第四十九章:スパイを買う
今回はちょっと趣向を変えて——尋問ではなく、「商談」です。
命と情報と裏切りをテーブルに乗せて、
さて、いくらでスパイは買えるのか。
沈黙が、続いた。
魔力灯の青白い光が、石の壁をぼんやりと照らしている。
ヴァンは格子の前に座ったまま、動かなかった。
(……通じないか)
ヴァンは、わずかに視線を落とした。
(なら——)
もう一度、オグラを見る。
ヴァンは懐からバッジを取り出した。
重厚な魔導銀で鋳造された、特別監察官のバッジ。
格子の隙間から、オグラの目の前に突きつけた。
「オグラ。これが何だか分かるか」
オグラは冷めた目でそれを一瞥した。
「……何、それ。軍の階級章?」
「特別監察官のバッジだ。軍情局内で部長クラスと同格の、局長直轄の特例権限を持つ。お前が口を割れば、この権限を使って、魔薬部の拷問からお前を保護してやる」
ヴァンは高圧的に言い放った。
だが、オグラは鼻で笑った。
「知らないわ、そんなガラクタ」
「本物だ」
「あなたがそう言うだけでしょ。仮に本物だとして——私には関係ない。クラウス局長が直接言いに来るなら話は別だけど、こんな子供騙しで釣れると思わないで」
ヴァンはバッジをゆっくりと引っ込めた。
(まあ、そうだな)
帝国の内部序列など、ノストラの間諜に説いても意味がない。そもそも、こんな若造が軍情局の最高権限を持っているなど、常識的に考えてあり得ない。
(なら、別の角度だ)
ヴァンは、格子に顔を近づけた。
声のトーンを一段階落とし、冷徹に切り込む。
「オグラ」
「……何」
「お前が帝都の襲撃の後、ノストラへ逃げ帰らずに、わざわざ近郊の街に潜伏した理由。……俺なりに考えた」
オグラが、微かに目を細めた。
ヴァンは容赦なく言葉を叩きつける。
「逃げなかったな」
ヴァンはぽつりと言った。
「帝都を捨てなかった」
「……」
「理由は知らない。だが——」
わずかに、間を置く。
「捨てきれなかったんだろ」
格子の向こうで、オグラの表情は凍ったまま動かない。
だが——呼吸のピッチが、わずかに乱れた。
「金のためか、家族のためか、ノストラへの忠誠か——どれかは知らない。だが」
ヴァンはさらに声を低くし、呪いのように囁いた。
「何のためであれ——お前にはまだ、這いつくばってでも生きていたい理由がある。違うか?」
「名前を一つ教えろ」
ヴァンは命じた。
「誰にあの魔導器を売った。それだけでいい。そうすれば、俺はこのバッジの権限をフルに使って、お前を拷問から守る」
沈黙。
「オグラ」
氷のような声が、冷たい地下牢に反響する。
「いい加減に現実を見ろ。お前は今、軍情局の最下層にいる。……あと一時間半でうちの師匠が来る。魔薬部の拷問が始まれば、お前のその綺麗な顔も、間諜としての誇りも、脳髄も、すべて薬品でぐちゃぐちゃに掻き回される」
ヴァンの言葉は、刃のようにオグラの想像力を抉った。
「何も分からなくなり、一生、涎を垂らして冷たい床を這い回る肉の塊になる。……それがお前の望む結末か?」
高圧的で、生々しい脅迫。
オグラが——ゆっくりと目を閉じた。
間諜としての死の覚悟すら超える、尊厳を徹底的に破壊されることへの恐怖。その顔に、初めて明確な翳りが差した。
(効いている)
「たった一つの名前だ。それを吐くだけで、最悪の結末は回避できる」
長い間、誰も口を開かなかった。
やがてオグラが目を開け、ふっ、と自嘲するように息を吐いた。
「——怖いわね」
低い声だった。
「若いくせに、ずいぶんと人を追い詰めるやり方を知っているじゃないの。……あのイカれた魔薬部長の直弟子だっていうのも、納得だわ」
「褒め言葉として受け取っておく」
オグラは、少し間を置いてから続けた。
「でもね——私だって、ただの小娘じゃないのよ。そんなに脅したって無駄よ」
少し笑うような、だが乾いた声だった。
「あんまり追い詰めると——拷問される前に、舌を噛み切ってでも死んでやるわ。ノストラの間諜を舐めないで」
自害の示唆。
だが、ヴァンは表情一つ変えなかった。
そして、冷酷に断言した。
「しない」
「——え?」
「お前は自害なんて絶対にしない」
ヴァンは格子の隙間から、オグラの目を真っ直ぐに射抜いた。
「赤備えを見た時のお前の顔を覚えている。あの恐怖は本物だった。拷問を恐れ、死を恐れたからこそ——お前はプライドを捨てて、必死に俺にすがりついたじゃないか」
「……っ!」
オグラの目が、激しく揺れた。
図星を突かれた人間の反応だった。
「お前は死ぬのが怖いんだ、オグラ。だから——そんな安いハッタリは通用しないぞ」
息の詰まるような沈黙。
格子の向こうで、オグラが魔力拘束具の中で、指をゴリッと鳴らした。
それから——ゆっくりと口の端を上げた。
「……正解よ。私は死にたくないわ」
静かな声だった。
「でも——だからって、口を割る理由にはならない」
「なぜだ」
「それにね」
オグラが、自分の頬を指差した。
三本線の、魔力刺青。
「この刺青——ただのお化粧だと思う?」
「……」
「審問への反制術式かもしれない。万が一、そういうものが仕込まれていたら——名前を言った瞬間に、私の記憶が焼き切れることだってあるでしょ」
ヴァンは、その言葉を聞いて息を呑んだ。
(ハッタリか? いや……)
あの傭兵の件だ。あのときも、帝国内では見たことのない術式が使われていた。
それに、赤備えの隊長が言っていた。「歯の中に魔薬の小瓶を仕込んでいた」と。
ノストラの間諜なら、脳に術式を刻んでいても不思議ではない。賭けるには、リスクが高すぎた。
(ただし、ノストラの反制術式は強制的な情報抽出を防ぐためのものだ。本人の自由意志による発言まで封じるようなものじゃない——はずだ)
ヴァンは低く、確信を持って言い放つ。
「……分かった。でも、ノストラの反制術式は、自白剤や精神魔法による『強制的な情報抽出』を防ぐための防壁だ。お前自身の自由意志で口を割るのを防ぐような器用な呪いじゃない」
オグラは少しの間、目を丸くしてヴァンを見ていたが——やがて、小さく舌打ちをした。
「……ちっ。本当に、可愛げのない学生ね」
ヴァンは、先ほどまでの高圧的な態度を一気に引っ込め、平坦な声で言った。
「では——商談をしよう」
「……は? 商談?」
「俺たちには商売上の付き合いがあった。命のやり取りができないなら、商人同士として話せばいい」
オグラが、怪訝そうに目を細める。
「俺の情報屋になれ。帝国とノストラの間で、俺の個人的な情報網を構築しろ」
オグラが、信じられないというように目を開けた。
「……私を、二重間諜にしようっていうの?」
「そんな面倒なことは言ってない。専属の情報取引先、ってだけだ。お前も分かってるだろ? 帝都での潜伏がバレた今、ノストラはもうお前をスパイとして使うことはない。次の手を打つ前に、お前を始末する可能性だってある。だったら、ノストラに帰って元々の商人を続ける方が、どれだけマシか」
オグラはしばらくの間、呆然とヴァンを見ていた。
それから、吹き出すように笑った。
「馬鹿じゃないの? 私が帝国を裏切るフリをして、嘘の情報を流しても、あなたには見抜けないわよ?」
ヴァンは少し間を置いてから、真顔で答えた。
「俺は純真な学生だからな。きっと騙される」
オグラが——ぴたりと笑いを止めた。
「純真なわけないでしょ、この悪魔」
「『敵の敵は味方』だ」
ヴァンは平坦な声で答えた。
「は?」
「お前が現場に魔導器を残した理由。自分が切り捨てられた時の『保険』であると同時に——軍情局の捜査の目を、黒幕に向けさせるための誘導だったんだろう? お前も、あの黒幕を消したがっている」
オグラが顔をしかめた。
「お前が名前を吐き、俺の駒になるなら、俺が全権を使ってその黒幕の喉笛に噛み付いてやる。……騙す理由がない。お前は俺を利用して、自分の障害を排除できるんだからな」
ヴァンは立ち上がった。
格子の前に立ち、見下ろすようにオグラを真っ直ぐに見据えた。
再び、空気が張り詰める。
「よく聞け、オグラ」
声が、極限まで低く、そして鋭くなった。
「今俺が出している条件が、お前が生き延びるための『最高値』だ。これ以上の額は出ない」
「……」
「あと一時間で、局長か俺の師匠がここに来る。そうなれば、この商談は強制終了だ。俺が特権を使えるのは、今この瞬間だけだ」
格子を挟んで、視線が激しく交差する。
「お前が黙っていれば、魔薬部の拷問と黒幕の口封じ、二つの地獄が永遠に続く。だが、名前を一つ吐くだけで、お前はこの地獄から抜け出せて、安全が手に入る。どっちが得か、商人のお前が一番分かってるだろ? 商人なら分かるはずだ。——売り時を逃した商品は、ただのゴミだ」
オグラは、ヴァンを見上げていた。
笑みも、余裕も、もう完全に剥がれ落ちていた。
ただ、生き残るための計算だけが、その瞳の奥で高速で回っている。
「——それだけじゃないでしょ」
低い声で、オグラが言った。
「逃走ルートの確保。どうやってやるの? あなたがいくら特別監察官でも、ここから私を連れ出す権限まではないはずよ」
ヴァンは少し間を置いた。
「名前だけでいい。それだけ教えてくれれば——お前がここから別の施設へ『移送』される手筈を整える」
「……」
「移送の道中、なぜか護衛が手薄になる区間がある。そこでお前の魔力拘束具が『偶然』外れる。俺はただの学生で、足が遅いからな。逃げるネズミを追いきれる自信がない。……軍の法廷では『不注意による失態』とでも言い訳をしておく。俺には学院長という強力な後ろ盾がある。この程度の『過失』で首は飛ばない」
意図的な逃亡の黙認。
オグラの目が、かすかに動いた。
それから——じっと、ヴァンの顔を探るように見た。
「……最後にもう一つ聞くわ」
「何だ」
「あなた、商人の心理を随分と詳しく読むのね。なぜ?」
「お前が『金』を愛しているのが分かったからだ」
ヴァンは冷徹に答えた。
「金を愛する人間は——自分の命も愛している。どんなに大金があっても、死んでしまえば一文の価値もない。いくら稼ごうが、死んでしまえば意味がない。そういう損得勘定がシビアにできる人間は——絶対に死に急がない」
格子越しに、静かに、だが確信を持って続けた。
「だから俺は、お前となら『商談』ができると思った」
魔力灯が、揺れる。
オグラは目を閉じた。
長い間、動かなかった。
やがて——魔力拘束具の中で、固く握りしめられていた彼女の指が、ゆっくりと開いた。
【第四十九章・終】
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