するデータ収集や調査なんかが主な業務内容で、なんていうか地味な」
「そっか。でも夢だったの? そういった関係のお仕事が」
「ううん、少し違う。いや、大分違うかな。一応、夢みたいなものはあったけど・・・」
毎日は緊張の連続。気が抜けない。疲労がたまる。通勤電車では立ち寝。休日も仕事の事ばかり気になり鴨の浮寝。
「そっか、がんばってたんですね。あの、なんていうか、おつかれさまでした」
「あ、ど、どうも。おつかれさまです」
下を向いて笑った。胸に名札をつけた女性給仕が、コーヒーを運んできた。うまい具合に喫煙ランプも点灯した。
「ところで、星川さんの夢って? どんなことだったの?」
僕はゆっくりと首を振った。恥ずかしくて語れない。表情で読み取ってくれ。
「ごめんなさい、気がつかなくて」
そういって彼女は自分の近くにあるボタンを押して灰皿ボックスを開けた。「みて星川さん。喫煙ランプがついたの。遠慮せずにどうぞ一服してください」といった。僕は「ありがとう」といって、ジャケットの内ポケットに手をいれた。だが、彼女の親切には下心があった。
「それで、夢って何だったの?」
彼女のやわらかな水色の瞳が僕を覗き込む。すけるような白い肌と薄ら青みがかっている瞳。このままみつめられては間がもたない。そう思った僕は我を折って話した。
「遊園地とか、テーマパークの色彩調整をやりたかった。良い歳して、って思うだろうけど好きなんだ、遊園地。あ! 違う、彼女が好きだったからとか、そういうのじゃなくて。えっと、その、子供の頃に味わった記憶が引き金なんだ。はじめて親に連れて行ってもらった時のことは、今でも覚えてる。絵本か何かの中みたいに思えた。とても衝撃的で、その時のイメージが消えなくて。もちろん、大人になってから現実の遊園地には何度もいっているし、そこが絵本の中ではないことはわかってはいたけど。でもなんでかな。消えなくて。イメージが。だから、そういう・・・」
とても正直に話していた。顔もあつくなり、内心ではよく恥ずかし気もなくこんなことを語っている、と感じてはいるもののその羞恥心だけでは制動装置が作動しない。苦しい笑顔。ブレンドコーヒーを火傷しながらすする。そしてこの窮地に煙草ケースの中はからだった。
「そんな、すてきな夢があったのに・・・」
といって、真愛は僕の代わりに僕が死んでしまったことを悔やんでくれた。だが悔やまれるまでもないのだ。夢に向かって行動しなかったのだから。それには必要数の自信や勇気が不足していた。後、何十年地球にいたとしても結果は変わらず。「無理に決まっている」そう言って蔓延る自身の闇に対し、僕が反撃を仕掛ける場面はやってこなかっただろう。
「ちょっと煙草かってくる」
少しくらい気が滅入ってきても、これに頼れば大丈夫。煙草を吸えば気分を切り替えることができる。僕にとっては百害あっても一利あるアイテム。
席を立とうとすると、僕の前にはセブンスターとかかれたクシャクシャのソフトケースが出てきた。箱の中からはみ出している一本の煙草が、差し出した無言の男のかわりに「一本どうぞ」といっていた。僕は反射的にそれを抜き取って「あ、ありがとうございます」といった。
さっきまで大笑いばかりしていた男女、だが改めて良く見みると驚くほど二人とも器量が良い。僕は男にもらったセブンスターに、真愛が買ってくれた虹色ライターで火をつけた。
僕はそれをゆっくり吸いながら、コーヒーを飲んだ。真愛はレッドアイを飲んでいた。
(ま、またトマトか)
「ジッ、ジッ、ジッ、ジッ」
隣の男は煙草をくわえたまま、火のつかないオイルライターをまわしていた。僕は虹色ライターを着火させ、男の前に差し出した。
「おお! わるいな青年」
「いえ」
男は目を細めて煙草に火をつけた。そして、僕に親しげに話しかけてきた。
「おい青年。礼に良いことを教えてやろう」
(団子屋の甥か)
「えっと、星川といいます、星川健之。あ、あなたは?」
「星川っていうのか」
「それじゃあ星川。女が男の夢について聞きたがるってのは、どういうことかわかるか?」
大きな声で笑ってばかりいた横の二人組が、急におとなしくなった理由はそれか。僕達の話に聞き耳をたてていたのだ。
「さあ。女の子の気持ちはよくわかりません」
男は自分の名前も名乗らないまま得意気にいった。
「その男に、女としての興味。つまり好意をもっている、ってことだ」
真愛は飲んでいたレッドアイを気管に入れて咳き込んだ。僕は天井の天窓にみ度目を向けた。そこにはやはり星がみえた。天空に広がる静寂を、集めて讃えて光る星。
男は遅れて自己紹介した。
「あんまり良い女だからからかいたくなっただけだ。他意はない。俺は佑輔。歳は三十一だ。それでこいつは」
「三咲よ、よろしくね。年齢はレディーなのでいえません」
おまえが淑女ってガラかよ。と佑輔が言って二人は笑った。笑いながら三咲は僕にいった。
「健之君、まだ顔赤いよ?」
熱いコーヒーを飲んだからです、と慌てて否定してから額に滲んでいるものをハンカチで拭いた。真愛は涙をだしながらやっと咳を止めた。そして彼女も自己紹介した。
「わたしは、真愛。久遠真愛です! 年は二十二」
「ごめんね真愛ちゃん。この男が変なこといって。気にしないでね?」
と三咲が謝った。佑輔は「気にするもなにも、図星なんだから仕方ねえだろ」と横から口をはさんだ。真愛はその言葉に即座に反応した。
「星川さんの夢を聞きたいと思った気持ちが、どういうものかなんてそんなに簡単にわかるんですか」
真愛は語気を荒げてそういった。それがとても意外だったため僕は驚いたが、佑輔は面白がった。
「おう! そらみろやっぱ図星じゃねえか。その証拠に」
バンッ。三咲は机にあったメニュー表の平で佑輔の頭を素早く叩いた。彼は「いて」と声をあげた。
「そうよね、真愛ちゃんの言うとおり。ごめんなさい。このバカのデリカシーのない発言に気を悪くしたかしら?」
真愛は首を振って笑った。なおも真愛に向かって何かを言おうとする佑輔は、三咲のメニュー表の角で頭を叩く、という新技の前に沈黙した。三咲はすぐに話題を変えた。
「真愛ちゃんはモデルやってたの?」
「いえ、スカウトされたことは何度かありましたが、でも実際には」
「けっ! 世間は見る目ねえな。俺ならすぐキャンキャンの表紙につかうね。なあ星川?」
何と答えて良いか迷う。
「いぅ、いっ、え」
どもった僕をみて三咲は噴き出した。しばらく俯いて「クックック」と苦しそうにしていた。何も面白いことを言っていないのに、笑われることには慣れている。何とも思わない。それにしても。佑輔も三咲も黙っていれば雑誌の表紙でもおかしくない。
「私のことより、二人は何をしてたんですか?」
「俺は映画に出たりした」
佑輔がそういうと、僕と真愛は同時に顔をあげた。彼は映画俳優であっても何ら不思議ではない。座っていてわからないが、身長も百八十以上はあるだろう。逆三角形の上半身に、僕より小さいであろう顔。声優並みの渋い声。僕達二人は声を揃えた。
「何の映画?」
「フッフッフ。聞いて驚け。ハリーポッターだ」
悲鳴に近い声が再び揃う。
「何の役?」
「フッフッフ。ドラゴンだ」
「え」
「竜の腕の部分の役だ。しかも画面に滅多に映らない方の腕」
真愛は空いていた口を閉じた。それをみて自分も同じことをしているのに気がつく。
そんな僕らをみて、佑輔一人が大笑いした。笑いながら「こいつらおもしれっ」と二度ほどいった。みかねて三咲が真実を語ってくれた。
「この男は探偵。腕は良いのだけど・・・。あっそうだ、私のIDみせてあげる。あなた達のもみせて」
三咲はシャツのボタンを一つ外して、首からさげていたカードをみせてくれた。そのカードの色彩画面からは彼女のデータを事細かにしることができた。獲得ポイントという欄もあった。おそらく、入場したホールによって違いがあるのだろう。僕達はポイントが加算される腕時計をもっているが、カードは持っていない。かわりに真愛が共有画面申請をして、彼らにも僕らの詳細やステータスが閲覧できるようにした。
「あ、体型とか恥ずかしい部分をブラインド項目に入れたら名前まで隠れちゃいましたね。あ、でも折角だからあててみてください」と彼女が無邪気な顔をつくる。
「右のが、久遠。左が星川」
数秒間真面目な顔でそれを見つめていた佑輔がそういった。僕達は驚いた。ものの数秒見比べただけで彼はピタリと正解を出した。そして三咲が付け加えた。
「このひとね、東京ではちょっと有名な探偵だったの。信じられないかもしれないけど」
三咲がそう言うと、佑輔はちょっとではない、と付け加えた。
「あの、参考までに、理由というか、どうしてそう思ったのか、その」
「ああ、これは簡単だよ。一方は独創力って意味の欄二つが突出してる。もう一方は記憶性能と耐久性、それ以外に高い項目はどれも精神力、みたいなものの類だ。
星川は要領が良いって感じじゃねえし、打たれ強いってたまにもみえね。独創力って欄だけ桁外れにできてんのはその辺だ。普通の仕事させたら凡人以下なステータスが並んでいる。しかしクリエイティブな方面なら非凡なものがある。久遠の精神力ってのもわかる。中々骨のある発言した癖に、三咲が謝ったらすぐに笑って首を振ったろ? あそこは俺に対してこれから、一言でも二言でも言い返したい、って場面だ。そういう抗戦的な感情が立ち上がったばっかの時に横槍で謝られても、人は簡単に反応できない。まして謝罪してきたやつに配慮して笑顔をつくる、なんてのはもっと難しい。
だがおそらく、久遠のなかには高速で動く秤があって、そいつが素早く動いた。自分の憤りや怒りの感情よりも、謝罪してきた三咲を庇うことが優先されるべき、と瞬時に判断したわけだ。それも迷いなく動作しているから反応が遅れをとっていない。
見事な反応、判断だと思う。しかしそれにはまず三咲が何処の馬の骨かわからない、配慮するに値する人間かどうかもわからない状況であるなら、つまり善人か悪人かわからない場合は善人として対処する、というルールが久遠の中にあったと仮定できる。精神力の強い人間、というのはこういう人間を指す。一緒に旅してきた星川なら、合点がいくところがいくつかあるはずだ。
あとついでに言っておくと、この忍耐系のステータスの高さも苦労が多かったんだろうな。童顔の女とか、かわいらしい女、ってのとは対照的に、きれいでたっぱのある女ってのは結構苦労があるもんなんだぜ、知ってるか? 星川」
僕は質問されていることに気がつかなかった。
「あれ、それにしてもすごい強運だな、二人とも」
佑輔の解説の、その半分も噛み砕いて理解しない内から彼はもう次の話を始めていた。
「星川の運が測定不能ってのは、たぶん本人次第で超強運にも、不運にもなるって意味だ。久遠の方は強運というのに似た強い力をもってんだけど、まだ未使用なんだろ、形而上だ。だからこっちも測定不能ってなってんだ、たぶん。運が強い奴は高い数字が出るだろうし、弱い奴はマイナス数字かゼロ記載だろ? だからたぶん、おまえらは特殊だ」
彼のいった真愛の運の話は印象的で、その後もずっと僕の記憶に残った。
それにしても。真面目な顔をして話す佑輔は、まるで別人だった。この別人の佑輔ならば、名探偵といわれても疑わない。そう思わせる雰囲気だった。
(いつもそうしていれば良いのに)
だがそれは長時間続かないらしい。
「よしよし。凡人ステータスのおまえ達にも特別にこの天才名探偵のデータをみせてやろう」
三咲のカードの横に、佑輔のカードが置かれた。佑輔の能力数値はどれも高かった。創意、聡明、理解、収容能力、などの数字が桁違いで、情愛や、好奇、時宜判断など他にも数値の高いものばかり。だが二人のカードを交互にみていた真愛は、名探偵とも、天才とも関係ないところに興味を示した。
「うわっ! 三咲さんジグソーパズルってかいてある?」
「恥ずかしいのだけど、そうね。クロスワードとか、パズルが好き」
「ほんとですか? わたしも!」
そして女どうしのパズルトークが始まり、花が咲いた。その間、佑輔と僕は好きな女性のタイプや体型の話で盛り上がった。
「ああ、背の高い女性が好きなのかぁ。まあそうですよね、佑輔さんは背が高いからなあ。いくつですか?」
「えっと上から、ハチジュウハチ、ロクジュウニ、ハチィ」
バンッ!
三咲が再びメニュー表で佑輔の頭を叩く。
その後、僕達はこのレストランで周囲の目も気にせず、しばし盛り上がって会話した。僕も真愛もしたたかに笑わされた。三咲も佑輔も良く笑う人だった。
「おまえらしってる? ここのホテル一泊できるの。俺らはツインの部屋とってあるんだ。ポイントいくつたまってる?」
「えと、これだけです」
真愛が腕輪をみてこたえた。
「おう! 結構な修羅場踏んできたな。おまえら相性良いんだな」
相性が良い、とはどういうことなのか。ふと立ち止まって考えようとした僕の思案を佑輔の次の言葉が搔き消した。
「それだけあれば充分だ。一緒に泊まろうぜ」
願ってもないことだった。回廊の事や、番人の事など忘れて、一晩休めるなど考えてもみなかった。
佑輔はすぐに予約を入れるべく、ウエイトレスを呼んでくれた。
「ありがとうございます。では代表者の方、こちらにサインをお願い致します」
僕はウエイトレスに差し出された薄いパネルに、アイスの棒のようなペンでサインを書きこんだ。
「お部屋は二十九階、二十八階の中から御用意させて頂きます。お部屋は二部屋ご用意いたしますか」
僕が考える間も無く、佑輔がこたえた。
「ああ。部屋は一つ。ダブルでいい。それから東南に窓がある部屋にしてやってくれないか」
いや、そうじゃない! と言うべく中腰になった僕より早く、ウエイトレスが返答する。
「かしこまりました。それでは二十八階、南側、十八号室を御用意させて頂きます。お部屋のロックは星川様、または久遠様のサインで開錠致します。明日、チェックアウトのお時間は午前十一時となっております。ただいまの時刻をもちまして星川様二名様のチェックインを完了とさせて頂きましたので、どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ」
ウエイトレスの女性は間をあけず、早口でそこまで言い切った。その説明の最中ひとり中腰のままの僕がいた。佑輔は笑っていて、三咲も片手で顔を隠し、片手で腹をおさえて声を出さずに笑っていた。しばらくすると真愛までケラケラと笑いだした。やがて僕も笑ってごまかした。
◇◇◇
十八号室は木目のビニールクロスに包まれた、静かな部屋だった。調度品も全て木製で、部屋に入ると木の匂いがした。
「星川さん、どうぞ先にお風呂に入ってください」
私は洗濯ものを出してきますので、と真愛が付け加えた。そういわれた僕は遠慮なくシャワーを浴びることにした。湯を溜めてつかってみたい気持ちはあったが、背中の傷が痛むだろうと考えてやめた。
体を洗い終え、脱衣場で体を拭いた。洗顔したばかりの濡れた顔にふわふわと弾力のある清潔なバスタオルをあてると声がもれた。
体を拭き、髪を乾かし終わっても真愛はまだ帰ってこなかった。僕は冷蔵庫の缶ビールをあけ、窓台に座って一人でそれを飲むことにした。死、を一度経たとはいえ風呂上りのビールの味は変わらない。もちろん「くぅ」という声ももれる。
「あ、星川さんちょうど良かったです。ガーゼ新しいの買ってきたので、傷口みせてください」
真愛は部屋に戻るとすぐに僕をベッドに座らせ、傷の手当てをしてくれた。消毒液がしみる。
「痛い? ですよね。ごめんなさいすぐ終わりますから」
腰掛けた僕の周囲を器用にまわりながら包帯を巻いていく。そして最後に胸のあたりで切込みをいれ包帯を結んだ。「きつくないですか」と、そのままの姿勢で真愛が顔をあげた。至近距離。ベッドに腰掛けた僕と、その足の間で膝立ちになっている真愛。悟られなぬよう、少しずつ後ろに仰け反る。彼女は瞬きもしない。
「うん、平気、大丈夫ありがとう。つ、ついでにそこにあるビール取ってくれない?」
僕はやっとのことで彼女にそう切り返した。もはや後ろに倒れるのではないか、というほど反った姿勢で。
「あ、ご、ごめんなさい。飲んでる途中だったんですね」
真愛はそう言うとすぐ立ち上がって振り返り、窓台の上のビールをとって僕に手渡した。そしてすぐに別の事をいった。
「化粧台の上に使い捨てのお化粧道具が置いてあるんですよね。せっかくなのでシャワーに入った後で使わせてもらおうかな。
それとさっきロビーで三咲さんに会って、服や靴をレンタルできるの教えてもらったんです。空テラスっていうところで、弦楽器の演奏があるんですって、だからおしゃれして行こうよ? って三咲さんが誘ってくれたんです。星川さんどうですか? 四人でいきませんか。空テラス」
真愛にしては珍しく早口だった。僕は女性がおしゃれして行こう、と言い出すところ ーほぼ全てといっていいー が苦手だ。そんな所へ行っても疲弊するだけだ。部屋で缶ビールを飲めばいいではないか。
「あ、星川さん怪我してるし、疲れてますもんね。ごめんなさい、わたし勝手に行く気になってしまって」
何も言わぬうちから、僕が気乗りしていないことを彼女は察した。
「そうだね。でも久遠さんだけでもいってきて良いよ」
僕は彼女の好意に甘えることにした。だがそういうと、真愛は先程よりも明るい調子になった。
「あ、私も星川さんと部屋でゆっくりしますよ。アイスクリームとかルームサービスとって贅沢しちゃいましょっか」
「いいねえ。贅沢しちゃおう」
僕は一転して気分がかるくなり、彼女のテンポのいい誘いに勢いよく賛同した。
「ではとりあえずお風呂に入ってきますね」
真愛は機嫌良くそういって浴室へ向かった。僕はルームサービスのメニューを持ち出してソファーの上に座った。そして気分良く缶ビールをひと口すすった。
「横浜港から出航するティータイムクルーズで、紅茶とケーキそれからフルーツまで好きなだけ食べられるの、友達のカップルが券をもらったみたいで四名分なんだって。それで私たちを誘ってくれたの。ねえこれみて素敵でしょ? 」
なぜ。今こんなことを思い出すのだろう。あの時、船内から見える夕景の画像を僕に見せた智茶都の目は輝いていた。それを見た僕がが同じように嬉々とするはずだ、と信じて疑わない笑顔で。だが僕はその無邪気な笑顔を切りつけるようにして「行きたくない」と言った。なぜ休みの日をつぶしてまでそんなにおしゃれなところへ行かなければならないのか。前にも話したはずだ、アフタヌーンティーという言葉があまり好きではないと。それなら二人だけで温泉旅行へ行って、スイーツバイキングのあるホテルに宿泊すれば良いではないかと。
「友達のカップルって言うけど、僕はそのどちらにも会ったことがないんだ。照れくさいよ、そんなの」
智茶都は笑って「そっか。そうだね」と、いって話題を変えたのだった。あの時、智茶都があまりにも自然に話題を変えたため、僕は何も感じなかった。
窓の外をみると、濃紺の雲がゆっくりと動いていた。深いかちいろ。どこから来てどこに向かうのかわからない雲の集まり。群をなして流れていく。僕は缶ビールを飲み干して、ソファから立った。飲み終わった缶をパントリーの水で洗って空き缶入れに捨てた。
空テラスに行きませんか、といった真愛の表情はあの時の智茶都に良く似ていた。
だからなんだと言うんだ、いまは何もかも状況が違うではないか、まして明日死ぬかもしれないような場所に今僕らはいるのだ。そう内心呟きながらも、体はシャワー室の前に立っていた。
「やっぱり僕も空テラスにいきたい」
行きたくもない場所に行きたいと言った、その理由は説明できない。だが僕は自ら進んでそう口にした。ドアを隔てて向こう側にいる真愛に向かって。
「ええっ!ほんとですか。嬉しい」
という声がドアの向こうから返ってきた。いままでに聞いたことのない弾んだ声と、喜びのあまりバランスを崩してどこかにぶつかったような音が続く。
こんなに嬉しそうにしてくれる・・・、かもしれなかった・・・、のか。
不意に鼻の奥が痺れる。死人の僕が、だ。
それも最下位の死人として再び死ぬかどうかの間際のところだというのに。後悔というやつはどうにも仕事熱心で、こんな場所まで僕を追ってきて背中にはりつくのだった。そしてそのはりついた何かが心臓のあたりに図々しくものしかかってくる。だがそのじくじくと重く鬱屈な何かに、抗う術がなかった。
しかし幸運にもすぐに後悔は蹴飛ばされた。シャワー室から出てきた真愛が、はだけたバスローブも気にせず笑顔で駆け寄ってくる、という強力なインパクトの前に、仕事熱心な後悔も沈黙せざるを得なかった。
◇◇◇
「星川さん、みてください。雲の海! 私たちいまその真ん中です!」
石畳の床が、雲の上を真っ直ぐにのびていた。それが巨大な広場へと続いている。
特殊なエアカーテンのドームなのか、どうして雲の上に道があるのか、この建物が浮いているのか、呼吸は何ともないのか。それともすべて幻影か。そうやって僕だけが大忙しに頭を回転させてしまう。せっかくの演出だというのに相変わらずの野暮。一方そうした無意味なことは考えず、頭の空き容量いっぱいにこの感動を詰め込もうという真愛。そんな粋な彼女が何の躊躇もなく、まるで空を歩くかのように行進する。萩色のワンピースに光沢のある黒いヒールをはき、背筋を伸ばし、高い位置で結んだ髪を左右に揺らしながら。
さすがの野暮もその姿には目を奪われ、余計な思案が落ちて行く。やがて入口のゲートが見えると、体の隙間を探して染み入ってくるような弦の音。染み入るそれが、先程まで頭を離れなかった天国のこと、回廊のことを少しずつ薄めていく。
「星川さん、あそこ! 広場の真ん中にいるの佑輔さんと三咲さんじゃないですか」
真愛が指さした中央広場に二人は座っていた。大げさなほど背が高い竹林が、広場をぐるりと囲っている。いくつも並ぶテーブルとイスには大勢の客、という役の回廊の住人。その中から、こちらに気がついて歩み寄ってくる佑輔と三咲。
「お、良いねえ。馬子にも衣装。ファッションモデルと釣り合いがとれてるじゃねえか」
モデルやったことないですよ、と真面目に返答する真愛の横で佑輔がうむうむと声に出してうなずく。彼は艶のない黒のスーツを着崩して、ウェーブする髪を後ろに撫で付けている。それに同調するように三咲も漆黒のドレスで合わせていた。体型を選ぶであろうスカートの深いスリットも、大きく空いた背中も難なく着こなして。
「真愛ちゃん自分に似合う色がわかってる。とても合ってるわ。アップの髪型だとそういうピアスが映えるのね、あごのラインが綺麗だからかな。うーん、さすがキャンキャン」
「ですから、モデルじゃないですし」
真愛がそういうと佑輔が「まじめか」といって笑った。三咲も笑いながら「健之君もすてきよ、かわ良い」と付け加えた。
「あ、え、っと・・・えへへ」
なんと返して良いかわからない僕に、佑輔が「中二か」といってかぶせる。三咲や真愛が笑いだし、僕もふきだす。皆のおかげで、いつのまにか僕の緊張もとけている。
「じゃあ真愛ちゃん。とりあえずそこのカウンターにいかない? 色々揃ってるみたいよ」
三咲がそういって真愛の手を引く。僕も佑輔に背中を押されて二人に続いた。
一枚ものの長いカウンターテーブルの途中に、給仕の女性がたった一人立っていた。
「マッカラン」
佑輔がそういうとその女性が既に手に持って待っていたのではないかという速さで、氷の入ったロックグラスをテーブルの上に置いた。背を向けて棚からビンを取り出す。
「真愛ちゃんは何にする? わたしはジャパンいこうかな」
「わあ、そうなんですか。あ、では私は、うーん・・・レッドバード? ありますか?」
真愛が小さい声でそういうと佑輔と三咲が一斉におおっ、という声をあげた。
「良いねえ。久遠やる気じゃん」
「あ、はい。オシャレしたせいですかね。それとも佑輔さんや三咲さんもいるせいですかね? 今日の私はちょっとちがいます」
そういって真愛が楽しそうに笑って盛り上げる。そしてジャパン? レッドバード? や、やる気? と、ハテナを沢山ならべて最早一人ついていけない僕。その横で「獺祭遠心分離」と告げる三咲。すかさず真愛が振り返る。
「星川さんは何にしますか」
「あ、えっと。うん」
僕は少し迷ってから「生ビール」と女性にいった。すると女性は僕の方を見てにこやかに言った。
「畏まりました。銘柄を申し付けください」
「あ、えっと、サントリー」
「星川、それ社名」
そういって佑輔が笑うと、三咲と真愛も陽気な声を上げた。いや、だってカールスバーグとかは社名が銘品じゃないですか、と小さい声で反論する器の小さい男。そしてその器小の僕の前には、ザモルツと書かれたグラスが置かれた。ビールの泡がピタリとグラスに沿っている。
「はい。じゃあやる気の久遠に」
グラスをかざした佑輔がそう言うとすぐに三咲が続いた。
「スーツ姿がすてきな健之君に」
「あ、はい。私こんなところでデートしたことなくて、すごく嬉しいです。あ、えっと違うか。デートとかいってごめんなさい。あとその、お二人も最高にセクシーでかっこ良いです。に!」
三咲に続いて真愛もグラスをかざす。
「え、あれ、僕が締めですか? 参ったなあ。うーん、と何ていったらいいか・・・」
「星川、なんでも良いからテンポ良くいけ」
「あ、はい! えっと、あ、では、サ、サントリー」
慌ててそういうと皆がサントリ〜と復唱してグラスを合わせた。
「星川、いいね」
「健之君いいね〜。サントリー最高!」
「あ、え? うん、でもなんか気持ち良くなってきました。高度のせいですかね。次は僕もジャパンいこうかな」
「あら、健之君? 真愛ちゃんに対抗してやる気ですわね」
「はい。やる気ですことよ」
もはや何のやる気なのかもわからず勢いで応える。するととても気持ちが良い。
「よーし、ケーキとりにいこう」
「え? 飲みながら? ですか」
「わたしあの巨大なチョコフォンデュ!」
「お、良いね。マシュマロ焼こうぜ」
「ええ! 三咲さん日本酒飲みながらですか。ていうか焼く?」
「僕はローストビーフ切ってもらいに行こうかな」
「ええ! 星川さんあんなに食べたのにまだ食べるんですか」
「久遠。真面目か」
「久遠さんは? 何も食べないの」
「私は炙ったイカを」
「おー八代亜紀! 久遠さんホンイキですね」
「もう、星川さんまで!」
「わっはっは。良いねイカ持ってこいよ。マシュマロと一緒に炙ってやるぜ」
僕たちは好きなお酒を飲んで、食べたいものを食べながら沢山の話をした。誰が話の中心、ということはなく四人共がそれぞれの話をした。そしてどんな話をしても、佑輔と三咲が最後にはオチをつけるようにして陽気な話に変えてくれた。僕は夢中になって何度も笑った。そしてその合間に横を見ると、真愛と目が合い笑みを交わした。
竹林を揺らす風の音が、よせては返すみたいにして静かな楽奏を空にさらっていく。それを追いかけるように濃紺の雲。等間隔に並ぶカンテラの灯り。角ばったグラスを氷が滑る。酔いも、眠気も訪れない。不思議な夜。
朝日を受けて目を覚ますと、床の上で寝ていた。真愛も靴を履いたままドレス姿でベッドに横たわっていた。どうやって部屋に帰ったのか。佑輔が運んでくれたのだろうか。
一つだけわかっていることは楽しい一夜が終わって、また現実に戻されるということだった。その証拠にアラーム音が鳴り「チェックアウト一時間前です。星川様、久遠様の順路は五二二扉のみとなります。本日当ホテルからこの扉へ入構されるお客様は星川様及び久遠様のみです。お時間までに廊下へお進みください。廊下の案内板に扉までの経路が表示されております。それではお気をつけて」というアナウンスが流れ、僕たちを現実に引き戻した。佑輔と三咲にもう一度会い、別れの挨拶をしたかった。だがそれもかなわないのだろう。
僕が憂鬱な気持ちになっていると、シャワー室から出てきた真愛が言った。
「楽しかったですねー。ちょっと頭痛いですけど。へへへ、またこういう部屋に入れたら良いですね!」
その笑顔に僕は「うん」と答えた。まるで自分ではないかのような陽気な声で。
◇◇◇




