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第四十章:錬金術師の薬水

大きな事件のあとに、

こういう時間があるのも悪くないかもしれません。

「あ、あのっ、その……!」


リヴィアが、弾かれたように深々と頭を下げた。銀糸の髪がサラリと揺れる。

「憲兵隊の方が、その、近くにいて……顔を見られたら困ると思って……お名前も、誰かに聞かれたらと……だから、わざと、偽名だということに——」


「ああ、いい」

ヴァンは苦笑しながら軽く手を上げた。

「分かってる。責めてないさ」


リヴィアが、おずおずと顔を上げる。

その大きな瞳が、うっすらと潤んでいる。彼女が極度に社交を苦手としているのは、震える肩を見れば一目瞭然だった。


ヴァンはしばらくの間、目の前の少女をじっと見つめた。

図書館の隅で、楽しそうに魔導機兵の部品を並べていた少女。

不器用な会話のたびに、耳まで真っ赤にして視線を逸らしていた少女。

——それが、自分から婚約を破棄してきた、軍務総長令嬢その人だったとは。


「なあ」

「は、はいっ」

「……なんで、破談にしたんだ?」


ヴァンの直球の問いに、リヴィアの顔がさっと林檎のように赤く染まった。

泳いだ視線が、忙しなく窓の方へ飛ぶ。


「そ、それは……その……」


「無理に言えとは言わないが、気になる」


リヴィアは俯き、両手でもじもじと制服の裾を握りしめた。

しばらくの沈黙の後、彼女は覚悟を決めたように小さく息を吸い込んだ。


「あの……前に会った時、あなたは『ローラン』だと……おっしゃいましたよね?」

「ああ。そうだな」

「それで、わたし、ずっとあなたのことを『ローラン』君だと思っていて……。それで、後から、縁談の相手が『ヴァン・ラーク』って方だと聞いて……だから、『ローラン』君と『ヴァン』さんは、別の人だと思ってたんです……」


ヴァンは黙って彼女の話を聞いている。


「それで……その……破談を決める前の日、迎えの馬車で帰る途中に……通りで、『ローラン』君を見かけてしまって……。その、男の人がよく行くような、にぎやかな場所ら出てくるのを……」

「男の人が行くような場所?」

「……はい。あの、夜のお店、みたいな……。それで、わたし、『ヴァン』さんはそういう人なんだって……誤解してしまって……」


リヴィアの声はどんどん小さくなる。


「だって、『ローラン』君は図書室で一緒に模型の話をする、優しくて真面目な人だったのに……。でも『ヴァン』さんは、そんな場所に行く人なんだって思ったら……それがすごく嫌で……。それで、その……自分の気持ちに気づいて……いや……」


言い終えると、リヴィアは真っ赤な顔でうつむいてしまった。


ヴァンはしばらく呆けていたが、やがて天を仰ぎ、重く額に手を当てた。


「……そういうことか」

「あ、あの……?」

「いや、全部繋がった。俺が最初に『俺はローランだ』って名乗ったせいで、お前の中で、俺とあいつの名前が入れ替わってたんだな。それで、あの日お前が見たのは――」


俺じゃなくて、本物のローランだ。

リヴィアは顔を上げ、潤んだ瞳でヴァンを見つめた。


「わたし……とんだ勘違いをしてました。ごめんなさい……」


ヴァンは苦笑しながら頭を掻いた。


「いや、俺が最初にややこしいことしたのが悪い。それに、アイツがたまたまあんな場所にいたのも……まあ、商売相手との接待だったらしいが」

「せ、接待……?」

「ああ。あいつなりの仕事の付き合いだ。気にするな」


リヴィアはほっとしたように小さく息を吐いた。

「よかった……。じゃあ、あなたはあんなところに行ったりしないんですね?」


ヴァンは一瞬答えに詰まったが、やがて軽く咳払いをした。

「もちろん」


その言葉を聞いた瞬間。

リヴィアは全身の力が抜けたように、深く、長〜い安堵の息を吐き出した。

「〜〜〜っ、よかっ……たぁ……」



それから数秒後。

自分がどれほど大胆に「浮気を疑う妻」のような質問をしたかに気づき、彼女は時が止まったように固まった。

そして、ゆっくりと、両手で自らの真っ赤な顔を覆った。

声は出ない。ただ、華奢な肩が羞恥で小刻みに震えている。


ヴァンは短く鼻を鳴らした。


「まあ、誤解が解けたならよかった」

「……ぁぅ」

「リンドガルド」

「……はい」

「そっちが立ち直ったら、座ってもいいか。俺も色々とあって、少し疲れてる」


しばらくの間の後、リヴィアは顔を覆ったまま、こくりと小さく頷いた。




二人で、いつもの奥の席に向かい合って座った。

机の上には、魔導機兵の細かい金属パーツが散らばったままだ。

しばらくの間、どちらも口を開かなかった。


いつもなら模型の話で盛り上がるはずなのに、今日に限って気の利いた話題が一つも出てこない。

ヴァンは意味もなく部品を一つ手に取り、また元の位置に戻した。リヴィアはうつむいたまま、設計図の端を指でなぞり続けている。


心地よい、だが少しだけぎこちない沈黙が続いた。


「……あの」


先に口を開いたのは、リヴィアだった。


「聞いても、いいですか」

「なんだ」

「なぜ、あんな無茶を……」


リヴィアは机に視線を落としたまま、ぽつりと言った。


「お怪我も、まだ治っていなかったのに。それに、護衛の方が……亡くなったばかりで。——怖くは、なかったですか」


ヴァンの手が、ピタリと止まった。


「……あ……ごめんなさい。嫌なことを思い出させてしまって——」

「いや」


ヴァンは静かに首を振った。

一拍、重い間があった。


「……俺の本音は、ただの『報復』だったんだ」

「報復……」

「俺の部下を殺したあいつが、のうのうと生きていることが、我慢できなかった。大通りで民衆を護ったのは——ただの政治的な結果だ。最初から、英雄気取りで助けるつもりなんてなかった」


リヴィアは黙って聞いていた。


「ただ、やらなきゃいけない理由があった。俺が……彼らを守れなかったから」


ヴァンの声が、微かに掠れた。

リヴィアが、おずおずと顔を上げ、ヴァンの横顔を見た。


「……あなたは、不思議な人ですね」

「不思議?」

「だって、軍の方は普通、部下の死をそこまで……」


ヴァンは自嘲気味に、苦い顔をした。


「気にしてたんじゃない。……気にできていなかったんだ」

「……え?」

「俺はあいつらのことを、ほとんど何も知らなかった。何が好きで、家族はいるのか、故郷はどこか。ただ書類上の名前を覚えていただけだ」


言葉にしてみると。


「そんな、部下の顔もろくに知らないような冷血な上官を……あいつらは命を賭けて護って、死んだ。それが——」


声が、喉の奥で詰まった。


「——情けなくて、どうしようもないんだ」


リヴィアは、しばらくの間、何かを深く考えるように黙り込んだ。

それから。

彼女は机の上に置かれていたヴァンの分厚い包帯の手に、そっと自分の手を伸ばした。

リヴィアの白く細い指先が、おずおずとヴァンの手に重なった。それだけだった。

「わたし、ここにいますから」という安撫の思いを込めた、ひどく不器用で、控えめな接触。


「それは」


リヴィアの静かな、だが芯のある声が響いた。


「情けないことなんかじゃないと、思います」


ヴァンは顔を上げた。


「あなたが何も知らなかったのは、ただ時間が足りなかったからです。これから知っていこうとしていたからです」


重なった手から、微かな温もりが伝わってくる。

「あなたの中で、彼らがただの部下じゃなかった証拠です」

「……っ」

「だから、悲しいんです。だから、悔しいんです……。あっ」


リヴィアは急に我に返ったように、慌てて視線を泳がせた。


「ご、ごめんなさいっ。わたし、えらそうに、喋りすぎ、ですね……っ」


その言葉が正しいかどうかは、ヴァンには分からなかった。

ただ。

目の奥が、急激に熱を持った。


ヴァンは強く唇を噛み締め、俯いた。

瞬きをしても、視界の滲みが消えない。


「——泣きたくなったら、泣いてもいいと思います」


リヴィアが、そっぽを向いたまま、小さく呟いた。


「わたし、絶対に見ていませんから」


ヴァンは一瞬、固まった。


「……なんだよそれ」

「ほ、ほんとうに、見ていませんからっ」

「見てるだろ、今、思いっきり」

「……め、目を、閉じますっ」

「薄目開いてるぞ」


滲んだ視界の中で、ヴァンはどうしようもなく可笑しくなり、吹き出してしまった。

変な笑い声が出た。

ヴァンは指の背で、乱暴に目元を拭う。


「……模型用の錬金薬水が、目に入っただけだ」

「……そうですか」

「そういうことにしといてくれ」

「……はいっ」


しばらく、二人とも無言のまま座っていた。

高い窓から差し込む昼の日差しが、机の上の金属部品をキラキラと光らせている。


ヴァンはゆっくりと、深く息を吐き出した。


ディーターが不味いチョコレートを齧っていた顔。

ブルーノが盾を構えていた広い背中。


思い出しても、もう息が詰まるような苦しさはなかった。

悲しいには悲しいが——これでいい。今はまだ、これでいい気がした。




気がついたのは、リヴィアが先だった。

視線が、机の上の二人の手に落ちた。

まだ——ヴァンを慰めるために重ねた彼女の手は、そのまま繋がっていた。


「——っっ!!!」

リヴィアの顔が、耳の先から首筋まで一瞬で沸騰したように赤くなった。


パッ!

病弱とは思えないほど慌てた速さで、手が引かれた。

リヴィアはバネ仕掛けのように立ち上がり、またしても椅子を後ろに派手に蹴飛ばした。ガタンッ!


「あ、あのっ、その、わたしっ——!」

「あ、ああ……」

「よ、よかったですっ、ご無事でっ! ま、また——またお会いしましょうっ——!」


顔から火が出そうな勢いで、リヴィアはくるりと背を向け、小動物のような足早で本棚の向こうへ逃げるように消えていった。

パタパタという足音が遠ざかり、図書館に再び静寂が戻る。


ヴァンは、机の上に残された自分の手を持ち上げた。

指を、ゆっくりと開いたり閉じたりしてみる。


(……女の子の手って)

柔らかかった。

驚くほど、温かかった。


それだけのはずなのに。

なぜか少しだけ、その感触を長く反芻してしまった。


ヴァンは小さく息をつき、立ち上がって。

今日は久々に、学院の宿舎に帰る気になった。




「——おい」

宿舎の扉を開けると、机に向かっていたローランが椅子を回して振り返った。


「ずっと帰ってこないから、またどこかで死にかけてるんじゃないかと思ったぞ。どこ行ってたんだ」

「色々だ」


ローランはヴァンの顔を、じっと胡散臭そうに見つめた。

そして、片方の眉を不自然に高く跳ね上げる。


「……おい、なんだよ、その顔」

「どんな顔だ」


ローランは体を仰け反らせ、信じられないものを見る目をした。


「お前、もしかして——頭の中がお花畑になってるんじゃないか?」

「なってない」

「絶対なってる! なんだその締まりのない顔は! 完全にニヤけてるぞ!」

「ニヤけてない」

「してる!」


ローランは腕を組んで詰め寄った。


「ヴァン、お前って普段から鉄面皮みたいに表情薄いのに、今なんか——なんていうか、気味が悪いほど幸せそうな——」

「気のせいだ」

「何があった! 言え!」

「寝る」

「ちょっと待て——っ!」


ヴァンはコートを壁のフックに引っ掛け、寝台にそのまま倒れ込んだ。


「魔導灯を消せ。眩しい」

「消してやるか! お前、今絶対なんかいいことあっただろ! 天罰が下るべきなのに!」

「おやすみ」

「ヴァン——っ!!」


ヴァンは枕を頭にかぶり、ローランの恨みがましい声を物理的に遮断した。

今日は、もう何も考えずに休もう。

それだけを思いながら、目を閉じた。




【第四十章・終】

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