第四十六章:鼠と捕食者
追う側と、逃げる側。
その関係が、必ずしも一方的とは限りません。
時に、立場は簡単に入れ替わります。
東の空が白み始めた頃、石造りの城壁が見えてきた。
帝都近郊の商業都市、クロイツ。
帝都からわずか半日の距離にあり、各領地からの物資や人が集まる中継地点だ。
辺境の重鎮都市とは違い、商人と旅人が絶えず行き交い、金と情報が濁流のように渦巻いている。ノストラ系の亜人が紛れ込んでも、何ひとつ不自然じゃない。
オグラが潜伏し、情報網を再構築するなら——ここしかない。
「ワイルド。お前の手配書は?」
「へへっ、あっしのツラが割れてるのは、今のところ帝都内だけでさァ。こんな田舎街まで手配書が回るには、まだ数日はかかりますよォ」
「ならいい。入るぞ」
城門の衛兵が、気怠げに槍を交差させた。
「止まれ。通行証を——」
ヴァンが黙って、懐から『帝都軍事学院』の手帳を差し出した。
それを見た瞬間、衛兵の顔から血の気が引いた。
「——っ! て、帝都軍事学院の……『特待生』!?」
ただの学生ではない。
軍事主義のこの帝国において、あの学院は「未来の将官の揺り籠」だ。その中でも特待生となれば、卒業と同時に尉官クラスの待遇が約束された雲の上の存在。将来の将官候補——帝国の未来の剣だ。
衛兵は弾かれたように直立不動となり、最敬礼した。
「は、非礼をお詫びします、特待生殿! どうぞご通行ください!」
(まず情報を集める)
表通りの酒場、宿屋の受付、市場の露天商。
手あたり次第に声をかける。
三人は知らぬふりをし、一人は露骨に視線を逸らした。
五人目でようやく「それらしい反応」が出る。
——だが、口を割らない。
七人目。
古い革なめし問屋の顔役を名乗る男だった。
「——鼠の亜人?」
男の目が、わずかに細くなった。
「何の用があって、そんな人間を探している?」
答えではなく、逆質問。
(いる。少なくとも、こいつは知っている)
「商用だ。客に会いに来た」
男は少し笑い、ヴァンたちを薄暗い倉庫の奥へと案内した。
直後、背後で扉が閉まる。
「帝都から来たお坊ちゃんよ」
顔役が、にやりと笑った。周囲には他に二人の男。
「あのネズミ婆に用があるなら、通行料ってものがあるんだ。分かるよな?」
ヴァンは答えず、隣を見た。
ワイルドの首筋の魔導回路が——うっすらと蛍の光を帯びる。
「——旦那。三人、二時と十時と、真後ろに一人」
「一秒で終わらせろ」
「無茶言わないでくだせェ!」
ドンッ! ワイルドの姿がブレた。
「おやおやァ! あっしは戦闘要員じゃないんでさァ!」
泣き言を叫びながら、ワイルドの脚部特化の魔導回路が明滅する。
「おやおやァ! あっしは痛いのが大嫌いなんでさァ!」
次の瞬間、その姿は再び掻き消えた。
「えっ——」
二時方向の男が何か言いかけた瞬間、その顎が跳ね上がった。声にならない呻きを漏らし、白目を剥いて崩れ落ちる。
その勢いのまま、ワイルドは床を滑るように十時方向へ。
「っ、ぁ……!」
二人目の男は、鳩尾に踵をねじ込まれ、肺の空気を強制的に吐き出して沈んだ。
「死ねぇ!」
背後から三人目がナイフを振り下ろす。
だが、ワイルドは振り返りもしない。
「乱暴はいけませんよォ、旦那ァ!」
懇願するような声とは裏腹に、右踵がムチのように後方へ跳ね上がった。鈍い音がして、三人目が壁に叩きつけられ、糸が切れたように動かなくなった。
残された一番大柄な顔役が、腰を抜かして後退した。
「ひっ、化け——」
ヴァンはその男の前に、ゆっくりと歩み寄り、見下ろした。
「オグラはどこだ」
「な、南区外の……廃業した革なめし工場だ……っ」
ヴァンは街の詰所へ向かった。
当直の隊長は、ヴァンの手帳を見るなり背筋を伸ばした。
「軍事学院の特待生殿が、このような街に何の任務で?」
隊長の態度は極めて丁重だった。下手な地方貴族よりも、未来の軍部高官の方がよほど恐ろしいからだ。
(そのまま向かうのは得策じゃない。まず、地の利を確保する)
「極秘の追跡任務だ。街の地理に明るく、口の堅い兵を数名貸してほしい」
「ハッ。直ちに手配いたします」
隊長は振り返り、待機していた兵士たちを一瞥した。
「お前たち五人、装備を取れ! これより特待生殿の指揮下に入る。命令には絶対服従だ!」
「「「ハッ!」」」
五人の兵士が前に出る。
一人は緊張で喉を鳴らし、もう一人はやけに背筋を伸ばしていた。
誰も口は開かない。
——ただ、命令を待っている。
ヴァンは一瞥し、それ以上は何も言わなかった。
「建物の外周を囲め。中に入るのは俺たちだけだ。対象を逃がすな」
廃工場。
朽ちかけた煉瓦の壁に、割れた窓ガラス。
ヴァンとワイルドが正面扉を開けると——
「——あら、いらっしゃいませ♪」
暗がりの中、木箱の上に腰掛ける影。
丸っこいネズミの耳。長い尻尾。頬の魔力刺青。
オグラだった。
だが、彼女の目がヴァンを捉えた瞬間、少しだけ丸くなった。
「……ヴァン・ボーイ? まさか、あなたが来るとはねぇ」
誰かが来るように罠を張っていたが、相手までは知らなかったらしい。
「久しぶりだな」
ヴァンは深く立ち入った情報を出さず、あくまで『襲撃の被害者』として振る舞った。
「襲撃事件のことを聞きに来た」
先手を取るように、ヴァンは言った。
オグラの足が、止まった。
「……さあ、なんのことかしら。情報屋はいろんな話を扱うけど——」
「俺が、その刺殺の標的だった」
静寂。
オグラの笑顔が——一瞬、固まった。
それからゆっくりと、困ったような表情に変わった。
「……あらあら、そうだったのね」
笑みは消えていない。
だが、その奥に何かが走ったのをヴァンは見た。
オグラが、軽く手を振った。
それだけだった。
それだけで——
ヴァンは背後の気配の数が、倍に増えたのを感じた。
ワイルドが、小声で呟く。
「……旦那。上に四、左右に二ずつ。それと——この建物の外にも、複数の気配が——」
「分かった」
ヴァンは動じなかった。
(……この数、想定より多い)
一瞬だけ、思考が止まる。
(いや——違う。増援じゃない。最初から配置されていた)
ノストラの間諜頭。
緊急の潜伏先であっても——これだけの人脈と網を敷いてみせる。
ゆっくりと息を吐く。
(……それでも、すぐに仕掛けてこない)
(なら——まだ“話す余地”はある)
「殺すつもりなら、もうやっている」
ヴァンは言った。
オグラが小さく肩をすくめた。
「……賢いわねぇ、ヴァン・ボーイ。そう、あたしも血を見るのは好きじゃないの。ビジネスは平和に、ってね」
「なら、話し合おう」
---
奥の部屋に通された。
粗末な木卓と、椅子が二脚。
ヴァンは一人で入った。
ワイルドは外に残された——残したのではなく、オグラの部下に囲まれて物理的に入れなかった、というのが正確だった。
オグラが向かいに座り、足を組んだ。
「条件を言うわァ」
「聞く」
「スリー・デイズ。三日間だけ、あなたたちはここで大人しくしている。そうしたら、あたしが安全に帝都へ帰してあげる。……どう、ヴァン・ボーイ? 悪くない提案でしょ?」
ヴァンは少し間を置いた。
「断る」
「……あら」
「お前が商人の仮面を捨てていない理由が分かった。帝都の裏社会か、別の都市かは知らないが——情報網を再構築するつもりだ。ならば、人を一人見逃したという信用は、お前にとっても悪い取引じゃない」
オグラは黙っていた。
「だが、俺はそれと引き換えに何もしないほど、お人好しじゃない」
「——じゃあ、何が欲しいの?」
「理由だ」
ヴァンは卓を挟んで、オグラを見据えた。
「なぜあの刺殺を仕掛けた。お前自身の意思か? それとも——後ろに誰かいるのか」
オグラの目が、細くなった。
沈黙が部屋に満ちた。
やがてオグラは、細い息を吐いた。
「……本当に賢いわね」
困ったように笑う。
「正直に言うとね、あなたが知らない方が——あなたにとって——」
---
扉が、勢いよく開いた。
小柄な亜人の少年が飛び込んできた。
顔が、真っ青だった。
「姐さん——! 来ました、あの人たちが——!!」
「——誰が来た」
オグラの声が一気に低くなり、飾っていた笑みが完全に消えた。
少年は歯をガタガタ鳴らしながら、絞り出すように答えた。
「……赤い、外套の——」
オグラの顔から、すべての余裕が消し飛んだ。
「——部屋を封鎖! 全員持ち場へ! ひとりも外へ出すな!」
オグラはヴァンを放り出し、パニックに陥ったように奥の扉へ向かって走り出した。
(なぜあそこまで狼狽する? 追っ手は誰だ? ——まさか、口封じか?)
ヴァンは即座に動かなかった。
周囲の伏兵の動き、オグラの逃走経路を一瞬でスキャンし、状況を整理した。
(逃がすわけにはいかない。だが、無闇に突っ込んで乱戦に巻き込まれるのは愚かだ)
「旦那ァ! どうしやす!?」
「五秒待て」
伏兵たちがオグラの護衛に気を取られ、陣形がわずかに崩れた瞬間。
「今だ。突破するぞ」
「へひっ!」
ワイルドが瓦礫を蹴り飛ばし、目くらましにする。
その瞬間、ヴァンは外の五人の衛兵に向かって鋭く指示を飛ばした。
「伏兵を止めろ! 中から出てくるぞ!」
ヴァンはその隙を突き、最短ルートで工場を駆け抜け、外へ飛び出した。
工場の外。
外周に配置していた五人の衛兵が、道端にへたり込んでいた。
怪我はない。だが——完全に戦意を喪失している。
「旦那、外周の気配が全部消えてやす」
ワイルドが低く呟いた。
ヴァンは答えず、衛兵たちの視線を追った。
(何が、こいつらをこうした)
気づいた時には、終わっていた。
ヴァンが工場の外壁を回り込み、裏路地へ躍り出た瞬間——
街灯の薄暗い光の中。
石畳の上に、十数人の伏兵が、黒焦げの肉塊となって転がっていた。
その向こうに——深紅の外套を着た影が、静かに立っている。
(……一瞬で、これだけの数を?)
ヴァンの背筋に冷たいものが走る。
「あ……」
背後から、悲鳴のような声。
オグラだった。
彼女は深紅の外套を見た瞬間、絶望に顔を歪め——あろうことか、自分を追ってきたヴァンの背中に全力で飛びついてきた。
「……いや」
オグラが一歩、後ずさる。
もう一歩。
そして——弾かれたように振り向いた。
「ねえ、あんた」
声が、震えていた。
「捕まえて」
ヴァンの服を掴む手が、異様なほど強い。
「お願い、捕まえて……っ」
「今すぐ、帝都に連れてって。牢でいいから——」
情報屋のプライドも、商人の仮面も、完全に崩壊していた。本物の恐怖だった。
ヴァンは冷徹な目で、前方に立つ深紅の外套を見据えた。
(——こいつが、黒幕の犬か)
【第四十六章・終】
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