第三十九章:図書館の再会
同じ場所に戻ってきても、
前とまったく同じとは限りません。
色々なことが起きて、
色々なものが変わってしまうこともあります。
それでも——
変わらないものが残っていることもあります。
白い仮面が、月明かりの中に立っていた。
ヴァンは身を起こしたまま、声を出せずにいた。
言いたいことは山ほどあった。
今までどこに行っていたのか。無事だったのか。ビリィは助けられたのか。アイリが重傷を負ったことを知っているか。
——俺が死にかけたこと、知っているか。
喉が動いたが、言葉になって出てこない。
先に口を開いたのは、シンカクだった。
「宿舎に行きましたが、いませんでした」
「……ああ」
「血の匂いがします、怪我をしましたね。原因は何ですか」
ヴァンは少し間を置いてから、静かに話し始めた。
婚約の話。軍情局を巻き込んだ罠。
路地裏での死闘。ディーターのこと。ブルーノのこと。
アイリが重傷を負いながらも、かろうじて生き残ったこと。
すべてを淡々と、努めて感情を乗せずに語った。
シンカクは一言も彼を遮らなかった。
ただ月光の下で、静かに聞き入っていた。
ヴァンが話し終えてから、一拍置く。
「——ビリィは」
「救出しました。今は安全な宿で休ませています」
「そうか。……良かった」
ヴァンは、心の底から深く息を吐き出した。
「襲撃の黒幕は誰ですか?」
「実行犯の化け物はもう死んだ。黒幕は……まだ分からない」
「分かったら教えてください。私が殺します」
(……やっぱり、こいつはこうだな)
ヴァンは内心で小さく苦笑した。
誰が死んだとか、誰が傷ついたとか。
シンカクは、そういうことに興味がない。
ヴァンを脅かすものがあれば——排除する。
それだけだ。
不思議と、腹は立たなかった。
むしろ——張り詰めていた心が、少しだけ緩むのを感じた。
「今は俺の方が目立ってる。しばらくは向こうも変な動きはできないだろう」
「……」
「お前はビリィのそばにいてやってくれ。あいつが落ち着いたら、俺が直接会いに行く。アイリにも知らせてやりたい」
シンカクは少しの間、沈黙した。
「——わかりました」
「任せる」
シンカクは静かに窓の方へ向き直った。
冷たい月の光が、彼女の白い面具を照らし出す。
「おやすみなさい、ヴァン」
音もなく、窓が閉まった。
部屋には再びヴァン一人だけが残された。だが、先ほどまでの重苦しい静寂とは全く違っていた。
ヴァンは寝台に横たわり、ゆっくりと目を閉じる。
今夜は——少しだけまともに眠れそうだった。
翌朝。学院に足を踏み入れた瞬間から、刺すような視線が一斉に集まった。
廊下を歩くたびに、ざわめきが波のように広がる。
「あれがヴァン・ラークか……」
「大通りで、あの化け物みたいな傭兵を……」
「一人で制圧したんだろ、聞いたぞ」
「本物の英雄じゃないか」
ヴァンは表情を変えず、ただ前だけを見て歩いた。
「ヴァン!」
背後から、慌ただしい足音が駆けてくる。
ローランだった。
息を切らしながら追いつき、ヴァンの肩を掴もうと手を伸ばして——分厚い包帯が巻かれた右腕に視線が落ち、すんでのところで手を引っ込めた。
「……お前、傷、大丈夫なのか!?」
「問題ない」
「嘘をつけ、顔色が真っ青じゃないか! だいたいお前、無茶しすぎだろ! 大通りで傭兵とやり合うなんて——」
「ローラン」
「な、なんだよ」
「心配してくれるのは分かった。ありがとう」
ローランは拍子抜けしたように瞬きをした。
「でも、俺は大丈夫だ。いつも通りやるさ」
「……お前、本当に」
ローランは何かを言いかけて、ぐっと言葉を飲み込んだ。
「——分かったよ、僕の負けだ。でも、絶対に無理はするなよ」
「しないさ」
二人で並んで廊下を歩く。
周囲からの好奇と畏怖の視線は相変わらず降り注いでいたが、ヴァンはそれをただの風景として受け流した。
授業の内容は、まったく頭に入ってこなかった。
教官が教壇で戦術理論を語り、黒板に陣形の図を描き、生徒たちが熱心に頷いている。
ヴァンの視線は前を向いていたが、焦点はどこにも合っていなかった。
(次に、何をする)
俺のせいで、二人が死んだ。
底なし沼のような問いが、頭の奥で繰り返される。
黒幕はまだ生きている。大元帥からの「勲章」という名の政治的利用。フィロメラ工房を巡る水面下の争いは、何一つ終わっていない。
母親の本当の死因も、依然として謎のままだ。
もし——母親も、今回の俺のように仕組まれて殺されたのだとしたら。
そこまで考えて、思考の歯車が軋みを上げて止まった。
(……分からない)
分からないまま手探りで動けば、またディーターやブルーノのように、誰かが死ぬかもしれない。
では、動かなければいいのか?
それでも、盤上の駒である以上、誰かが犠牲になるかもしれない。
(どちらにしても——)
鋭い鐘の音が、ヴァンの思考を現実に引き戻した。
無言で立ち上がり。
喧騒に包まれる廊下に出て、彼の足が自然と向かった先は——図書館だった。
(一人で、静かに考えたかったのか)
(それとも——誰かに会いたかったのか)
自分でも答えは出ないまま、図書館の重い扉を押し開けた。
高い天井。整然と並んだ書架。高い窓から差し込む、埃の舞う柔らかな昼の光。
ヴァンは迷うことなく、奥の行き止まりの席へと歩を進めた。
いつもの場所。
机の上には、見慣れた金属部品が散らばっている。
小さな歯車、磨き上げられた魔導関節のパーツ、余白に計算式が書き殴られた設計図。
そして——その向こうに、華奢な人影があった。
「——」
気配に気づき、人影が顔を上げた。
陽の光を知らないような蒼白な肌。おっとりとした、だが酷く怯えたような瞳。制服の上に無造作に羽織られた上着。
彼女の細い指先には、今日も不器用に絆創膏が貼られていた。
ヴァンと目が合った瞬間、彼女はバネのように弾かれたように立ち上がった。
ガタンッ!
勢い余って椅子が後ろに倒れ、静かな図書室に派手な音を立てる。
「あ……っ、えとっ……!」
彼女の小さな唇が、震えながら開いた。
「ヴァン・ラーク、さん……っ」
ヴァンはピタリと足を止めた。
(——ラーク)
名前。本名だ。
「ローラン」という偽名ではなく。
一拍、呆気に取られたが、すぐに合点がいった。
まあ、当然だ。あれだけ大通りで派手な騒ぎを起こし、「英雄」だのと持て囃されれば、偽名など一瞬で吹き飛ぶ。
事情を説明しようと口を開きかけた。
だが、リヴィアの方が先だった。
彼女は倒れた椅子を直すのも忘れ、小さな足でこちらへ向かって歩いてくる。
おっかなびっくりの足取りで。
それでも、まっすぐこちらへ歩いてくる。
ヴァンの目の前で、ちょこんと止まった。
「……あのっ」
上目遣いに、潤んだ瞳でヴァンを見上げる。
「お怪我……だいじょうぶ、でしたか……っ?」
ヴァンは、思わずパチクリと瞬きをした。
偽名を名乗っていたことに怒っている様子はない。
正体を隠していたことを問い詰めようとする気配も、微塵もない。
ただ——痛々しい包帯姿のヴァンを、心の底から心配している。
それだけが、彼女の不器用な態度からはっきりと伝わってきた。
「……ああ」
ヴァンは毒気を抜かれ、ぽりぽりと後頭部を掻いた。
「もう大丈夫だ。少し休めば治るさ」
「そう、ですか……っ。よかった、です……」
リヴィアは胸を撫で下ろし、小さく息を吐いた。
強張っていた彼女の肩から、すとんと力が抜けたのが分かった。
(なんだろうな、こいつの前にいると)
不思議と、力が抜ける。
気を張らなくていい。盤面を読まなくていい。
ただ、ここにいてもいい——そんな気がした。
「……ごめん。騙してたな」
ヴァンは素直に頭を下げた。
「ずっと『ローラン』って名乗ってた。本当の名前は、ヴァンだ」
すると、リヴィアが猛烈な勢いで首を横に振った。
銀糸のような髪がバサバサと揺れる。
「ち、違いますっ! いえ、違わなくはない、ですけどっ。その……!」
彼女は必死に言葉を探し、指先をぎゅっと握りしめた。
「わたしもっ、その、ちゃんと自分のこと、言えなかったですし……っ。それより、わたしの方が、謝らなくちゃいけなくて……っ!」
「謝る?」
「その、婚約をっ……わたしの勝手で、一方的に、なしにしてしまって……!」
「婚約」
ヴァンは片方の眉を跳ね上げた。
反射的に、彼の優秀な頭脳の奥で、散らばっていた情報が猛烈な勢いで結びつき始めた。
婚約。
身に覚えのない理由で突然破談になった、あの政略結婚。
相手は、軍務総長ロルフ・リンドガルドの令嬢。
その名前は、たしか——リヴィア・リンドガルド。
数秒の、完全な沈黙。
ヴァンの思考が、完全に止まった。
「……え?」
リヴィアが、不思議そうにこちらを見上げている。
「お前——リヴィア・リンドガルド、なのか?」
リヴィアは、ビクッと肩を跳ねさせると、恐る恐る、こくりと頷いた。
ヴァンの目が、限界まで見開かれる。
「…………」
「…………あ、の……怒って、ますか……っ?」
「——ちょっと待ってくれ」
ヴァンは頭を抱えるように、額に手を当てた。
「図書館で、いつも模型をいじってて、俺と一緒に話してた『リリア』……お前が、あの軍務総長の娘で……」
「は、はい……っ」
「俺が婚約しようとして、直前で破談になった相手、リヴィア・リンドガルドが……」
「……はい」
「今、目の前にいるお前、なのか?」
「…………はい、ですっ」
ヴァンは、ゆっくりと図書館の高い天井を仰ぎ見た。
絶句。
今の彼からは、気の利いた言葉など、何一つ出てくるはずがなかった。
【第三十九章・終】
そんな中での再会でしたが、
リヴィアの方は相変わらずというか……
ある意味、安心するような空気でした。
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