第3話 婚約の儀式
フィーロの微笑みを見据えながら、ティリアは静かに息を呑む。ないはずの傷が、再び疼く。胸元にそっと手を添えて――血の感触がないことを確かめ、息を吐く。
そんなティリアに、優しげな笑みを浮かべたラウルスが近づいてきた。
「緊張しているんですか、ティリア」
「……いえ」
「大丈夫ですよ。相手はフィーロ、あなたもよく知った相手でしょう?」
「そうだよ。そもそも、俺たちの屋敷は隣同士にあって、婚約した後もきみはいつでも実家に帰れる。俺のことが嫌になったらラウルスに泣きつけばいいんだ」
「ええ。僕が彼をしっかりと懲らしめますから、安心して」
「ラウルスの『懲らしめる』は本当に厳しいからな。本気で気をつけるつもりだよ」
それでも立ち尽くしたまま動けずにいるティリアの元に、フィーロはゆっくりと歩み寄ってきた。ラウルスも背が高いが、フィーロはそれよりももう少し視線が上にある。自然と見上げる形になり、ティリアは必死で言葉を殺す。
――なぜ私を殺すの?
……婚約の儀式の場には似つかわしくない不穏当な言葉が、浮かんでは、消える。
「儀式の手順は覚えてる?」
「……ええ」
「なら大丈夫かな。きみはこれを持っていてくれればいい。あとは俺が導くから」
フィーロは透明な水晶をティリアの手に握らせた。――ケテルのオーブだ。
「さあ、祭壇へ」
彼に手を取られ、ティリアは静かに頷いた。これからティリアとフィーロは祭壇に立ち、日の光が降り注ぐ中、愛を誓う。そして一年、大切に魔力を注ぎ続けたそのオーブを手に、二十歳の誕生日を迎えるその瞬間に二人きりで婚姻の儀式を行う。すると世界は救われて、ティリアとフィーロは晴れて夫婦となる――と、いうのがティリアが知る神子の一族のしきたりだった。
本当は、違うのに。
自分は生け贄とされるために、大切に大切に、育てられてきただけなのに。
硬い足音を立てながら、大理石の床を踏む。自分の手を引くフィーロは、どこまでも優しかった。幼い頃からずっとそうだ。兄は親代わりということもあり、時々厳しく叱られることがあった。そんなとき、ティリアが甘えたのはフィーロだった。七歳年上のフィーロは、何があってもティリアのことを否定せず、甘やかして、励まして、味方でいてくれた。この人の手を握っている間は何も怖いことはないと信じられた。
――だから、殺された。
足を止める。祭壇の真ん中に立って、ティリアは天を仰いだ。
さんさんと輝く太陽が、ティリアの誕生日を祝福している。
「ティリア、オーブを掲げて」
フィーロに導かれるままに、ティリアはその美しいオーブを掲げた。
「そのまま、ゆっくりと魔力を注いで」
静かに目を閉ざし、自分の体内を巡る魔力に意識を向ける。
――きっとフィーロは、気づいていない。ティリアがこれから起こることを知っているなどと、ほんのわずかも考えていない。
今日から、一年間。ティリアは死ぬために生きていくことになる。だがそんな未来を易々と受け入れるわけにはいかない。それでは何のために生きてこの日に戻ってきたのか、何の意味もなくなってしまう。
婚約者も、兄も、信用ができない。
ならば独りで立ち向かうしかない。
それなら慎重に事を運ぶ必要があった。それに知る必要もある。この世界の神子の一族に産まれた意味と、本当の役目を。
フィーロが静かに呪文を唱える。
「ケテルのオーブよ、我ら神子の魔力を受け、真実の姿を露わにせよ」
その呪文の言霊に応じて祭壇の床が淡く輝き、円環の紋章が浮かぶ。……胸を貫かれたあの日、足元に刻まれていたものと同じ紋章が。
心音が、不規則に響く。
――真実の姿。
かつてはその意味を深くは考えていなかった。この世界では、魔力を用いて魔術を使う。その魔術は言霊に乗って形を変え、様々な奇跡を起こしていく。それが当たり前なのだと、ずっと言い聞かされてきた。
……一体どこまでが真実で、どこからが偽りなのか。
必ずそれを曝いてみせると誓いながら、ティリアは魔力を注ぎ込んだ。自らの血肉を分け与えるように。
かすかに風が吹きローブが揺れる。次の瞬間、オーブがわずかに輝いた。
「……これで、儀式は終わりだよ」
フィーロに告げられ、ティリアは大きく息を吐いた。知らず、肩に力が入っていたらしい。ケテルのオーブを落とさないように気をつけながら、しっかりと胸にかき抱いた。
「そのオーブは、きみの分身のようなものだ。これから一年、婚姻の儀式をする日まで、祈りを捧げて魔力を注いで。そうしたら、最後には美しい紫色に変わるはずだ」
――それが、私を贄とするために必要な道具なのね。
ティリアは心の底でそう呟きながら微笑んだ。
「わかった。肌身離さず持ち歩いて、しっかりと魔力を注ぐわ――あなたと結婚する、その日まで」
そう言って微笑むと、フィーロはその大きな腕でティリアの身体を抱き締めた。大きな身体だ。細身に見えて筋肉質で、魔力も強い。知識も豊富で、そう簡単には出し抜くことはできないだろう。
こんな人を相手に、本当に自分の命を守れるのだろうか、と。そんなことを考えなければいけなくなったということが、寂しかった。……好きだったのだ。ちゃんと、この人のことが。幼い頃から、ずっと。
だが、もう二度と惑わされたりはしない。この温もりに、身を委ねたりしてはならない。そう心に誓いながら、ティリアは冷たい息を吐いた。
胸に抱えたままのオーブが、わずかに脈打つ。
――今のは、なに?
だが何も気づかなかったフリをして、ティリアは指先に力を込めた。




