第4話 私だけが知らない
儀式を終えると、フィーロはティリアの手を取り、テラスへと向かった。
「疲れただろう? お茶の用意をしてもらっておいたんだ。晴れて婚約者を名乗れるようになったんだし、ゆっくり話ができたらと思って」
「ありがとう、フィーロ。でも……」
「ん?」
「……昨日まではただの幼なじみだったのに、なんだか不思議な気持ち」
一瞬零れそうになった本音を笑顔のヴェールに包んで飲み込む。隣を歩くフィーロの顔を見上げると、彼は昨日までと変わらない様子で口元を緩めた。
「俺もだよ。きみが生まれた日のことだって、覚えているのに」
「それはさすがに忘れてもらって構わないのだけど」
「嫌だよ。あの頃の可愛らしかったきみを忘れられるわけがない」
「今は口答えばかりの生意気な子だって思っているんでしょう?」
「思ってない、思ってない。まあ、ちょっと生意気だなとは思うけど」
朗らかに笑うフィーロに、ティリアは喉の奥がチリリと痛むのを感じた。以前の自分ならこんな感情に囚われることはなかったのに。こんな他愛のない会話を心の底から楽しめていたはずなのに。
テラスに用意された席に着くと、静かにワゴンが運ばれてくる。ベリーやエディブルフラワーが飾られた、美しく華やかなケーキと、紅茶。婚約の儀式を終えたことを祝ってのものだろう。一度目の人生でも、このケーキを食べたはずだ。
焼きたての生地に甘い果実の香り。以前の自分ならこれを見た瞬間に目を輝かせていたのだろう。けれど今は、その華やかさが色あせて感じる。自分は確かに一度この席に座り、この菓子を口にしたはずなのに、味も、何を話したのかも、驚くほど曖昧だった。死の瞬間ばかりが鋭く残り、それ以外の日々は霧に沈んでいる。まるで、自分の人生から都合よく大事な部分だけ削り取られているみたいだった。
ティリアは大切に握ったケテルのオーブにそっと触れる。先ほど感じた違和感は、今はもうどこにもない。ただの透明な水晶のままだ。
「それ、気になる?」
フィーロの声にハッとする。ティリアはオーブに一度目を落としてから、ええ、と頷いた。
「魔力を注ぎ続けると色が変わるなんて、今は想像が付かないなと思って……」
「そう思うのも無理もないか。魔術道具としては一般的なものなんだけどね」
「へえ、知らなかった……儀式の魔方陣も、初めて見たわ」
「ああそうか。きみには魔力の制御は教えていたけれど、魔術の使い方自体は教えていなかったもんね」
彼は笑みを浮かべながら指先で宙に指先で円を描く。光の紋様はあまりに鮮やかで、ティリアは思わず息を止めた。こんなにも美しく、簡単そうに奇跡が形になるのに、自分は今までその入口にすら立たされていなかったのだ。魔力はある。制御も学んだ。なのに、なぜ使い方だけ教えてもらえなかったのか。聖女に不要だから、という言葉だけで片づけてよかったのか。知らないまま育てられてきたこと自体が、誰かの都合だったのではないかという疑いが、静かに胸に沈んでいく。
美しく描かれた幾何学模様にフィーロがそっと手のひらで触れる。その瞬間、ふわりと花が飛び出して、ティリアの手元に舞い降りた。
淡く輝く紫色の花だった。
「こういう魔術だったら、たぶんきみもすぐに覚えられるよ。教えてあげようか?」
「いいの?」
「もちろん。コツさえ掴めば子どもでも使えるような魔術だしね」
そう言って微笑むフィーロの姿に胸が軋む。きっとこれは、彼にとっての優しさなのだろう。何も知らない自分に、少しでも世界を見せてあげよう、という。未来があると思わせてくれる。これから先のことを想像させてくれる。
――その優しさの裏で、この人は何を考えているのだろう。
知りたい、と思った。だからティリアは目を細める。
「教えて。私、何も知らないから。魔術のことも、外の世界のことも、なんにも」
「そうだね。今までは聖女としての役割を果たさなければならなかったから、きみの行動に制限があった……でも、来年の儀式が終われば、きみは自由だ。そうしたらどこにだって行ける」
「……うん」
ティリアはギュッと拳を握ってから、顔を上げた。
「役目を終えたら、どこかに連れて行ってくれる?」
「ああもちろん。どこに行きたい?」
「そうね――」
――私、海に行きたい。かつてティリアはそう言った。フィーロは満面の笑みで約束してくれたのだ。必ず行こうね、と。
だからティリアは、言った。
「私、草原を見てみたいの。ずーっと、どこまでも遠く広がる草原を」
風を感じてみたい。どこまでも遠くまで広がる草原を見てみたい。その気持ちに嘘はない。子どもの頃に物語を読んでから、憧れた場所ではあったのだ。
ただ少しだけ、自分の意志で、過去を曲げた。
海ではなく、草原。たったそれだけの違いだ。けれどティリアにとっては、自分の意志で選び直した最初の一歩だった。前と同じ言葉をなぞれば、同じ未来に呑まれる気がした。ほんのわずかでも流れをずらしたかったのだ。
フィーロは満面の笑みを浮かべる。あのときと同じように。
「うん、必ず行こうね」
その声音は、あの儀式の日のものと重なって聞こえる。
……これは、何かが変わったと言えるのだろうか。
わからないまま、ティリアはゆっくりと頷いた。
自分は何も知らないのだと、改めて思い知らされた。結末を知らなかった頃は、なんと呑気だったのだろう。ティリアは自分の愚かさに吐き気がする。
夜、自室に戻ったティリアは、荷造りを装いながら棚の中をひっくり返す。明日からは婚約者として、ティリアはフィーロの家で暮らすことになる。本来はそのための荷造りではあるのだが、今の目的は別のことだった。
引き出しを開ける。閉じる。棚の奥まで指を滑らせる。出てくるのは刺繍の図案集、古い童話、季節の花の絵本――どれも綺麗で、柔らかくて、何の害もないものばかりだった。
地図はない。歴史書もない。他国の文化を記した本も、魔術理論の入門書すら見当たらない。世界に触れるための窓だけが、驚くほど丁寧に取り払われている。
可愛がられていたのではない。守られていたのでもない。
知らなくていいように丁寧に取り除かれていたのだ。
その事実に気づいた途端、胃の奥がひやりと冷えた。自分は箱庭の中で幸福そうに笑うよう育てられ、最後に差し出される家畜と何が違ったのだろう。
それでもティリアは唇を噛み、顔を上げる。泣いている場合ではない。知るしかない。今ここで動かなければ、明日からはもっと綺麗に閉じ込められるかもしれないのだから。
ラウルスもフィーロも、幼い頃からティリアにたくさんのことを教えてくれていた。本だってたくさん与えられたし、聖女としての役目を果たすため、魔力の制御の方法だって教えてくれた。
だが改めて見返してみると、この部屋にあるのは当たり障りのない物語や絵本だけ。この世界にどんなものがあって、誰がどんな生活をしているのかさえ、なにひとつ知らないのだ。海や草原が本当に存在しているのかさえも、ティリアは明確には知らなかった。
今ならわかる。恐らく自分は、意図的に世界を知らされずに生きてきたのだ。
「……書庫になら、何かわかる本があるかしら」
このままフィーロの館に行けば、情報を得られる機会は減ってしまうかもしれない。もしかしたら、今日が最後の機会かもしれないのだ。
だとしたら、今動かなければ。
ここから先は、全く別の未来になる。身体が震える。どうしても、怖い、と思ってしまう。
けれどこのまま何も知らずに命を落とすことのほうが、ずっと恐ろしい。
ティリアは震える指先に力を入れて、部屋の扉を開く。その瞬間。
「こんな時間にどこに行くの?」
――そこにいたのは、フィーロだった。




