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第五十章:ついに名前が出た

拷問になるかと思ったら、普通に商談になりました。



そして——ついに、名前が出ます。


ヴァンは格子の前で、黙って待った。

オグラの顔から、すべての偽装が剥がれ落ちていた。拘束具に嵌められた両手が、かすかに震えている。


「……敏いわね」

やがて、血を吐くような低い声が漏れた。


「これだけ若くて——これだけ人の急所を抉れるなんて」


彼女はゆっくりと顔を上げ、ヴァンを睨みつけた。その目には、敗北を認めた間諜の深い絶望と、かすかな縋る光があった。


「褒め言葉として受け取る」


「褒めてないわよ」


オグラは目を閉じたまま、自嘲するように続けた。


「怖いって言ってるの。……八人いるわ」


唐突な告白だった。ヴァンは黙って聞いた。


「家族よ。父と母。弟が二人、妹が三人。それと——祖母が一人。ノストラと帝国の国境近くの、小さな集落にいるわ」


声が、かすかに揺れた。

すぐに、元に戻った。


「——そういう家族よ」


ヴァンは答えなかった。

オグラが目を開けて、ヴァンを鋭く睨んだ。


「あなた、正直に答えなさい。その情報——私が今話した家族のこと、使わないって言い切れる?」


「……」


「家族の居場所を知っていれば、いつでも彼らを人質に取れる。私という間諜を動かすのに、これ以上便利な『首輪』はないでしょ」


ヴァンは少し間を置いた。


「言い切れない」


正直に答えた。


「証明もできない。だが」


ヴァンは真っ直ぐにオグラを見返した。


「脅して無理やり動かすより、商人同士として利益を分かち合った方が、俺にとっても都合がいい」


沈黙。

やがてオグラが——ゆっくりと、息を吐いた。


「……本当に、純真なわけないでしょ、あなた」


「よく言われる。——で、条件は?」


オグラが、拘束具の中で指を組んだ。

その顔にはもう、商人の冷徹な光が戻っていた。


「商人式でいきましょう。前金と残金。前金——家族を安全な場所に移してちょうだい。証拠を持ってきなさい。顔が確認できるものを何か。それを確認したら——黒幕の名前を教える」


「分かった」


「……残金は?」


「私を審問にかけない。帝国から解放して、安全にノストラへ帰す。その上で、あなたの専属情報屋になってあげる」


「局長との交渉が必要だが——俺は『努力』する」


ヴァンは表情一つ変えずに、空々しい言葉を並べた。


「俺の専属情報屋になるというなら、ノストラの間諜網ごと帝国の利益に変換できる。その価値は計り知れない。軍情局にとっても、お前を無罪放免にして野に放つだけの『理由』にはなるだろうな」


だが、オグラは鼻で笑った。


「努力じゃ足りないわ」


オグラの鋭い視線が、ヴァンの目を鋭く見据えた。


「軍情局が、私みたいな大罪人を堂々と正面の扉から『無罪』で帰すわけないじゃない。……あなた、結局のところ、私をどうやって逃がす気?」


ヴァンは少し間を置いた。

ここで嘘を重ねても、一流の間諜には見透かされる。だから、真実を提示する。


「……正規の解放ルートは保証できない。おそらく、どこかの施設への『移送中』に、俺がわずかな隙を作るだけだ。……そこから生きて帝国を抜け出せるかは、お前の腕次第だ」


ヴァンは冷酷に宣告した。


「安全な帰還なんて甘い話はない。……これが、俺が出せる『残金』の限界だ」


息の詰まる沈黙。

何の保証もないデスゲーム。そして、到底割に合わない命がけの逃走劇。

だが、家族の安全という『前金』が確約されるなら——彼女には、その危険な博打に乗るしかなかった。


「……悪魔」


絞り出すような声だった。


オグラは拘束具の中で固く指を組み、深々とため息をついた。


「……仕方ないわね」


彼女はヴァンを見据え、商人としての鋭い光を取り戻した。


「それで、誰を国境に向かわせるの? 遠いわよ」


「俺の共同経営者だ。ローランという男を向かわせる」


その名前を聞いた瞬間、オグラの目が大きく見開かれた。


「はぁ!? ローランって、この前商売してたやつ!? ちょっと、いくらなんでもあんな軽薄な男が頼りになるの!?」


「金には汚いが、信義と契約は守る」


ヴァンは事も無げに言った。


「真の商人は、利益を生む契約を裏切らない。俺が保証する」




地下の廊下を出た。

魔薬部長のクリークが、薄暗い廊下の角で壁に背を預け、腕を組んで待っていた。


「——終わったか」


「はい」


「何か引き出せたか」


「前金として、国境近くにいる彼女の家族の保護を要求されました。それを果たせば、黒幕の名前を吐くと言っています。それに——」


ヴァンは声を潜めた。


「彼女は『二重間諜』になることに同意しました。ノストラの間諜網をそのまま帝国の利益として流用できる。軍情局にとって、彼女の価値は計り知れないはずです」


クリークが、目をうっすらと開けた。

古い傷のある顔に、獰猛な笑みが浮かんだ。


「ひひっ……二重間諜だと? あのネズミから、骨の髄まで絞り上げる気か。お前、本当に私の弟子だな」


「恐縮です。……ついては、辺境へ向かうための護衛を貸してください。少数でいい。腕の立つ人間を」


クリークは数秒の沈黙の後、低く言った。


「局長が戻るまで——」


「待てません」


ヴァンは言った。


「条件の一つ目を果たさなければ、名前は出ない。時間が経つほど、向こうが手を打つ可能性も上がる」


「……少数だ」


険しい顔で、それだけ言った。


「……三名だ。私の直属の部下をつける。局長が戻る前になんとかしろ」


「十分です」




翌朝。


ヴァンは宿舎の扉を思い切り蹴り開けた。


バンッ!


「ローラン、起きろ」


「——ひゃあっ!?」


室内から、素っ頓狂な悲鳴が上がった。

ローランは、机の上に散乱した未払いの請求書や金勘定の帳簿に顔を埋めたまま、よだれを垂らして寝落ちしていたらしい。


飛び起きたローランは、目をこすりながらヴァンを見た。


「ヴ、ヴァン……? なんだよいきなり! それより『帝国戦棋』の拡張パックはまだ!? 貴族の坊ちゃんたちが金貨を握りしめて催促してきてるんだよ!」


「遊びは後だ。デカい商談を持ってきた」


ヴァンは机の上の帳簿をどかし、地図を広げた。


「辺境に行ってほしい。ノストラとの国境沿いだ。現地の商会と接触して、国境越えの裏ルートを作ってこい」


ローランの寝ぼけ眼が、一瞬で商人のそれに変わった。

「チャリン」と、頭の中で金貨が鳴った気がした。


「……ノストラの裏ルートが開ければ、莫大な利益になる。でも、国境近くって安全なの?」


「護衛はつける。軍情局の人間が三名、お前の『下働き』として同行する」


「ぐ、軍情局ぅ!?」


ローランが素っ頓狂な声を上げた。


「絶対何かヤバい裏があるよね!?」


「大した裏じゃない。ついでに小さな仕事を頼みたいだけだ。現地で、ある家族の顔を確認して、証拠になるものを一つ持ち帰ってくれればいい」


ヴァンはローランの肩を叩いた。


「断ってもいいぞ」


「……行くに決まってるだろ!」


ローランは勢いよく立ち上がった。

軍情局の護衛がつくなら、命の保証はある。


「辺境ルートの独占権なんて、一生遊んで暮らせる利権だ! 軍情局の護衛つきなら死ぬことはない……はず! 分かった、すぐに出発する!」


ローランは慌ててコートを羽織りながら、扉へ向かった。


「まずは店舗の責任者に留守の指示を出してくる! 馬車の手配を頼むよ!」




出発したローランを見送った後。

ヴァンは自分の部屋に戻り、ベッドに倒れ込んだ。

限界だった。泥のように眠った。


目が覚めた時、外はすでに夜の闇に包まれていた。


(——ローランが戻るまで、早くても一週間はかかる)


待つのは性に合わない。

ヴァンは起き上がり、再び軍情局の地下へと向かった。




「……なんでまた来たのよ」


格子の向こうで、オグラが呆れたように言った。

だが、最初に来た時より、明らかに声の緊張が解けていた。


「もう動いた」

「……?」

「今朝だ」


オグラが、目を見開いた。


「……もう?」


「遅い方が危険だ。早い方がいい。ただ、一週間はかかる。待ってほしい」


オグラは、格子をつかんだ自分の手を見下ろした。

拘束具の冷たい金属が、魔力灯の光を反射していた。


「……」


しばらくして、ゆっくりと顔を上げた。


「——近づきなさい」


低い、かすかな声だった。

ヴァンは格子に近づいた。魔法封じの結界の光が、二人の間に揺れていた。


オグラが、ヴァンの耳元に向かって、かすかな声で囁いた。




「……リヒャルト・リンドガルド」




ヴァンは、微動だにしなかった。

その名前を、頭の中で反芻した。


(——リヒャルト・リンドガルド)


あの、傲慢で、常に演説をぶっているような男。

『正面からの力押しこそが軍人の栄誉だ』と公言してはばからない、旧態依然としたエリート。


そして——


(軍務総長、ロルフ・リンドガルドの息子)


同時に、脳裏に図書館の光景がフラッシュバックした。

散らばった機兵の金属部品。

『お怪我、だいじょうぶでしたか』と、おずおずと尋ねてきた青白い顔の少女。


(——リヴィアの、実の兄)


重すぎる名前が胸につかえ、ヴァンは冷たい石の壁が目の前に立ち塞がったような、息もできない錯覚した。




【第五十章・終】

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