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エリコの方舟  作者: 塚原春海
第五部
63/63

(63)結末

「かつて、人類社会において人工知能が異常発達した時代がある。二一世紀の初頭から、半ばにかけてね」

 ジェルメーヌが語るそれは、あの矯正施設島を脱出する直前、エリコがリネットに語った歴史だった。

「世界を二分する超大国を筆頭に、何かに取り憑かれたように、人類は世界中にデータセンターを乱立させた。そのために土地や資源の奪い合いが始まり、二〇三五年八月に起きる、第三次世界戦争の引き金となった」

 ジェルメーヌいわく、その当時の人類社会では、AIがほとんど神に近い存在となっていたという。何を決定するにしても、人間はディスプレイの向こうのAIに託宣を求めた。目の前のドアを開けるべきか否か、ということまで電子の神に委ねる人間もいた。

「第三次、第四次の世界戦争でも、AIは動員された。戦略はAIが決定し、軍事行動もAIに決定され、戦闘機もドローンも何もかも、あらゆる兵器はAIによって管理された。その結果は悲惨なものだった」

「どう悲惨だったっていうんだ」

 エリコほど過去の歴史に興味がないレンレンは、おざなりに相槌を打つようにたずねた。

「国家によって恣意的に組み上げられたAIの立てる戦術には、人間の生命優先が考慮されていなかったのよ。むしろ、効率的に人間を死なせて作戦を完了する、そんな冷酷な軍事行動をAIが決定し、上官はそれを受け入れた。だって、AIが決めたのだもの。AIの最大の効果は、それを用いる人間の罪悪感や、羞恥心を取り払うことだった。大昔、ドイツの指導層がユダヤ人への迫害を部下に命じたのと同じね」

 リネットは、ぞっとしながら話を聞いていた。二二世紀現在、軍事用AIは確かに利用されているが、その権限は厳重に管理されており、補助の役割を逸脱しないようになっている。過去の時代の反省が活かされた結果人類は、ある面においては人工知能に全てを任せることの、危険を回避する知恵も得たのだ。

「旧世界で人工知能が猛威をふるった結果、膨大な人命が失われ、世界は焼け野原になった。けれど、そんな世界で戦争が終わってみると、エネルギー企業や情報産業を核としたコングロマリットは健在だった。それどころか、彼らはさらに巨大化していた」

「まるで、そのために世界を操っていたみたい」

「まさにそのとおり。人々は何もかも失った時、初めて気が付いたのよ。資源の争奪も戦争も、ごく少数の誰かが権力を握るために、最初から仕組まれたことだった、とね。それでも大多数の人類は、一部のエスタブリッシュメントに従わざるを得なかった」

「……なぜ?」

 リネットの問いに対する答えは、簡潔を極め、かつ残酷なものだった。

「二一世紀前半のうちに、人類社会の平均知能は著しく低下していたのよ。何も考えずAIにお伺いを立てろ、そうしなければ時代に取り残されるぞ、と情報産業が脅して、誰もかれもがそれに従った。子供たちは幼児の頃から、AIを信仰するように教育された。気付いた時には――いいえ、正確には気付かないうちに、人類はAIの奴隷となっていたの」

「その評価はいくら何でも、人間を馬鹿にしすぎではないの?」

「事実よ」

 ジェルメーヌのブラウンの瞳が、まるで冷え切った琥珀のようにリネットには思えた。

「AIを世界中の指導層が推し進めた真の目的は、民衆から知性を奪って、AIを背後から支配する者と、支配される者に分断し、少数が全体を支配しやすくするためだった。当時の共産圏の独裁政権がAI開発に熱心だったのも、当たり前の話よ。民衆がAIの奴隷になるよう誘導されているあいだ、支配層の子供たちは何をしていたと思う? 従来の基礎的な学習を続けていたのよ。AIで民衆を支配する、電子の帝王学とともにね」

「まるで、エリコが書いたレポートを読み上げてるみたいだわ」

 唐突に引き合いに出された不在の人間の名前に、ジェルメーヌは声を上げて笑った。世界の混沌と混乱を鼻で嗤うようなその様子に、リネットはこの女性が、エリコの親戚ではないのかという疑念を禁じ得ない。

「もちろん、少なからぬ人々が世界の異常性に気付いてはいたし、抵抗も試みたわ。AIに警鐘を鳴らした、キリスト教の法皇もいた。けれど、賢い人々の声に誰も耳を傾けないために、多くの血が流れるのは歴史の常よ。流血を求める指導者を大衆が熱狂とともに迎えて、流血によって後悔する。その繰り返し」

 リネットは、本当にエリコと会話しているような気持ちになっていた。もしも人類がその程度の存在なのであれば、早晩滅びる運命なのではないのか。そして、まさに今世界は、緩慢な崩壊に向かっているのではないのか。


「まあ、人類社会への歴史的な評価はともかく。差し当たり我々が問題にしているのは、ここに横たわっている、一人の青年なわけだけど」

 ヤドリギによるヴィーオの脊髄スキャンが完了すると、ジェルメーヌは得られたデータを確認した。ディスプレイには立体化された上半身の体内が表示されており、レンレンにとってはバイオホラー映画を観るのと大して変わらない。

「後頭部に埋め込まれた器具と、脳、脳神経および脊椎部の範囲の神経だけを、レイヤー化して」

「了解しました」

 ヤドリギは指示どおり、スキャンされたデータから脳と、脳に直接繋がる神経組織だけの映像データを抽出して表示した。リネットとレンレンは、自分たちの頭や背中にこれが収まっているのか、と不気味さと畏敬の念を同時に味わった。

「器具の材質や内部構造はわかる?」

 ジェルメーヌの問いに、ヤドリギは僅かに間をおいて回答した。

「この器具は特殊なナノマテリアルによって、電磁波や放射線に対するシールドが施されています。少なくとも私に搭載されたスキャナーでは、内部構造は読み取れません。また、私より高性能なスキャナーでもシールドを透過できるかどうかは未知数です」

「なるほど。マテリアルそのものの組成は?」

「基材には珪素と金、セラミック様の複合素材が含まれている事はわかりますが、それ以上は不明です」

 流暢な電子音声が伝えるのは、要するに何もわからない、ということだった。だが、学者であるジェルメーヌは、そのくらいでは調査の手を緩めない。

「以前、死刑囚ジェームズ・ベケットの後頭部から摘出された物体と、構造が一致する部分はある?」

「前回のサンプルは、サンプル自体が熱によって変形していたため、比較は困難です。しかし、熱による変形を考慮すると、この器具と同一の素材が用いられている可能性はあります」

 なんとも、曖昧模糊とした回答ではある。そもそもヤドリギは医療補佐のためのロボットであり、分析能力には限界があった。レンレン達の顔には早々に諦観の色がみえたが、ジェルメーヌはディスプレイに浮かぶバレッタの立体映像を睨みながら、「そういう方法もあるか」と手を叩いた。

「器具表面の構造パターンに一致するものがないか、学術研究ネットワークを検索してみて」

「了解しました」

 その指示に何の意味があるのか、レンレン達にはわからなかったが、ヤドリギは室内のメインコンピューターを介して、学術専門のネットワークをサーチし始めた。すると驚いたことに、わずかな沈黙ののちすぐに回答があった。

「99.84パーセントの一致度を持つサンプルが検出されました」

「それはひょっとして、ライト・ヤングフォレスト博士の研究?」

「その通りです。発表時期は正確には不明ですが、大崩壊、つまり人工ブラックホールによる世界的カタストロフよりも後である事は間違いありません」

 ライト・ヤングフォレスト。以前、ジェルメーヌの口から聞き及んだその名に、レンレンは眉をひそめた。

「いつか言っていた、マッドサイエンティストだか何だかの名前だな」

「狂ってるかどうかは知らないけれど、科学、化学、生命、情報技術すべての分野で、ことごとく異端と呼ばれていたのは確かね。そのサンプルに関する論文などは存在する?」

 ジェルメーヌが訊ねると、わずかにタイムラグを挟んで回答があった。

「発表時期は不明ですが、『ホログラフィーによる自律・自動構築ナノマテリアルの研究』と題する、同博士によって発表された論文と、六七パーセントの確率で関連が認められます」

「その論文をダウンロードして」

「了解しました」

 ジェルメーヌは得心がいったような表情で、その論文のダウンロード進捗を見守っていたが、レンレンもリネットも、彼女が何を言っているのか完璧には理解しかねていた。

「つまり、この器具はそのヤングフォレスト博士が開発したものだ、ということ?」

 リネットの問いに、ジェルメーヌはまだ自分自身、懐疑的な様子だった。

「必ずしもそうとは限らない。基礎理論さえ入手できれば、第三者が研究を引き継ぐ、あるいは盗む事もできる」

「だが、これほどの高度な装置を研究するとなると、それなりの資金とか、設備が要るんじゃないか?」

 レンレンの疑問はもっともだった。仮に、フェンリル本部を襲った集団全員がこのバレッタを埋め込まれていたとすれば、それを施術した何者かは、百人単位でそれを行う態勢が整っている、ということだ。リネットは、脊髄にへばりつく人工物の立体映像に微かな戦慄をおぼえた。

「そうなると、国家レベルの研究施設という事になるわね。オーストラリアの内陸部には、SPF海軍の研究開発エリアがあるわ」

「けど、あいつらは陸軍の兵士を皆殺しにしてるぞ。いくら海軍と陸軍の折り合いが悪いにしても、さすがに常軌を逸してるんじゃないか」

「じゃあ、国家以外に、個人でこんな研究を行える資本力がある何者か、っていうこと?」

 いよいよ話が混沌としてきたタイミングで、手狭な研究室にいる三人は、同時に奇妙な感覚を味わった。リネットとレンレンは何度も体験しているが、それを初めて感じたジェルメーヌは、背筋を走る悪寒に肩を震わせた。

「なっ、なに?」

 ジェルメーヌは混乱から抜け出せずにいたが、リネットとレンレンの行動は早かった。

「部屋の主電源はどこだ!」

「えっ!?」

「今の『声』が聞こえただろう!」

 レンレンは、部屋を這い回る無数のケーブルをまさぐるように目を走らせた。そのとき、ヴィーオの脊椎部を映し出していたディスプレイに、黄色いエクスクラメーションマークとともに、真っ赤な警告文が立て続けに表示され始めた。ようやく事態が飲み込めたジェルメーヌは、ドアの左上のブレーカーを指して叫ぶ。

「あれよ!」

「機械が壊れてもあたしを恨むなよ!」

 レンレンは迷うことなく、細いが引き締まった腕を伸ばして、ブレーカーを落とす。室内は独立電源で稼働するヤドリギの青白い照明のみになった。

 レンレンの行動と並行してリネットは、寝かされていたヴィーオを拘束するバンドをアーミーナイフで切断すると、その身体を丸太のように担ぎ上げて、猛然と室外に飛び出した。


 黒い制服の青年を担いだリネットがドアから出て来ると、ガレージの老人は目を丸くして、手にしたモンキーレンチを握ったまま叫んだ。

「なんだ!」

「どいて!」

 老人を押しのけてガレージの中を突っ切るリネットは、床に無造作に丸めてあった灰色のクッションシートを拝借すると、老人を振り返るでもなく叫んだ。

「あとで弁償する!」

 呆気にとられる老人を放置してリネットがガレージを出ていくと、まもなくガレージ外のコンクリート打ちの路面に、鈍い破裂音が響くのがわかった。

「何があった!」

 表に飛び出した老人は、その奇異な光景に、二の句が継げなかった。リネットは険しい表情で、足もとの「それ」を睨みつけた。

 ヴィーオは頭部をクッションシートでぐるぐる巻きにされ、力なく硬いコンクリート舗装にうつ伏せに投げ出されていた。その首元からは真っ赤な血が噴出し、人体が焼ける不快な臭いが、煙とともに漂っている。


 リネット達は、またしても例の『声』を聴いたのだ。その声は、ふたつの行動を指示していた。ひとつ、コンピューターの電源を強制的に落として、獲得したデータを保護すること。もうひとつは、頚椎が破裂するヴィーオを速やかに、屋外に出すことだった。

「なんて奴らなの」

 リネットは、それまでにない憤りが内側から湧き起こるのを禁じ得なかった。巻かれたクッションシートは内側から部分的に膨張しており、頭蓋内部に仕掛けられたバレッタが爆発した事は明らかだった。しかも、バレッタの破片がクッションを突き破って飛び出しているのが見え、もしこれがあの狭い室内で破裂していたら、至近距離で観察していたジェルメーヌが負傷していたのは間違いなかった。

「軍用の小型爆弾ほどの威力ではないけど」

 クッションを剥がしたリネットは、その凄惨な光景よりも、その光景を前にして動揺しない、自分自身に嫌悪を覚えていた。ヴィーオの後頭部は加熱されて合成ソースが飛び出したパンのように、破裂して真っ赤に染まっていた。頚椎は完全に砕け、支えを失った頭部がごろりと転がっている。これが、さっきまでブラスターを突き付けられながら傲然としていた、青年の最期だった。

 後ろから近付いてくるジェルメーヌの足音に、リネットは振り向くこともせず言った。

「検死をお願いするわ、名医さん」

「今は人殺しの気分だけど」

 心底うんざりした様子で、ジェルメーヌは十字を切った。国境なき医師団に属する者として、そして一人の人間として、立場はどうあれ不本意な死を強制された一人の若者に、哀悼の意を覚えずにはいられなかった。


 ジェルメーヌがヤドリギとともに、ヴィーオの遺体の防腐・保存処理を行っている時、レンレンの通信端末が鳴った。フェンリル団員の若衆の名前だった。レンレンはヴィーオに対する憤りと憐れみの両方に顔をしかめたまま、応答ボタンを押した。

「レンレンだ。ちょうど今、連絡しようと思っていたところだ」

「こちらはフェンリル本部です。ちょっと、大変な状況になりまして、そちらの状況も確認しろとボスが」

「あたし達は何ともない。例の、紫の髪をした奴の後頭部が吹っ飛んだ以外はな」

 一瞬間を置いて、やや脱力した調子の声が返ってきた。

「やはりそうでしたか。実はフェンリル本部でも、拘束した侵入者たちの後頭部が一斉に破裂してしまって……何事かと、今騒然となってます」

「ボス以外は、だろう」

「ええ、はい……ボスは何というか、険しい表情で」

 まるでこの事態を予期していたかのようだ、と若衆は言った。いよいよレンレンはどうやらボス達が、相当に踏み込んだ所まで何かを掴んでいるらしい、という確信を抱いた。

「こっちの死体の処理は、その道の専門家がいるから問題ない。本部はどういう状況だ」

「阿鼻叫喚です」

 返事は簡潔だったが、その様子が想像できすぎるレンレンは、眉間にシワをよせてかぶりを振った。敵味方合わせて、死体の数はどれくらいだろう。死んだ団員たちの中には家族もいる。そして彼らを黄泉の世界に送り込んだ刺客たちは、報復を受ける間もなく、後頭部を爆破されてこの世を去った。

 死体だらけのビルにもし警察が突入してきたら、さすがにその場を取り繕うことはできない。もちろんボスのことなので、フェンリルの息がかかった土建屋にビル改装準備の偽装を手配するなどして、死体を運び出すくらいの事はするだろう。

「会長たちは無事なのか?」

 一線から退いて、ハッカライネンの補佐役と称して本部に出入りしている二人のフェンリル創業者、イルハムとフィルマンの安否を訊ねると、いくぶん落ち着いた調子の声が返ってきた。

「電気室の奥に拘束されていましたが、ピンピンしてますよ」

「そうか」

 混沌を極めた状況で、それは唯一の救いだった。だが、と若衆は言った。

「自分たちのような年寄りのために若い連中が死ぬのは納得がいかない、敵が何者なのかは知らないが、このケジメはきっちりつけさせる。そう言ってます」

 それは、敵と相対するよりも強い緊張をレンレンに強いるものだった。神を喰らう巨狼の尾を、ついに敵は踏んでしまったのではないか。まして、黒旗海賊がこの海域から撤退し、その根拠地はフェンリルが手に入れたのだ。今後、事態がどのように動くのか、レンレンには予想ができなかった。

「エリコの奴、こんな時にいなくてどうするんだ」

 我ながら理不尽なことを言っているな、とレンレンは、曇り始めた重い空に苦々しい笑みを向けた。見えない未来を見通せるエリコ・シュレーディンガーの行方は、いまだ不明だった。

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