第四十四章:出発
今回は、追う側が動き出す話です。よろしくお願いします。
「——オグラは、ノストラの大物スパイだ」
ヴァンが重々しくそう告げた瞬間。
ワイルドのへらへらとした笑みが、完全に凍りついた。
が——それはほんの一瞬のことだった。
次の瞬間には、彼はまるで何も聞こえなかったかのように首を傾げ、わざとらしく小指で耳をほじり始めた。
「——はて? 旦那、今何とおっしゃいまして? あっし、急に耳鳴りが……」
目は明後日の方を向き、落ち着きなく泳いでいた。
三文芝居も大根役者もいいところだった。
ヴァンは冷ややかな目でワイルドを一瞥した。
「そうか。聞こえなかったか」
「へえ、まったく。近頃めっきり耳が遠くなりましてねェ。年のせいか、それとも旦那の声が小さすぎるのか——」
「そうかそうか」
ヴァンはファイルを閉じた。
これ以上追及するつもりはないらしい。代わりに、少し思考を巡らせてから口を開いた。
「では話を変える。お前、心当たりはないか——追跡魔法に長けた人間に、心当たりはないか」
「追跡、でさァ?」
「数日前の微弱な魔力の痕跡を追える精度のものだ。軍情局にそういう特化型の使い手はいるか」
ワイルドは腕を組み、大げさに顎に手を当てて考え込む素振りを見せた。
「数日前の痕跡となると……こりゃあ難しいですねェ。軍情局の中でも、そこまでの精度を出せる変態はほんの数えるほどでして。そうそう都合よく見つかるものでは——」
言葉の途中で、ワイルドの視線がわずかに泳いだ。
ほんの一瞬。すぐにまた能天気な笑顔で誤魔化そうとする。
だが、ヴァンの眼はその一瞬の綻びを絶対に見逃さなかった。
「——もしかして、お前なのか?」
ワイルドのわざとらしい動きが、ぴたりと止まった。
「…………へへっ」
頭をポリポリと掻く。
照れ笑いを浮かべた、いつもの卑屈な顔だ。
「この『スキャニング視覚』っていうのがですねェ、痕跡を探る泥臭い作業にはまこと重宝するといいますか——いやはや、旦那の眼力はさすがでございますなァ。あっしのような無能な下僕の隠し芸まで見抜かれるとは——」
「お前、それほどの腕があって、なぜ今までしがない資料室の事務員に甘んじていた」
ヴァンは半ば呆れながら聞いた。
ワイルドはニカッと、悪びれずに笑った。
「事務員が一番安全で、残業も少ないからですよォ」
「……」
「へへっ。まあ、宝の持ち腐れってヤツでしてねェ、と申しますか。いつか旦那のようなお方に仕える日のために、この力を温存しておいたようなものでして——」
「すぐ出発するぞ」
ヴァンがパイプ椅子から立ち上がった瞬間、ワイルドの顔色があからさまに変わった。
「——あ、あの、旦那ァ」
「何だ」
ワイルドは急にモゴモゴと歯切れが悪くなった。
「この魔法、発動中は……視界が極彩色に染まりましてですねェ。濃い痕跡が多いと、目が潰れるほど眩しくて……正直、ゲロを吐くほどきついといいますか——」
ヴァンは無言で、ワイルドの胡散臭い顔を見下ろした。
(——値上げ交渉か。現金なやつだ)
「オグラを捕まえたら、宝石を十箱くれてやる」
ワイルドの口が、一瞬半開きになって止まった。
それから、表情がスッと「仕事人」のものに変わる。
「——いやァ、旦那。あっしが言いたかったのは、そういう報酬の吊り上げを図ってるわけじゃなくてですねェ」
ワイルドは咳払いをひとつした。
「実のところ、この副作用にはもうすっかり耐性ができておりまして。大した問題でもないんです、ほんとのところ」
「ほう」
「ただ、旦那がそこまで太っ腹に仰るなら……まあ、ご厚意に甘えるといいますか」
ヴァンは準備していた革袋を持ち上げながら、ふと気になって尋ねた。
「その耐性……どこで身につけた」
「ウチの恐ろしいオフクロに、文字通り骨が砕けるまでぶん殴られながら、ですなァ」
ワイルドは遠い目をして、どこか誇らしげに言った。
「逃げるための『脚部特化』はオフクロ仕込み。こっちの『スキャニング視覚』は、殴られる前にオフクロの殺気を先読みするために編み出した自己流でさァ。生き残るためのセットですよ」
(——その老母とやらも、只者ではないな)
ヴァンは何も言わずに、革袋を肩にかけた。
「出発するぞ」
「あ、旦那——それがですね、追跡の道具を取りに一度我が家へ戻らなければなりませんで。嫁に殺されないよう、そっと抜け出してきますんで」
「道具か」
「ええ、痕跡を辿るために必要な小道具がいくつか。二時間後に、裏路地の方へ伺いますァ。合流後、即出立ということで——」
ヴァンは少し考えて、頷いた。
「分かった。二時間後だ」
「へへっ、ではのちほど」
ワイルドは音もなく窓枠に足をかけ、闇の中へ溶けるように消えた。
二時間。
出立の準備と、根回しをするにはちょうどいい時間だ。
すでに日は完全に落ち、夜の帳が帝都を覆い尽くしていた。
ヴァンは机に向かい、帝都の広域地図を広げた。
帝都の城門は四つ。
国外へ逃げるなら、南門が最短だ。
ヴァンの指が、地図の上で止まった。
脳裏に浮かぶのは、あの石頭の顔。
(シュタインなら……)
門を封鎖する。
それが最も確実だ。
必要なのは、コソコソ隠れることじゃない。
万が一、門で包囲されたとき。シュタインが何人連れて来ようと、頭上からねじ伏せて強制的に門を開けさせる——絶対的な『権力の盾』だ。
(——誰なら、それができる?)
リスクを承知で動き、かつ、現場の軍情局員をたった一言で沈黙させられる立場の人間。
ヴァンは少し考えて、静かに立ち上がった。
心当たりは、一人しかいない。
夜も更けた学院の院長公邸。
執務室にはまだ明かりが点いていた。
ベルンハルトが一人、分厚いオーク材の机に向かい、書類に目を通していた。
ヴァンがノックをして入室しても、ペンを動かす手は止めなかった。
「……話があります」
「聞こえておる。そこに座れ」
ヴァンは椅子を引いて、ベルンハルトの向かいに腰を下ろした。
「今夜、帝都を出ます」
「…………」
ベルンハルトの手が止まり、鋭い眼光が書類からヴァンへと向けられた。
「オグラという情報商人を追います。奴はノストラのスパイだった。一連の事件の、最大の糸口を握っている可能性がある」
ベルンハルトは無言だった。
険しい表情のまま、ヴァンの顔をじっと見据えている。
鉄灰色の目が、一瞬だけ遠くを見た。
口には出さなかった。
ただ、深く息を吐き、一つだけ問うた。
「ワシの直属である憲兵隊から、腕利きを何人か抽出するか?」
「要りません。少人数の方が目立たず動きやすい」
「……そうか」
ヴァンはベルンハルトの目を真っ直ぐに見据えた。
「ただ、一つだけお願いがあります。城門を抜ける際、シュタインの監視網が確実に敷かれています。……万が一、俺たちの手違いで門で奴らと鉢合わせたとき」
ヴァンは短く言葉を切った。
「あなたの絶対的な権限で、俺たちを『超法規的に』外へ叩き出していただきたい」
ベルンハルトは少し間を置いた。
鉄灰色の眉がピクリと動き——それから、腹の底から響くような低い声で笑った。
「フン……お前がこのワシに、事後処理と裏工作の片棒を担げと頼んでくる日が来るとはな。おまけに『合法的に』とは、よく回る舌だ」
「俺自身も驚いています」
「……いいだろう。存分にやれ、ヴァン」
ベルンハルトは立ち上がり、歴戦の猛将の顔でヴァンを見下ろした。
「だが、もし大した成果も出せずにワシに泥を被らせたときは——覚悟しておけ。死ぬまでワシの酒の相手をさせて、憂さを晴らさせてもらうぞ」
ヴァンは少しだけ、口の端を緩めた。
「そうならないよう、最善を尽くします」
「最善だけでは、戦場は生き残れんぞ」
「分かっています」
ヴァンは一礼し、扉に向かおうとして——足を止めた。
「——南門です」
それだけ言い残し、部屋を後にした。
ベルンハルトは鼻を鳴らし、再び書類に目を落とした。
それ以上は何も言わなかった。背中で「行け」と語っていた。
自室に戻り、ヴァンは革袋の最終確認を行った。
鎮痛剤と回復薬。広域地図。路銀用の銀貨。
それから、懐の奥に一つ。
フィロメラの手記。
いつの間にか、肌身離さず持ち歩くのが習慣になっていた。
分厚い革の冷たい感触を指先で確かめ、しっかりと軍服の内ポケットに収めた。
窓の外は、すでに完全な深い夜に包まれていた。
約束の二時間まで、あと少し。
ヴァンは研ぎ澄まされた静寂の中で、出立の時を待った。
この時、すでに。
シュタインの部隊が
静かに配置につき始めていた。
【第四十四章・終】
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