表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

42/111

第三十八章:墓前の食卓

何かが終わったあと、

気持ちがすっきりするとは限りません。


むしろ、

拍子抜けするほど静かだったり、

何も残らなかったりすることもあります。


今回は、そんな「終わったあとの時間」の話です。

ワイルドは人混みを歩きながら、ヴァンの隣で声を潜めた。


「マルクス・ソル閣下とルキウス・ソル閣下。昨朝のうちに、それぞれの軍区へ戻られたとのことでさァ」


「展開が速いな」


「大元帥閣下の御命令とのことで」


ヴァンは前を向いたまま、短く思考を巡らせた。

二人を政争から引き離し、守るための措置か。それとも、大元帥自身の手元を固めるためか。あるいは——その両方か。


「報告は以上でさァ。何かご入用でしたら——」


「ああ、助かった」


ワイルドが軽く頭を下げ、雑踏の中へ溶けるように消えていった。

ヴァンは一人、大通りを歩き続けた。


じくり、と右腕が疼いた。

次に、肋骨の奥。続いて、全身の魔導回路が悲鳴を上げ始める。


魔薬の効果が、静かに切れていく。

ヴァンは路傍の石段を見つけ、重い腰を下ろした。


目の前を、帝都の日常が行き交っている。

ヴァンはそれを、ただ遠いものとして眺めていた。


(仇は、取った)

そう思ったのに。

胸の中は、奇妙なほど静かだった。


何もなかった。

怒りが消えた後に残ったのは、ただの静けさだった。

達成感もない。安堵もない。


仇を取ろうが、ディーターとブルーノは死んだままだ。

自分がどれほど頭を回しても、もう二度と彼らが笑うことはない。


ヴァンは外套越しに石段の冷たさを感じながら、しばらくの間、動くことができなかった。

帝都の空が、血のような夕焼けに染まり始めていた。




屋敷に戻ると、食堂にはすでに温かい灯りがともっていた。

ベルンハルトと、フリーダ、エレナが、食卓についている。

ヴァンが足を引きずりながら椅子を引いて座ると、三人の視線が痛いほど集まった。


エレナの唇が、何かを問おうと微かに開く。

だが、ベルンハルトが静かに首を横に振った。エレナは悔しそうに唇を噛み、伏し目がちになった。


「——傷は」

しばらくの沈黙の後、エレナが消え入るような声で尋ねた。


「少し開いたが、大したことはない」


「……そう」


隣に座るフリーダが、無言で温かいスープの器をヴァンの前にそっと押し出した。

交わされた言葉は、それだけだった。


食卓に、温かい料理が並ぶ。

四人で匙を動かす。ヴァンはほとんど言葉を発さなかった。

機械的にスープを胃に流し込み、硬いパンを噛み砕き、水を飲む。ただ、それだけを繰り返した。


「——父上」

食事が半ばを過ぎた頃、ヴァンがぽつりと口を開いた。


ベルンハルトが顔を上げる。


「厨房に頼んで、少し見栄えのいい料理を見繕ってもらえないか。持ち出せるように包んでほしい」


「……今夜、出歩くのか」


「少しだけ」


カチャリ、とエレナが匙を置いた。


「兄さん……ダメです。傷が開いています。それに、今日だけで色々なことがありすぎました。せめて今夜は、私が手当てを——」

エレナがヴァンの袖を掴みかけたその時。


「エレナ」

ベルンハルトの低く、静かな声がそれを制した。


「……っ」

エレナは行き場を失った手を強く握りしめ、悔しそうに膝の上に置いた。



ベルンハルトはヴァンの目を真っ直ぐに見据えた。


「自分の身の面倒は、自分で見られるか」


「はい」


短い沈黙。


「——支度させてこい。骨付き肉と煮込み、黒パン。…… 酒も一つ、付けてやれ」

ベルンハルトが控えの従者に向けて顎をしゃくった。

エレナは黙って視線を落とした。彼女の指先が、膝の上でスカートの布地をきつく握りしめているのが見えた。


食卓を立つ前、ヴァンはエレナにだけ聞こえる声で言った。

「遅くはならない。心配するな」


「……お気をつけて」


ヴァンが玄関を出て行った後。エレナはたまらず、父の背中に声を投げた。

「お父様……本当に護衛もつけずに、兄さんを一人で行かせてよろしいのですか? 刺客が、また……」


ベルンハルトの返事は、確信に満ちていた。

「案ずるな。あいつはもう、ただの『隙だらけの軍校生』ではない。白昼堂々、大元帥閣下から直接勲章を授与された『政治的な人間』だ。今のあいつに迂闊な暗殺を仕掛けるほど、帝都の連中も馬鹿ではないさ」


フリーダがエレナの震える手をそっと包み込み、柔らかく囁いた。

「きっと、無事に帰ってきますわ。祈っておきましょう」




食料の包みを提げ、ヴァンは帝都の外縁にある薄暗い雑貨街へと寄り道をした。

埃を被った棚の前で、少し立ち止まる。

そこには、粗悪な包み紙に覆われた、安価なチョコレートが雑然と積まれていた。


見るからに安っぽく、泥のように不味いと不評の代物。

——あの日、ディーターが食べていた銘柄だ。

ヴァンは一枚、手に取った。


帝都の重厚な外壁を抜けた先に、広大な軍人墓地は広がっていた。

黄昏が落ち、夜の帳が下りかけた空の下。冷たい石碑が、どこまでも規則正しく並んでいる。

どれも似たような大きさで、似たような簡素な作りだった。

名もなき大部分の士卒たちが、同じように使い捨てられ、同じように眠っている場所。

ヴァンは区画の奥へと歩を進めた。

土の匂いがまだ新しい、二つの石碑が並んでいた。


「——よう」


ヴァンは湿った草の上に腰を下ろした。

二つの碑を、交互に見つめる。


「魔法なんていう便利なものがある世界なのに、死者を蘇らせる復活術の一つもないのかよ」


夜風が、冷たく草を揺らした。


「おかしいよな。魔力で何でもできそうなのに、死んだらそれまでだ。……ゲームより理不尽じゃないか」


誰も答えない。


ヴァンは包みを開いた。

骨付きの炙り肉。硬く焼き上げられた黒パン。塩漬け肉と豆を煮込んだシチュー。厨房特製の、素朴な林檎の焼き菓子。

一つずつ、丁寧に石碑の前に並べていく。


「言っただろ。ちゃんとした美味いもんを食わせてやるって」


肉を並べる手が、少しだけ震えた。

「——随分と遅くなっちまったが」


石碑の冷たい表面を、じっと見つめる。

「食ってくれ」


しばらくの間、ヴァンは動けなかった。

空が完全に暗くなり、星が瞬き始める。


ヴァンは懐から、先ほど買った安物のチョコレートを取り出した。

包み紙を乱暴に破る。


「……こんな泥みたいに不味い安物、どこがよかったんだか」


ヴァンはそれを口には運ばなかった。食べる気にはなれなかった。

そのまま、ディーターの碑の前に、一番目立つようにそっと置いた。


立ち上がり、隣の碑を見る。

ブルーノ。


「……お前は」


声が、そこで詰まった。

ヴァンは黙り込み、石碑を見下ろした。


何が好きだったのか。何が嫌いだったのか。

話しかけようとしても、言葉の引き出しが完全に空っぽだった。

どんな顔で本心から笑うのか。休みの日は何をするのか。故郷には誰がいるのか。

知らないことだらけだった。


「——悪かったな」


低く、短く。

ヴァンは左胸に手を当てた。


今日、ガイウスの立ち会いのもとで授けられたばかりの、真新しい銀の勲章。

それを、留め金から乱暴に外した。

しばらくの間、手の平の上で冷たい銀の感触を確かめる。


「これ、俺のじゃない」

ブルーノの石碑の台座に、そっとそれを置いた。

「お前たちのだ。持っていけ」


夜風が吹き抜け、墓地の草木がざわめいた。


ヴァンはディーターの碑の方を向いて、少しだけ意地悪く言った。

「お前には大好きなチョコレートを渡したからな。勲章はブルーノにやった。文句あるか?」


答えはない。

「……ないよな」


もう一度、両方の碑を見た。

何か気の利いた別れの言葉を言おうとして——やめた。

今の自分に、そんな資格はない。


「……また来る」


それだけ言い残し、ヴァンは立ち上がった。

夜闇に沈む墓地の出口へと歩き出す。

一度も、振り返らなかった。




屋敷の自室に戻ったのは、夜半近くだった。


体が鉛のように重い。

負傷、魔薬の反動、そして精神的な疲労。そのすべてが一気に圧し掛かってくる。

水盆の冷たい水で顔を洗い、雑に包帯を巻き直して、そのまま寝台に倒れ込んだ。


目を閉じる。

眠れるかどうかは分からない。


それでも——ディーターとブルーノの顔は、さっきよりも少しだけ、遠くなった気がした。


寝返りを打ち、窓の方へ顔を向ける。

雲の切れ間から差し込んだ月明かりが、床を薄青く照らしていた。

ふと、窓のそばに。

影が、あった。


ヴァンの目が、ゆっくりと見開かれる。

冷気を纏ったような、一糸乱れぬ佇まい。

月光を背に受け、その人物は音もなく、ただ静かに立っていた。

顔を覆う、白い仮面。


「——ッ」

ヴァンはバネのように身を起こした。

思わず、息を呑んだ。




【第三十八章・終】

仇を取ったからといって、

何もかも元通りになるわけではない。


今回は少し静かな回でしたが、

ヴァンにとっては大事な時間だったのかもしれません。


面白いと感じていただけたら、フォローや★評価で応援よろしくお願いします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ