第24話 調和への道②
ネザリウスが光の中で消えた瞬間、副位層全体が低く呻くような音を立てて軋み、亀裂が走り始めた。
支えを失ったこの空間は、ゆっくりと、しかし確実に崩壊を始めていた。
「急いで、現世に帰らないと!」
葵はすぐに振り返り、昇也の手をぐっと握った。
二人は崩れ落ちていく道を跳び渡るたび、落ちかけた瓦礫が後方で砕けて消えていく。
空間そのものが壊れていく恐怖が肌に張り付くが、葵は振り返らずに門を目指した。
その手は震えていたが、離さなかった。
(もう離れたくない)
昇也の掌が汗ばんでいるのを感じて、葵は必死に自分を奮い立たせた。
だが、門が見えたその時、昇也の足がぴたりと止まった。
「昇也?」
振り向いた葵の声が、崩壊の音にかき消されそうになる。
昇也は立ち尽くしたまま、苦しげに眉を寄せていた。
「葵……兄さんが……」
昇也の心の奥底で、優しく、それでいてはっきりとした声が響いていた。
(もう大丈夫だ。お前は立派に戦った)
「兄さん……!」
思わず名前を呼ぶ。
葵も昇也の目を見て、零士が今ここにいるのを感じ取った。
零士は、昇也の意識の奥に静かに佇んでいた。
霊体として存在し続ける力は、もうほとんど残っていなかった。
それでも今この瞬間だけは、はっきりと言葉を届けたかった。
昇也の記憶の中に、零士との日々が流れ込んでくる。
再会した夜。
触れられない手をただ宙に伸ばした悔しさ。昇也が泣くのを黙って見ていた夜。
葵の魂の深層で、初めて触れることができたあの温度。
(俺の役目は終わった。これからは、お前自身の人生を歩け)
「待てよ、まだ……!」
昇也の声が裏返る。必死に引き留めようとする。
零士は、その必死さをまっすぐに受け止めた。
(……お前は本当に、まっすぐだな)
前世でも、現世でも。この弟は、いつも全力でぶつかってくる。
それが、零士にはずっと眩しかった。
(心配するな。俺は消えるわけじゃない。お前の記憶の中に、心の中に、ずっと生き続ける)
昇也の中に、零士との数え切れない記憶が蘇る。
そして零士もまた、昇也の記憶の中に流れ込んでくる想いを感じていた。
幼い頃、兄の背中を追いかけていた昇也。
「兄さん、最近冷たい」と悲しそうに言った、あの小さな顔。
突き放すしかなかった自分の手の冷たさ。
(……あの時、ちゃんと言えなかったことを、今言う)
「……なんだよ」
昇也の声が、震えていた。
(お前のことが、誇らしかった。ずっと)
沈黙が落ちた。
崩れゆく副位層の音の中で、その言葉だけが静かに響いた。
「……兄さん」
(葵を頼む。今度こそ、幸せにしてやってくれ)
「……ああ。約束する」
昇也の瞳から、大粒の涙が零れた。
悲しみではなかった。
長い時間をかけて、ようやく届いた言葉への感謝の涙だった。
葵は昇也の変化を見つめながら、胸の奥で零士の気配を感じていた。
まだここにいる。
もう少しだけ、ここにいる。
「零士」
葵は静かに呼んだ。
声に出した。昇也の中にいる彼に向かって、まっすぐに。
「……キルハとして、あなたに言えなかったことがある」
言葉を選ぶように、ゆっくりと続ける。
「あの夜、廃神殿で。あなたが好きだと言ってくれたとき、私は、ちゃんと答えられなかった」
胸が痛む。
前世の記憶が、今の葵と重なって流れ込んでくる。
「……怖かったの。答えたら、あなたを失う気がして」
涙が頬を伝う。
「でも今なら言える。私も——」
その言葉の続きが、空気に溶けた。
葵の額に、何かが触れた。
冷たくも、温かくもない。
あるかないかわからないほど、かすかな感触。
でも確かに、触れた。
葵は息を呑んだ。
目を閉じたまま、動けなかった。
(……零士)
霊体の彼が、額にキスをしてくれたのだとわかったのは、次の瞬間だった。
言葉の続きを待たずに。
答えなくていいと、そう言うように。
もうわかってる、と。
ずっと知っていた、と。
「……っ」
声にならなかった。
嗚咽をこらえようとして、こらえきれなかった。
葵はようやく、言葉を続けた。
震える声で、でもはっきりと。
「……私も、あなたのことが好きだった。ずっと」
その言葉を、零士は静かに受け止めた。
言葉にしなくてよかった。
伝わっていた。ずっと、伝わっていた。
(……ありがとう、葵)
その声は、もう遠かった。
昇也の胸の奥で、優しい光が溢れる。
零士の魂が、静かに輝きを増していく。
昇也は目を閉じた。
零士の面影を、心に焼き付けるように。
光が広がった。
ただの光ではなかった。
温かくて、少しだけ寂しくて、それでも満ち足りているような、そんな色をした光だった。
やがてそれは、ゆっくりと空へ還っていく。
消えるのではなく、還る。
あるべき場所へ、ようやく還る。
「……行ってらっしゃい、零士」
葵は空に向かって、そっと呟いた。
昇也はまだ目を閉じたままだった。
その頬を、一筋の涙が伝っている。
葵はそっと彼の手を取った。
昇也は目を開けた。
涙に滲んだ視界の向こうに、葵がいた。
「……行こう。俺たちの世界に帰ろう」
その声は震えていたが、決意に満ちていた。
「うん、一緒に帰ろう」
二人は手を固く握り合い、崩壊する副位層を駆け抜けた。
門へ飛び込む直前、崩れる空間が最後の叫びを上げたが、二人は振り返らなかった。
***
現世に戻ると、いつもの学園がそこにあった。
昼下がりの柔らかな日差しが校舎を照らし、生徒たちは何事もなかったように笑い声をあげていた。
まるで先ほどまでの異変など、最初からなかったかのように。
「……本当に、元に戻ったのね」
葵は安堵の息をもらし、ゆっくりと周囲を見渡した。
霊感は以前より鋭くなっていることがわかる。
でもそれは重荷ではなかった。むしろ自然な感覚として身体に馴染んでいる。
昇也もまた、静かに深呼吸をした。
死神の力は安定し、零士の記憶ももう乱れない。
重荷ではなく、大切な宝物として、胸の奥に収まっていた。
「これからどうする?」
昇也が隣で、少し意地悪そうに笑う。
その声がやけに安心感をくれた。
「まだこっちで仕事するんでしょ?」
「まぁそうだな」
「じゃあ、これからも一緒に。あなたが死神なら、私が霊媒師。対等なパートナーとして」
「完璧な組み合わせだな」
二人は笑い合った。
***
やがて学園の屋上に上がり、夕日に染まる街を見下ろした。
オレンジ色に染まる空が、平凡な日常を美しく照らしていた。
風が吹いて、二人の髪を揺らす。
しばらく、何も言わなかった。
言葉がいらなかった。
零士がいなくなった静けさと、それでも続いていく世界の音と、隣にいるこの人の体温。
全部が一度に胸に落ちてきて、葵はただそこに立っていた。
「葵」
昇也が静かに呼んだ。
「なに?」
「……零士のこと、悲しいか」
葵は少し考えてから、正直に答えた。
「悲しい。でも……寂しくはない、かな」
「どういう意味だ」
「零士はちゃんと還ったんだって、わかるから。あなたの中にも、私の中にも、ちゃんといるって、感じるから」
昇也は黙った。
空を見上げた。
最初の星が、夜空に瞬き始めていた。
「……そうだな。俺も、そう思う」
しばらくして、昇也が葵の方を向いた。
その目は、もう揺れていなかった。
「葵」
「うん」
「好きだ」
前置きも、言い訳もなかった。
ただそれだけを言った。
葵は少しだけ目を見開いて、それから、ゆっくりと笑った。
泣きながら、笑った。
「私も」
風が吹いた。
昇也がそっと手を伸ばして、葵の頬に触れた。
葵はその手に自分の手を重ねて、目を閉じた。
静かなキスは、言葉よりも深く、でも、それよりもっと深いところにある何かを、確かに伝えていた。
前世で果たせなかった誓いが、今この瞬間、ようやく、形を変えて完成した。
***
どこか遠くで、学校のチャイムが鳴った。
明日もまた、普通の高校生として授業を受け、友人と笑い合う日々が続く。
誰にも気づかれずに魂を浄化し、そっと手を差し伸べる使命を果たしながら。
「行こうか」
昇也が言った。
「うん」
葵が頷いた。
二人は手を繋いだまま、屋上の階段を下りていく。
その背中を、どこか高いところから、零士がそっと見送っていた気がした。
完璧ではないかもしれない。
でも、それでいい。
不完全なまま、共に美しく。
そうやって続いていく日々こそが、本当の奇跡だから。
-終わり-
最後までお読みくださりありがとうございました!
ブックマーク、評価、コメントを頂けると大変嬉しいです!!
あとがきとしてnoteのサイトに載せています。
オリジナル版との比較がございます。
https://note.com/dasi_no_moto/n/nfbeaa0c1879f




