第19話 歪む夢と魂の座標①
副位層の崩壊は、じわじわと、でも確実に進んでいた。
時間の流れがおかしくなる。
座標がずれる。
夢と現実の境目があいまいになる。
それは小さな異変では済まされないほどの、大きな変化だった。
この世界の裏側に隠れているもう一つの層。
そこからネザリウスの力があふれ出し、現世も冥界も、副位層そのものも侵し始めていた。
冥界の本家では、かつてないほどの混乱が広がっていた。
「門が……開きかけている……!」
古い石盤に刻まれた印が、警告のように赤黒く光っていた。
観測台が震え、霊の流れが逆巻いている。
「封印がゆるんでる!このままだと、冥界と地上が繋がってしまう……!」
震える声。
空気が重く、まるで世界の縫い目がほどけていくような音がしていた。
「もう、止められないのか……?」
いくつも張られていた結界が、一枚ずつはがされていく様子が、水鏡に映し出されていた。
本来なら、そこには英雄の魂という「鍵」があるはずだった。
けれど今は、それの代わりに、禍々しい気配だけがうごめいている。
「……ネザリウスだ。奴が戻ってくる」
その声に、冥界全体が震えるような冷たい風が吹き抜けた。
そしてその裏では、ネザリウスの一派が笑っていた。
「もうすぐだ……あの死神たちの盾が崩れる」
「ネザリウス様の目覚めは目前……」
「奴らの力を消せば、純粋な魂は我らのものになる」
彼らにとって死神の力とは、魂を守るための盾のようなもの。
それが崩れることこそ、支配への近道だった。
一派に操られた観測者たちは、現世に住む人々の魂にひそかに印をつけ始めていた。
儀式のために、確実に魂を奪うための印だった。
***
その頃、昇也は一派が操る影の獣と戦っていた。
副位層の歪みから現れたその獣は、強い瘴気をまとっていた。
昇也は鎌を手に立ち向かい、葵も剣で援護する。
零士は霊体として戦況を見ながら、二人に的確な指示を出していた。
なんとか撃退はできた。
でも、その代償は大きかった。
強い力を受け続けたことで、昇也の中の何かが確実に削られていく。
体の感覚も、少しずつ薄れていた。
(くそ……力が抜けてく……感覚が……)
肩で息をしながら、腕に力が入らない。
指先が痺れて、鎌を握る手すら震えていた。
(こんな状態じゃ……葵も、兄さんも守れない……!)
それでも彼は一歩も引かなかった。
戦う葵の姿が、今の自分を支えていたからだ。
戦いのあと、ふらつく足取りで壁にもたれた昇也に、葵はそっと声をかけた。
「……少し、休もう?」
ベンチに座らせると、昇也は言葉もなく従った。
肩で息をしながらも、精一杯の笑みを浮かべる。
「……支えが、欲しいな」
「わかった」
静かに微笑んだ葵が、そっと体を寄せる。
昇也は頭を彼女の肩に預け、目を閉じた。
初めて見せる、無防備な姿だった。
膝の上に落ちた昇也の手を、葵はじっと見つめた。
無数の細かい傷跡が残っている。
(こんなに……)
どれだけの戦いを、この手が積み重ねてきたのか。
どれだけの痛みを、一人で抱えてきたのか。
胸が詰まって言葉が出ない。
そっと、その手を自分の手で包み込む。
「……私にも、その重さ、少し分けてくれたら……」
祈るように目を閉じると、次の瞬間、不思議な温もりが手のひらから伝わった。
昇也の呼吸が静かに整い、表情が少しだけ柔らかくなる。
それは、ほんの小さな奇跡だった。
その様子を、零士は静かに見守っていた。
やがて昇也が眠りに落ちると、葵は座ったまま零士に声をかけた。
「ねえ、零士。昇也、最近……様子がおかしいんだけど、どうしたの?私、なにか昇也にしてあげられることはある?」
その問いに、零士の視線が一瞬揺れた。
答えかけて、でも言葉を飲み込んだ。
(昇也を救う方法は、たったひとつしかない。自分が消えることだ)
零士は自分の役目を知っていた。
けれど、それを言葉にするには、あまりにも重すぎた。
一瞬、迷いが目に浮かんだが、それを打ち消すように静かに目を伏せる。
「……死神の力が、少しずつ弱まっている。でも、それをどうにかする方法は考えてある。心配しなくていい」
微笑んだその顔は、どこか悲しげだった。
「……だから葵。この先、何があっても、昇也の手を放すな。ずっと、そばにいてやってくれ」
それが、今の零士にできる、精一杯の願いだった。
その真剣な眼差しに、葵は何も言えなかった。
けれど、心の奥に小さな引っかかりが残る。
(……なにかを、隠してる?)
そんな疑いが一瞬よぎったが、それ以上は聞けなかった。
ただ、彼の想いを受け止めるように、静かに頷いた。
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