第五十一章:敵は、義兄
黒幕の名前が出たので、さっそく挨拶に行きます。
ええ、未来のお義兄さんに。
リヒャルト・リンドガルド。
その名が、頭の中で鈍い警鐘のように鳴り響いていた。
地下牢を出て、夜の帝都の冷たい空気を胸いっぱい吸い込んでも、その重苦しさは残ったままだった。
(オグラの証言だけじゃ、足りない)
証拠にはならない。
振りかざすには、軽すぎる。
下手に動けば――面倒になる。
マルクスも黙ってない。
軍務総長まで敵に回ったら……笑えない。
しかも。
(リヴィアの……実の兄、か)
その事実だけで、ヴァンの思考が、一瞬だけ鈍く澱んだ。
帝都の裏で無差別テロを仕組んだ冷酷な手が、あの細い肩を抱いて育った手と――同じだった。
最悪だな。
「……クソが」
歯軋りしながら、低く毒づいた。夜風が、火照った頬をひんやりとなぞっていった。
翌日。
ヴァンは一人で学院の図書館へと足を運んだ。
奥の棚の間。指定席のようなその場所に、やはり彼女はいた。
テーブルの上には、魔導機兵の細かいパーツが散らばっていた。
その細い肩と、銀糸のような髪を見た瞬間――ヴァンの胸の奥で、黒い泥のような憎悪と、どうしようもない罪悪感が混ざり合った。
ヴァンは小さく息を吐き、張り付いたような冷たい表情を、いつもの「笑み」へと無理やり塗り替えた。
ヴァンは足音を立てずに近づき、向かいの席に腰を下ろした。
「――久しぶりだな、リヴィア」
ビクッ、と肩を揺らして、リヴィアが顔を上げた。
ヴァンの顔を見た瞬間、その青い瞳がふわりと柔らかく綻んだ。
「ヴ、ヴァンさん……! あの、お、お怪我は……もう、だいじょうぶで……したか……っ?」
声が少し上ずっていた。
ヴァンは頬杖をつき、少しだけ意地悪く、だが優しく笑いかけた。
「ああ。まあ、死にはしなかったけどな」
……少しだけ間を置いて
「この前の、効いたしな」
「えっ……ぁ、あ、あの時は、そのっ……!」
リヴィアの白い頬が、一瞬にして林檎のように赤く染まった。
慌てて視線を逸らし、手元のパーツをいじり始めたが、その指先は明らかに落ち着きがなかった。
ヴァンは小さく息を吐き、少しだけ表情を引き締めた。
「――一つ、聞いていいか」
リヴィアがピタリと手を止めた。
「……はい」
「お前には、兄がいるだろう。リヒャルト殿だ」
静寂。
「……はい」
「俺のことを、あまり面白く思っていないらしいな」
リヴィアは、わずかに肩を縮めた。眉がハの字に下がる。
「……お兄さまは、その……ヴァンさんの戦術が、帝国の主流と……す、少し違うから……なんだと、思います……っ。軍の、小難しいことは……私には、よく分からないん、ですけど……」
言い淀みながらも、彼女は必死に言葉を紡ぐ。
「でも、お兄さまは……そんなこと、する人じゃありません……ちゃんとした人、です……昔から、私にもとても優しくて」
そこで一息ついた。
「だから……ヴァンさんのことも、ちゃんと顔を合わせて話せば、きっと分かってもらえると……思います。たぶん……」
最後の「たぶん」は、自信なさげに消え入りそうだった。
ヴァンは黙って聞いていた。
(誠実で、真剣で、妹思い――ね)
脳裏に、凄惨な血だまりがフラッシュバックする。
ブルーノの背中。ディーターの折れた剣。
(……あれを、やったのか)
一拍の間。
(あいつが)
胸の奥に、冷たい氷の刃がスーッと刺さるような感覚が走った。
だが、ヴァンは微塵も表情を崩さなかった。
「……なるほどな」
「……あの」
リヴィアが不安そうに、ヴァンを覗き込んでくる。
「何か……ありましたか? お兄さまに」
「いや」
ヴァンはいつもの、少し余裕のある笑みを作った。
「大した話じゃない。ただ――未来の『お義兄さん』とは、さっさと誤解を解いとくべきだろ?」
リヴィアの頭の中で、何かがぐつぐつと沸き上がり、臨界点を超えた。
「――っ!?」
彼女の顔が、耳の先から首筋まで一瞬にして朱に染まる。
「み、みみみ未来の、お義兄さんって……っ!?」
「何か問題でも?」
「ま、まだ結婚してませんっ……! 破談の話が白紙に戻っただけで、わたしたち、その……っ」
恥ずかしさのあまり、手で顔をパタパタと扇ぎながら小声で付け足す。
「……まだ、婚約期間、ですから……っ」
「そうだったな。先走った、失礼」
ヴァンがクスクスと笑うと、リヴィアは「もう……っ」と呻いて、魔導機兵の箱の陰に顔を半分隠してしまった。
「――話を戻すが」
ヴァンは少し身を乗り出した。
「一度、ちゃんと挨拶に行きたい。口実はお前の趣味にかこつける。俺が機兵のパーツ探しを手伝うから、一緒に屋敷を訪ねないか」
リヴィアは少し困ったように俯いた。
「あの……お兄さまは、私が機兵の模型をいじるのを……あまり、よく思っていないみたいで。女が機械弄りなんて、って……」
「なるほど、印象が悪くなるか」
「……はい、たぶん」
小さく縮こまるリヴィア。
だが、すぐに顔を上げて、真っ直ぐにヴァンを見た。
「で、でも……ヴァンさんが私の趣味を理解して、応援してくれているのは……とっても、嬉しいです。本当に」
その言葉には、一切の淀みがなかった。
ヴァンは頷く。
「構わない。俺がお前の趣味に付き合っていると分かれば、むしろ向こうから何か言ってくるはずだ。それをきっかけに話せばいい」
「……家族というのは、な」
ヴァンは、リヴィアの青い瞳を見据えて静かに言った。
その濁りのない瞳に、どす黒い企みを抱える自分の顔が反射している気がした。
(――俺は、本当に救いようのないクズだな)
激しい自己嫌悪と罪悪感を喉の奥に呑み込み、ヴァンは努めて穏やかな声を出す。
「最終的には分かってくれるものだ」
「……そうでしょうか」
「そうだ」
断言した。
それは彼女を安心させるための優しい嘘であり、自分自身に向けた冷酷な『作戦宣告』でもあった。
リヴィアは少しの間、その力強い言葉を反芻するように黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「……分かりました。お兄さまに、お茶の時間を設けてもらえるよう頼んでみます」
「助かる」
図書館を出て、夕暮れの回廊を一人で歩く。
背後に、護衛の気配はない。
(目的は、一つだ)
ヴァンは、茜色に染まった石畳を見下ろした。
確たる証拠がない以上、こちらから直接牙を剥くわけにはいかない。懐に潜り込み、相手の呼吸を測り、ボロを出すのを待つ。
(やることは決まっている。リヒャルト・リンドガルドの懐に潜り込む。情報を拾い、腹の底を叩く。そして、ボロを出させる。それだけだ)
今打てる最善の一手は、それだけだった。
リヴィアに嘘は吐いていない。ただ、本当の目的を隠して利用しただけだ。
(――まあ、そういうもんだ)
【第五十一章・終】
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