第5話 彼の視線、その温度
自室から廊下に出た瞬間のことだった。ほんのりと酒の匂いをまとって、しかししっかりとした足取りで、フィーロがこちらに近づいてくる。
「どうしたの、眠れない?」
こちらを気遣うように彼はティリアの顔を覗き込み、そっと肩を抱いてくれる。その温もりと、手のひらの優しさ。ずっと好きだったその温度に、背筋が凍る。
「フィーロこそ、どうしたの? てっきり屋敷に帰ったのかと思っていたのに」
「ラウルスと飲んでいたんだ。今までもよく一緒に飲んではいたけど、いよいよラウルスが義理の兄になるからね」
「義理の兄じゃなくても、もともと従兄なのに」
「それはそうなんだけど。でも、なんとなく心持ちが違ってくるものなんだよ」
いつもよりも少しだけ陽気なのは、アルコールのせいなのだろう。にこにこと楽しそうに笑いながら、肩に添えた手に力を込める。その意図を想像し、ティリアは思わず息を呑んだ。気のせいだろうか。だが――
「それで、どこかい行くつもりだった?」
「……書庫に行こうと思っていたの」
「書庫に? どうして」
「お気に入りの本が、部屋に見当たらなかったの。間違えて書庫に戻してしまったのかもと思って」
声が震えないように、必死でみぞおちに力を込める。顔が引きつったりしないように、緩やかな笑みで表情を誤魔化す。少しでも行動を間違えたら、全ての計画が水泡に帰す。それだけはダメだと、ティリアは両足でしっかりと立つ。
「明日から、あなたの家で暮らすことになるでしょう? そのときに、どうしても持って行きたくて」
「ふうん……本のタイトルは?」
「え?」
「同じ本、用意することができるかもしれないよ。明日にでも買いに行かせよう」
フィーロは優しい表情でティリアを見つめる。
「それより、明日は早いんだ。もう眠ったほうがいい」
「……それ、あなたが言うの? お兄様とこんな時間まで飲んでいるのに」
「うーん、それを言われると弱いな」
「真新しい本じゃなくて、思い出のある本がいいの。昔あなたが選んでくれた本なんだもの」
「はは、可愛いことを言うなあ」
フィーロが贈ってくれた本はいくらでもある。それを読んでも毒にも薬にもならないような、夢想の世界を描いた物語だ。そういうものを読ませることで、知識欲は満たされたと思わせるようにしていたのだろう。今となってはそうだとわかる。だからこそ、ここはどうにかして彼を振り切らなければならない。
そうだなあ、と、フィーロは少し考えるような表情になる。そうして目を細め、肩にかけた手を離す。
その代わり、彼の大きな手のひらが、ティリアの手のひらを強く握った。
「じゃあ、一緒に書庫まで行こう。二人で探したほうが早いだろう?」
「でも、お兄様と飲んでいたんじゃ……」
「いいよ、ラウルスなんだから。待たせておいたって怒りはしない」
「……そもそも、飲んでいたはずなのに、なんでここに?」
ティリアの疑問に、フィーロはフッと表情を消す。その冷たさに、ティリアは思わず後ずさる。ほんの数十センチの距離。それを彼は身を乗り出しただけで埋めて、ティリアの目を覗き込んだ。
「きみを夜這いしに」
「……え?」
「冗談だよ。トイレに行った帰りだっただけだ。まあ、そろそろ寝たかな、って気になっていたのは本当だけど」
その言葉は、本当なのか、冗談なのか。ティリアには判断が付かない。フィーロはどこかひょうひょうとしていて、いつだって何を考えているのかわからないのだ。
「書庫だよね? さあ、行こう」
大きな手は、ティリアを優しく導いてくれる。ティリアが幼かった頃から、ずっとこうやってこの人は前を歩いていた。
あの頃大きいと思った背中には、今では少しは近づけた。けれど今なお、彼との間には壁がある。それがどれだけ厚いのか、ティリアにはまだわからなかった。
イェツラー家の書庫は地下にある。地下は湿気が少なく、温度の変化も少ないから書物を保管するのにちょうどいいのだ――と、ラウルスから聞かされていた。本を守るためという理由で、窓もない。その代わり、魔術を使って灯りをつけるのだ。
「光よ」
フィーロが魔力を解放すると、書庫の中が昼間のように明るくなる。ずらりと並んだ本棚の背表紙の文字も、はっきりと認識できるようになった。
「こんなに、本が……」
「あれ? ここに来るのは初めて?」
「ううん。でも、あまり来ないから。いつ見ても圧倒されちゃうな、って」
「まあ、そうかもね。イェツラー家は神子の一族でも本家だから。過去何百年分という本が眠ってる。うちみたいな分家とは大違いだよ」
「分家といったって、ゾハール家だってずっと昔からあるじゃない」
「まあ、そうだけど。歴史はそれなりに長いはず……では、あるんだけどね」
歴史。その言葉に、ティリアはハッとする。『歴史』という言葉の意味を、自分はよく知らない。これまでにもきっと話には出ていたはずなのだ。イェツラー家も、ゾハール家も。どれくらい昔から存在していて、どんな人たちがどんな生活をしてきたのか。きっとそれが『歴史』ということなのだろうけれど、疑問に思ったこともなかった。
「ねえ、フィーロ。イェツラー家には、どんな歴史があるの?」
「……え?」
虚を突かれたかのように、フィーロはくるりと振り返る。考えていることの読めない瞳に見つめられ、ティリアは慌てて口を開く。
「なんとなく、気になってしまって。私は来年結婚して、ゾハール家の人間になるでしょう? でも同じ一族ではある……それって、どういうことなんだろう、って。イェツラー家の私と、ゾハール家の私。何か違いがあるのだとしたら、きっと歴史と関係があるのかなって」
必死で言葉を紡いでフィーロの違和感を拭おうとする。けれど語れば語るほどにスルスルと解けて落ちて、手応えがひとつも得られない。
そんなティリアを見下ろして、フィーロは笑った。
「いつの間にか、そんなことにまで気づけるくらい、成長していたんだね」
「成長……なのかしら、これって」
「そうだよ。きみはすっかり大人になった。まあ、そうじゃなかったら婚約だの結婚だのなんて話にはならないんだよなあ……」
「見くびってた?」
「違うよ。いつまでも子ども扱いしていた俺が悪かったな、って」
フィーロは不意にティリアから目を離し、少し離れた本棚のほうへと歩いていく。そうして一冊の本を手に取ると戻ってきた。
「これじゃない? 昔、きみに贈った覚えがある」
ポン、とティリアの手に載せられたのは『天駆ける鳥』という本だった。空だけでは狭いと言いだした鳥が、どこまでもどこまでも高く飛び、星の世界へ行こうとする話だ。しかしどれだけ飛んでも空は終わらずに星の世界へはたどり着けず、実は自分は十分に広い世界に住んでいたことに気づいて元の場所へと帰る話。
今いる場所は、十分に広いと知る話――それをフィーロが選んだのは、意図があるのか、それともないのか。
「……ええ、これよ。お気に入りの本なの」
「そう。見つかってよかった。それじゃあ、部屋に戻ろうか」
フィーロはティリアの肩を抱き、くるりと本棚に背を向けさせる。なぜそんなに急いで部屋に戻ろうとするの? ――疑問はあったが、これ以上は怪しまれるかもしれない。これ以上抵抗するのはやめておいたほうがいい。そう思い、フィーロのほうに視線を向ける。
……その瞳は、どこか厳しく凍り付いている。その温度には一体何の意味があるのか。
確かめようと、ティリアは口を開きかけた。
けれどその瞬間灯りが消されて、視界は闇に閉ざされた。――疑問と疑惑を、引きずったまま。




