第四十五章:逃亡者の論理
逃げる側にも、逃げるなりの理屈があります。
そして、それを読むのが追う側の仕事です。
今回は、その「論理」を辿る話です。
夜の帝都。その巨大な外壁を背にして、二人は歩き出した。
ワイルドが片方の肩に、小さな木箱を引っ掛けるように提げていた。
見慣れない荷姿だが、ヴァンの目を引いたのは別のことだった。
「——背中、どうした」
ワイルドの軍支給の外套越しに、くっきりと『巨大な掌の跡』が土と魔力焼けで浮き上がっていたのだ。
ワイルドは乾いた苦笑いを浮かべた。
「夜中にこっそり出かけようとしたら、家内が大きなため息をつきましてねェ」
「それで」
「家内の背後から、オフクロがヌッと出てきまして」
「……」
「ウチの婆さまと家内の嫁姑の仲が、まことによろしくてですねェ——へへっ」
口では笑っているが、ワイルドの細い目は完全に死んでいた。
ヴァンは何も言わなかった。
(——中年男の悲哀か。どこの世界でも、板挟みはつらいもんだな)
東門へ向けて、囮の馬車を一台手配した。
もちろん、二人は乗っていない。
カラカラと車輪音を響かせて馬車が大通りを走り去るのを確認してから、ヴァンは暗い路地へと身を翻した。
ワイルドが無言で背後からついてくる。
向かうのは南門。
目立つ荷馬車用の搬入路を避け、市民用の歩行者通路へ向かう。
だが。
城門まであと数十歩というところ。煌々と燃える松明の明かりの下に、見知った影が立ち塞がっていた。
代理局長のディートリヒ・シュタインが、冷たく腕を組んで立っていた。
背後には、完全武装した軍情局の局員が三人。
——そして、その周囲にも、気配がある。
「——やはり来たか、特別監察官」
声に、一切の感情はなかった。
氷のような視線がヴァンを一瞥し、すぐに背後のワイルドを射抜く。
「資料室事務員ワイルド。現在、第一級の手配対象だ。我々に同行してもらおう」
ワイルドの足が、わずかに後ろへ引いた。
逃げる気だ。
ヴァンはワイルドを庇うように一歩前に出た。
「待て。緊急の特命だ。特殊な事情がある」
シュタインの目が、静かにヴァンへ向けられる。
「特別監察官自らが軍規を破り、重罪の手配犯を連れて夜中の城門を抜けようとしている」
一語一語、噛んで含めるように冷徹に告げる。
「特殊な事情、特殊な対応——誰もがそんな言い訳を振りかざせば、帝国の『規則』というものは何のために存在する? 大局を見失うな、ヴァン・ラーク」
「——それとも、お前はもう“こちら側”ではないのか?」
反論の隙がない。
ぐうの音も出ないほどの正論だった。
ヴァンが舌打ちを堪えて時間稼ぎの算段を練り始めた、その瞬間だった。
「——夜更けに随分と物騒な真似をしているな」
のんびりとした、しかし腹の底に響く声が背後から届いた。
石畳を踏み鳴らす、重く、規則正しい軍靴の音。
ヴァンが振り返るより早く、シュタインの能面のような表情がわずかに歪んだ。
学院の学院長であり後方支援総長、ベルンハルト・フォン・ヴァレリアンが歩いてきた。
腕利きの憲兵を二名左右に従え、本人は両手を軍用外套のポケットに突っ込んだまま。
急いでいる様子など微塵もない。
誰も、声を出さなかった。
松明の火だけが、揺れている。
軍階。資歴。戦場での圧倒的な軍功。
どれをとっても、シュタインが逆立ちしても敵わない相手だ。
「シュタイン部長」
ベルンハルトは立ち止まり、顎をしゃくった。
「『兵は神速を尊ぶ』という言葉を知っているか? 当然、軍情局のトップを預かるお前なら知っているだろうがな」
「……」
「あの日、【断罪谷】で私が、書類の判子が揃うのを待っていたら、大元帥閣下の首が飛んでいた。閣下ご自身も、現場の『判断』を重んじるお方だ」
ベルンハルトの声は穏やかだった。
だが、その穏やかさの底には、歴戦の猛将だけが持つ血の匂いが沈んでいた。
「特別監察官の動きは、私が許可した。もしこいつの追っている『特命』で成果が出なければ——こいつの首は、私が担保する」
ヴァンは微動だにせず、ただ前を見据えていた。
(——破格の庇護だ)
代償は、文字通りの『死』。だが、今のヴァンにとって、そんなプレッシャーはどうでもよかった。門を開ける絶対的な口実さえあれば、首の一つや二つ、いくらでも盤上に乗せてやる。
シュタインが、忌々しそうに口を開く。
「しかし、正規の手順が——」
「ついでに言っておくが」
ベルンハルトが、あっさりとシュタインの言葉を遮った。
「本来の局長であるクラウスとは、俺も昔馴染みでな。あいつは今、別の極秘任務で手が離せないと聞いている。今夜の件で、わざわざこんな『手続き上の些末な問題』で彼を呼び戻すのも悪いが——必要なら、今から叩き起こしてみるか?」
シュタインの口が、ピタリと閉じた。
あの『毒蜘蛛』の異名を持つ局長を、こんな些事のために呼び戻せば、自分の無能を露呈するようなものだ。
松明の火が、夜風に大きく揺れた。
十秒ほどの、重苦しい沈黙。
「……通れ」
シュタインは前を向いたまま、屈辱を押し殺すようにそれだけを言った。
ヴァンは短く「失礼する」とだけ言い残し、シュタインの横を抜けた。
ワイルドがペコペコと頭を下げながら小走りでついてくる。
城門を抜け、数十歩歩いたところで、ヴァンは一度だけ振り返った。
ベルンハルトが、城門の内側からこちらを見送っていた。
無言で、短く顎を引く。
「死んでこい」ではなく「成果を上げて生きて戻れ」という合図だ。
ヴァンも、無言のまま短く頷き返した。
「——旦那の神算鬼謀、まことお見事でさァ」
城門から十分に離れたところで、ワイルドがねっとりと囁いた。
「さすが親子ってやつで——あのベルンハルト将軍を後ろ盾にするとは、あっし、感動で涙が——」
「仕事しろ。給料分は働け」
「へひっ、承知で」
街道沿いの暗がり。
ワイルドが足を止めた。
肩から木箱を下ろし、ふうと息を吐いて目を閉じる。
「——いきますよォ」
首筋から目元にかけて、ワイルドの皮膚の下に埋め込まれた特殊な魔導回路が淡い蛍光色に光り始めた。
カチリ、と頭の中でスイッチが入る音がしたかと思うと、次にワイルドが目を開けたとき、その瞳は機械的な光を帯びていた。
ワイルドはゆっくりと地面を見つめた。
それから、四方の暗闇へ忙しなく視線を走らせる。
しばらく、重い無言の時間が流れた。
「——旦那」
「何が見える」
ワイルドは顔をしかめ、眉間を揉んだ。
「ざわめきは確かに残っていますァ。ただ……」
吐き気を堪えるように、言葉を区切る。
「城外に出た途端、魔力の痕跡が五つ……いや、六つ。しかも、時間が経つほど薄れていきますァ。方向が完全にバラバラで——明らかに『囮』を混ぜてますねェ。オグラの手下が、意図的に痕跡を散らしたんでしょう。この中から本命の線を拾うのは——」
ワイルドが、南西の一方向を指さした。
「この方角が、最も濃い。ですが、絶対の確証はありやせん」
ヴァンは腕を組んだ。
(——逃げる前に、あいつはきっちり最後の注文を仕上げていった)
(——軍の担当者は口封じで消したが、証拠となる魔導器の残骸はわざと襲撃現場に残した)
何かが、噛み合わない。
「一つ聞くぞ、ワイルド」
「へえ」
「お前がオグラの立場だったとする——軍情局に嗅ぎつけられ、一刻も早く帝都から逃げ出さなければならない時、わざわざリスクを冒して『最後の取引』を完遂させるか?」
ワイルドは少し考えて、首をひねった。
「……そりゃあ、直接前金を丸抱えして持ち逃げするのは——早期に発覚するのが怖いから、でしょうかねェ?」
ワイルドは首を捻りながら、自信なさげに付け加えた。
「……まあ、あっしの想像でしかありませんがねェ。あのネズミの考えることは、あっしにはさっぱりで」
答えになっていない。自分でも的外れだと分かっているのか、歯切れが悪かった。
ヴァンはため息をついた。
「地図を出せ」
「へえ、こちらに」
ワイルドが木箱を開け、折り畳まれた羊皮紙を取り出した。
ヴァンがそれを受け取り、月明かりの下で広げる。
「——」
ヴァンは黙って、その地図を見下ろした。
帝都の輪郭は、まあ分かった。
主要な街道も、一応描かれてはいた。
だが、致命的に縮尺がおかしい。
山が子供の落書きのように丸っこく、川に至っては知恵の輪のように曲がりくねっている。
ヴァンは額を押さえた。
「……おい、ワイルド。これ、まさか……お前が描いたのか?しかもこれを『精密地図』だと思って売ったのか?」
ワイルドは頭を掻いて、卑屈に笑った。
「へへっ、お恥ずかしながら。若き日のあっしの、血と汗の結晶でさァ」
「なぜあの値段で売りつけた。児童画のコンクールかこれは」
「いやァ、それなりに色塗りに時間をかけやしたんで、旦那ァ」
ヴァンは深いため息をついた。
(——この男なりの『暗号』か。……あるいは、ただ絵心がないだけか)
ヴァンはもう一度地図を見下ろし、無理やり読解を再開した。
不正確な地図の上で、指を使って強引に距離を測る。
(オグラが逃走を決意した日——)
軍情局が伝令用の飛行使魔を飛ばして国境警備隊に手配書を回すスピードと、オグラが昼夜問わずで馬を飛ばして逃げるスピード。
どちらが早いか。
(——使魔の伝達速度の方が、圧倒的に速い)
計算する。オグラが帝都を出てから国境に辿り着く前に、国境の関所は完全に封鎖され、厳戒態勢に入っているはずだ。
「……オグラは、ノストラの国境を越えられない」
「へ? 越えられない、ですか?」
「ああ。奴が本気でノストラへ逃げ帰るつもりなら、手下の一人に『オグラのふり』をさせて帝都に留まらせ、軍情局の目を引いている間に、自分は誰よりも早く昼夜兼行で国境へ向かうべきだった。だが奴は、帝都で最後の取引を律儀にこなし、時間を無駄にした」
ヴァンは、不格好な地図の一点を指さした。
「この辺りの街に詳しいか」
「多少は。旦那、それは何をお考えで——」
ヴァンは街道沿いに視線を滑らせた。
交通の要衝。商業の規模。国境までの経路。関所の位置。
(ここは帝都を結ぶ街道の要衝。商人の出入りが多く、ノストラ系の亜人も珍しくない。潜伏にはうってつけだ)
一つの街で、指がピタリと止まった。
「——ここだ」
「——ここ、ですかァ?」
「ノストラに戻れないなら、帝国内のどこかに潜伏するしかない」
ヴァンは地図を折り畳み始めた。
「金を持ち逃げせず、最後の注文を仕上げた。奴は『黒市商人としての信用』を守ったんだ」
「……」
「ただ命からがら逃げ切るだけが目的なら、あんな手間は絶対にかけない」
ワイルドが黙り込む。
ヴァンは不格好な地図を懐にねじ込んだ。
「奴には長期的な計画がある。ほとぼりが冷めた頃に帝都の裏社会に戻るつもりか、あるいは別の都市を拠点にして情報網を再構築するつもりか——どちらにしても、奴にとって『商人・オグラ』という仮面と信用は手放せない武器なんだ」
夜風が、冷たく街道の草を揺らした。
「オグラは、この街にいる。確率は高い」
「——承知で」
ワイルドは重い木箱を肩に掛け直した。
二人は暗い街道を踏み出した。
背後では、帝都の巨大な輪郭と松明の明かりが、ゆっくりと遠ざかっていった。
だが、待っているのが、ただの逃亡者とは限らない。
【第四十五章・終】
城門を越え、いよいよ追跡が本格的に始まりました。
ただ、相手もまた一筋縄ではいかないようです。
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