序章 冥界の終焉
「キルハァアアア!!!」
絶叫が、崩れゆく冥界の空に吸い込まれていった。
断層の向こうへ落ちながら、セインは手を伸ばし続けた。
届かない。
届くはずがない。
もう向こうには——白い光しかない。
(どうして)
昨夜まで、同じ場所に並んで座っていたのに。
あの冷たい手を、強く握っていたのに。
「帰ってこい」と言ったのに。
ひとつ前の夜のことを、セインは思い出していた。
***
決戦の前夜。
廃神殿の奥、誰にも見つからない石の回廊で、セインはキルハの背中を見つめていた。
「……また、ここか」
呟いたセインの声に、キルハはわずかに肩をすくめる。
「お前もここが好きだろう」
「お前がいるから来るんだ。勘違いするな」
言い返したが、キルハは笑わなかった。
それがかえって、セインの胸をざわつかせた。
ふたりは並んで崩れた柱に背を預け、どちらからともなく口を閉じた。
遠くで何かが崩れる音がする。
この世界がまたひとつ、消えていく音だ。
それでも今この場所だけは、奇妙なほど静かだった。
「キルハ」
「なんだ」
「明日……本当に行くのか」
問いかけてから、馬鹿な質問だと思った。
決まっている。
こいつは止まらない。
ずっとそういうやつだった。
「ああ」
やはり迷いなく返ってきた。
セインは横目でキルハの横顔を盗み見る。
疲弊しているはずなのに、その瞳はどこまでも静かだった。
ひどく、腹が立った。
「……お前は怖くないのか」
「怖い」
即答に、セインは目を瞬いた。
「怖い。でも、行かなければならない。それだけだ」
「……そうか」
そうか、じゃない。
もっと何か言えることがあるはずだった。
止めるとか、一緒に行くとか、あるいは——
「セイン」
低く、名を呼ばれた。
それだけで、胸の奥が揺れた。
「お前に、ずっと言えなかったことがある」
その声の色が、いつもと違った。
セインは思わず息を止める。
「言わなくていい」
「聞いてくれ」
「…………」
「俺は、お前のことが」
「やめろ」
「好きだ」
静寂が、落ちた。
崩れかけた石の天井の隙間から、冥界の濁った風が吹き抜ける。
それ以外に音はなかった。
セインの心臓が、ひどく煩く鳴っていた。
「……今更言うのか」
「今更しか言えなかった」
「それは、俺への嫌がらせか」
「違う」
「……俺に何もできなくするつもりだろう」
キルハは答えなかった。
ただ、伸ばした手がセインの頬に触れた。
冷たい指先だった。
長い戦いで、すっかり熱を失っていた。
それでもセインは、その手を払いのけなかった。
「馬鹿野郎」
かすれた声で言った。
目の奥が、熱くなる。
「お前が言うから……俺は、何も言えなくなるだろうが」
「ああ」
「……最悪だ、お前は」
「そうだな」
キルハの目が、細まった。
笑っているのか、泣いているのか、どちらともつかない表情だった。
セインは奥歯を噛んで、その手の上に自分の手を重ねた。
冷たいままの指先を、強く、握った。
「……帰ってこい」
「ああ」
「絶対に、帰ってこい」
「……ああ」
答えは同じだった。
だがセインには、わかっていた。
こいつは帰ってこない。
だから今夜、こんなことを言ったのだ。
「……ずるい」
「お前に言われたくない」
「お前が一番ずるい」
どちらからともなく、額が触れた。
互いの呼吸が、混ざる。
それ以上でも、それ以下でもなかった。
ただ、確かめるように。
このぬくもりを、忘れないように。
ふたりとも眠らなかった。
眠れば、夜明けが来るから。
そうすれば、こいつは行ってしまうから。
***
そして、朝が来た。
世界の理が捻じ曲げられ、空は黒く裂け、星も月もすでに姿を失って久しい。
かつて静かだった魂の川は、今では悲鳴と怨嗟にまみれた血の海と化していた。
天と地の区別は溶け、神殿も墓所も崩れ落ちた冥界で——
ふたりは、最後の朝を迎えていた。
「……セイン、ここから先は俺が行く」
「何を言ってるんだ!」
「お前は成すべきことを成せ。ここからは俺だけで十分だ」
「足りるもんか! 俺が共にいなければ意味がないだろう!」
伸ばした手は、キルハに軽く押し返される。
昨夜と同じ、冷たい指先だった。
「キルハ」
「行け、セイン」
「……昨夜のことを言っておいて、それだけか」
キルハは答えなかった。
ただ、一瞬だけ視線を逸らした。
それで、すべてがわかった。
「……また会おう」
それだけを言い残して、キルハは前へ進んだ。
直後、足元の地面が崩れた。
セインは裂けた断層の向こうへ落ちていく。
「キルハァアアア!!!」
絶叫が冥界の空に響き渡る。
魂の濁流が爆ぜ、空間が裂ける。
そしてキルハの体が、白い光に包まれた。
***
彼は知っていた。
自分の力だけでは、ネザリウスを完全には封じられないと。
だが、セインを巻き込むわけにはいかなかった。
昨夜、額が触れたあの感触が、まだ消えていなかった。
こいつだけは、生かす。
こいつだけは、この終わりの向こうへ行かせる。
それが、キルハにとっての唯一の望みだった。
この世界を蝕んだのは、一人の異端者——ネザリウス。
死を拒み、魂の循環を否定し、冥界を蹂躙した男。
そのネザリウスを止めるために、キルハは最期の光を放つ。
光がすべてを包み込む。
ネザリウスの咆哮も、怨念の叫びも、すべてが白に染まっていく。
そして、すべてが静寂に還った——。
***
セインが戻ってきたとき、そこにはもうキルハの姿はなかった。
剣も、声も、温もりも。
ただ、魂の残響だけが、空に漂っていた。
「…………」
言葉が出なかった。
昨夜、額を寄せたまま朝を待った。
ふたりとも眠らなかった。
眠れば、夜明けが来るから。
そうすれば、こいつは行ってしまうから。
「……帰ってこいって、言ったのに」
誰にも届かない言葉が、崩れた冥界に落ちた。
涙に濡れた瞳の奥で、彼の中の何かが音を立てて壊れていく。
「お前がいなかったら……この世界も、生きる意味もないというのに……」
突きつけられた現実に、全身の力が抜け、膝が地をついた。
***
そのとき、セインの脳裏に閃いたのは、冥界の奥深くに封じられた禁術——魂の強制復活。
決して触れてはならない、魂の秩序を乱す術。
生死の理を覆し、代償として己の魂を崩壊させるとされる禁忌中の禁忌。
だがそれでも、彼は迷わなかった。
昨夜、あいつの手は冷たかった。
それでも握り返してきた。
その温度が、まだ掌に残っている。
「……キルハ……お前を……絶対に取り戻す……!」
セインは、禁忌に手を伸ばす。
たとえ自らの魂が裂けようとも、世界が呪おうとも、キルハを再びこの世界に呼び戻すために。
それが、のちの分離した魂——零士と昇也を生むことになるとも知らずに。
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